2:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2020/11/08(日) 08:54:36.34 :FQVp12gN0
序
遠い彼方の 煌めき見つめ
少女は歌う 高く高く
届かぬ声を もっと夢方へ
あけの明星 今いずこ
(「四行連詩集」古アラブ編より)
アパートに手紙が届いたのは夏のことだった。
ライラは迷いつつ、躊躇いつつ、一読したそれをそっと机にしまった。
あなたは幸せ者 ―― そう言われて育つことは、はたして幸せだろうか。
彼女には今、何が必要なのだろうか。
序
遠い彼方の 煌めき見つめ
少女は歌う 高く高く
届かぬ声を もっと夢方へ
あけの明星 今いずこ
(「四行連詩集」古アラブ編より)
アパートに手紙が届いたのは夏のことだった。
ライラは迷いつつ、躊躇いつつ、一読したそれをそっと机にしまった。
あなたは幸せ者 ―― そう言われて育つことは、はたして幸せだろうか。
彼女には今、何が必要なのだろうか。
3:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2020/11/08(日) 08:56:37.21 :FQVp12gN0
Ⅰ セイハロー・フロム・ホームタウン
「明日世界が終わるなら」なんて例えを出さずとも、今日を全力で生きる意味はある。
(黒川千秋/アイドル)
「ありがとうございますですよー。これからもよろしくお願いします♪」
いっぱいの笑顔と握手でお応え。もうそろそろ人の流れも終盤に入った頃だが、会場の熱気はまだ冷めやらぬまま。そんな中、ひとりひとりに精一杯の感謝を伝えようと奮闘するライラ。額に光る大粒の汗が彼女の頑張りをよく物語っている。もっともそれは、この握手会の前にわずか数曲とはいえ、歌って踊って今に至るからでもあるのだけど。
音楽ショップでのミニライブ、そしてその後に行われる握手会。今回はライラの他にも事務所の子が数名、同じタイミングで新曲を発表したということで合同のイベントとなった。それぞれのファンが相伴ったこともあり、決して広いとは言い難いショップ内のステージ周辺は既に開幕前から満員御礼状態。連日のように四十度にも迫ろうかという酷暑が続くここ最近、それを一時でも忘れさせてくれるくらい空調の効いた建物内ではあったのだけど、ステージの熱気はそれを上回るほどだった。盛り上がったのは喜ばしいとはいえ、そうなると来場者たちの安全管理にも平時以上に気をつけなくてはいけないところ。事前準備含め、スタッフやプロデューサーも後ろであれやこれやといつも以上に忙しく動き回る一日となった。とはいえそれはそれ、「ライラは全力で笑顔とキラメキを振りまいておいで。周囲の心配ごとはこちらがきちんと準備も対応もするから」と言葉をもらい、ライラはステージに、そして握手会の現場に立っている。役割というものはそれぞれにあって、支え合いや助け合いの上で今の自分がいる。それを最近感じることが多い彼女にとって、プロデューサーは頼もしく、嬉しい存在だった。
ライブ最高でした、笑顔がかわいいですね、まちあるきの番組観ました……などなど、握手の際にファンからもらう言葉も様々で、そしてとっても暖かい。そんな中で、少し珍しい報告をするファンが現れた。
「ライラさん、僕このあいだドバイ行ったんですよ! とっても素敵でした!」
「おー、ライラさんの故郷ですね。お仕事ですか? それとも旅行でしょうか」
予想していなかったタイミングで故郷の名を聞いて自然と目がきらめいたライラ。
「いやぁ、なんというか……ライラさん好き! ライラさんをもっと知りたい! って気持ちが高じてドバイに行っちゃったというか……とにかく、今日会えてよかったです!」
「……? 素敵だったのでしたら嬉しいですねー。そして今日来てくださったことも、ありがとうございますですね♪」
がっちりと握手を交わす。ライラの質問に対して的を射ない返答の彼ではあったが、ともかく熱心なファンであること、ドバイが素敵だと言ってもらえたことは彼女の記憶に残った。やっぱり受け答えって難しいな、これまでの人とも話はできていたつもりだったけど……ちゃんとできていたのかな? と戸惑うライラの姿がそこにはあった。
「そうなんですよ、輝く青春のジュブナイルってところがすごく大事で!」
隣では同じ事務所の長富蓮実がファンとの応対中。蓮実の言葉はライラにとってまだまだ難しかったりする。誰かの有名な言葉だったり、流行っている言葉だったり……らしいのだけど、それは事務所に置いてあるアイドル情報誌や雑誌にはあまり載っていないもので。でも彼女の前に並ぶ人々は、ちゃんと彼女と合言葉を付き合わせるように笑顔でそういう話をしている。ファンだからこそわかる世界なのかもしれない。アイドルは奥が深い、と思いながらその様子を眺めていた。
「そのくらい、好きって言いたいんだよ」
イベント終了後、控え室。着替え終わって片付けに入ったところで、今日の握手会でのドバイの一幕についてプロデューサーに話すライラ。熱心なファンがいたんだね、とプロデューサーは言ってくれた。
「お気持ちはとても嬉しいですねー。でもライラさんのためにドバイへ、というのは少しわからないというか……。ライラさんとはこうして東京でお会いしているわけで、ドバイに行ったところで会えませんでので……ちょっと不思議ですねー」
首を傾げ様子を伺うライラを微笑ましく見るプロデューサー。ライラは少しだけ傾くポーズをするクセがある。きょとんとした表情と相まって、かわいらしい。
「プロデューサー殿も、好きな人のために、その故郷へ行ったりしますですか?」
「うーん、その人と会えるなら行くけど、『場所』へは行かないかもしれないね」
ライラの問いかけに丁寧に答えるプロデューサー。あくまで僕の場合だけどね、と補足しつつ。
「でも好きの形はいろいろだから。表現の仕方も、在り方も様々」
信仰における追体験みたいなものかもね、というプロデューサーの説明でライラも少し納得の様子を見せた。追体験。vicarious experience. むかし読んだ本に書かれていた気がする、と記憶を辿りながら。
言葉を反芻しつつライラは思う。確かにそう考えるとファンのお兄さんなりの、情熱ゆえの、ひとつの形なのかもしれない。もっとも、それほどの想いに自分が応えるためには、もっともっとレベルアップしなければいけないのだろうけど。
「……好き、ですか」
再び言葉を噛みしめるライラ。何気ない一言だけど、それはとっても奥深い。
「まぁ何はともあれ」
プロデューサーの手がライラの髪にそっと触れた。
「歌もダンスもバッチリだったんだから、今日はまずそのことを素直に喜ぶべきだし、自分を褒めてあげようね。少しずつ成長しているし、ライラらしい輝きもいっぱいあったよ。それを大切にしようね」
頭を撫でてくれるプロデューサーの優しい手が、ライラは大好きだった。えへへ、とはにかんでみせた。
Ⅰ セイハロー・フロム・ホームタウン
「明日世界が終わるなら」なんて例えを出さずとも、今日を全力で生きる意味はある。
(黒川千秋/アイドル)
「ありがとうございますですよー。これからもよろしくお願いします♪」
いっぱいの笑顔と握手でお応え。もうそろそろ人の流れも終盤に入った頃だが、会場の熱気はまだ冷めやらぬまま。そんな中、ひとりひとりに精一杯の感謝を伝えようと奮闘するライラ。額に光る大粒の汗が彼女の頑張りをよく物語っている。もっともそれは、この握手会の前にわずか数曲とはいえ、歌って踊って今に至るからでもあるのだけど。
音楽ショップでのミニライブ、そしてその後に行われる握手会。今回はライラの他にも事務所の子が数名、同じタイミングで新曲を発表したということで合同のイベントとなった。それぞれのファンが相伴ったこともあり、決して広いとは言い難いショップ内のステージ周辺は既に開幕前から満員御礼状態。連日のように四十度にも迫ろうかという酷暑が続くここ最近、それを一時でも忘れさせてくれるくらい空調の効いた建物内ではあったのだけど、ステージの熱気はそれを上回るほどだった。盛り上がったのは喜ばしいとはいえ、そうなると来場者たちの安全管理にも平時以上に気をつけなくてはいけないところ。事前準備含め、スタッフやプロデューサーも後ろであれやこれやといつも以上に忙しく動き回る一日となった。とはいえそれはそれ、「ライラは全力で笑顔とキラメキを振りまいておいで。周囲の心配ごとはこちらがきちんと準備も対応もするから」と言葉をもらい、ライラはステージに、そして握手会の現場に立っている。役割というものはそれぞれにあって、支え合いや助け合いの上で今の自分がいる。それを最近感じることが多い彼女にとって、プロデューサーは頼もしく、嬉しい存在だった。
ライブ最高でした、笑顔がかわいいですね、まちあるきの番組観ました……などなど、握手の際にファンからもらう言葉も様々で、そしてとっても暖かい。そんな中で、少し珍しい報告をするファンが現れた。
「ライラさん、僕このあいだドバイ行ったんですよ! とっても素敵でした!」
「おー、ライラさんの故郷ですね。お仕事ですか? それとも旅行でしょうか」
予想していなかったタイミングで故郷の名を聞いて自然と目がきらめいたライラ。
「いやぁ、なんというか……ライラさん好き! ライラさんをもっと知りたい! って気持ちが高じてドバイに行っちゃったというか……とにかく、今日会えてよかったです!」
「……? 素敵だったのでしたら嬉しいですねー。そして今日来てくださったことも、ありがとうございますですね♪」
がっちりと握手を交わす。ライラの質問に対して的を射ない返答の彼ではあったが、ともかく熱心なファンであること、ドバイが素敵だと言ってもらえたことは彼女の記憶に残った。やっぱり受け答えって難しいな、これまでの人とも話はできていたつもりだったけど……ちゃんとできていたのかな? と戸惑うライラの姿がそこにはあった。
「そうなんですよ、輝く青春のジュブナイルってところがすごく大事で!」
隣では同じ事務所の長富蓮実がファンとの応対中。蓮実の言葉はライラにとってまだまだ難しかったりする。誰かの有名な言葉だったり、流行っている言葉だったり……らしいのだけど、それは事務所に置いてあるアイドル情報誌や雑誌にはあまり載っていないもので。でも彼女の前に並ぶ人々は、ちゃんと彼女と合言葉を付き合わせるように笑顔でそういう話をしている。ファンだからこそわかる世界なのかもしれない。アイドルは奥が深い、と思いながらその様子を眺めていた。
「そのくらい、好きって言いたいんだよ」
イベント終了後、控え室。着替え終わって片付けに入ったところで、今日の握手会でのドバイの一幕についてプロデューサーに話すライラ。熱心なファンがいたんだね、とプロデューサーは言ってくれた。
「お気持ちはとても嬉しいですねー。でもライラさんのためにドバイへ、というのは少しわからないというか……。ライラさんとはこうして東京でお会いしているわけで、ドバイに行ったところで会えませんでので……ちょっと不思議ですねー」
首を傾げ様子を伺うライラを微笑ましく見るプロデューサー。ライラは少しだけ傾くポーズをするクセがある。きょとんとした表情と相まって、かわいらしい。
「プロデューサー殿も、好きな人のために、その故郷へ行ったりしますですか?」
「うーん、その人と会えるなら行くけど、『場所』へは行かないかもしれないね」
ライラの問いかけに丁寧に答えるプロデューサー。あくまで僕の場合だけどね、と補足しつつ。
「でも好きの形はいろいろだから。表現の仕方も、在り方も様々」
信仰における追体験みたいなものかもね、というプロデューサーの説明でライラも少し納得の様子を見せた。追体験。vicarious experience. むかし読んだ本に書かれていた気がする、と記憶を辿りながら。
言葉を反芻しつつライラは思う。確かにそう考えるとファンのお兄さんなりの、情熱ゆえの、ひとつの形なのかもしれない。もっとも、それほどの想いに自分が応えるためには、もっともっとレベルアップしなければいけないのだろうけど。
「……好き、ですか」
再び言葉を噛みしめるライラ。何気ない一言だけど、それはとっても奥深い。
「まぁ何はともあれ」
プロデューサーの手がライラの髪にそっと触れた。
「歌もダンスもバッチリだったんだから、今日はまずそのことを素直に喜ぶべきだし、自分を褒めてあげようね。少しずつ成長しているし、ライラらしい輝きもいっぱいあったよ。それを大切にしようね」
頭を撫でてくれるプロデューサーの優しい手が、ライラは大好きだった。えへへ、とはにかんでみせた。
4:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2020/11/08(日) 08:59:19.54 :FQVp12gN0
* * * * *
「なかなかすごいファンもいたもんだな」
「ですねー。好きだからということですので、もちろん嬉しいのですが」
事務所の休憩スペース。ようやく今日の予定をすべて終えたライラは、レッスン終わりの池袋晶葉と合流、ドリンク片手にのんびりタイムとなった。
ライラは晶葉と特に縁が深い。今でこそ友達も増えたが、事務所のアイドルで最初に知り合ったのが晶葉だったし、歳も近くて気心の知れた存在だ。ここに来て間もない頃、デスクに部品を広げ、妙ちくりんなロボットを組み立てていた彼女に声を掛けたのが始まりだった。何を作っているのですかと問われた晶葉は声のする方に一度視線を向け、丁寧に説明するでも反応を拒否するでも、また自己紹介をするでもなく、「これはな、きっと凄いものができるぞ」とだけ答えた。冷静に言えばこの受け答えも不器用極まりないのだが、それに対するライラの返答は「それは素敵ですねー」だった。そう言って隣に腰を下ろすライラが、晶葉には妙に嬉しかった。ほどなくして二人はごく自然に会話をするようになった。これまでもずっと友達だったかのように。
晶葉もまた、ライラをひときわ大切な友人と思っている。晶葉が事務所で機械をいじっているところにしばしば現れて、その姿を眺めながらいつも隣でニコニコしている。今日あったことを話したり、簡単な手伝いをしてくれたり。とにかく肩肘を張ることのない、気楽な関係なのだ。別段、何かがすごく分かり合えたとか意気投合したというわけではない。けれどお互いにとって居心地のいい、素敵な仲間といえる存在だ。
―― このキラキラとドキドキのすべてを、みなさんにお届けします!
マグカップの水面に視線を落とすライラ。今日のライブや握手会の記憶をぼんやりと思い起こしていると、長富蓮実の明るいセリフがいくつも浮かぶ。まぶしくて、華やかで、かわいい笑顔。ともに駆け出しのアイドルとはいえ、もとよりアイドル文化に思い入れの強かった彼女には、やっぱりいろんな違いを見せられる。知識が豊富だったり、細かなこだわりがあったり、ファンとの意思疎通もバッチリだったり……。言葉や文化の歴差はもちろんあるんだけど、そういうことではなくて、彼女はもっと彼方を歩いているような気がした。うまく説明はできないけれど、アイドルらしく素敵、というのは彼女のようなタイプを言うのかも、などと思った。
憧れの世界に自らの足で立つのはいっとう素敵なことだ。そうした夢を描いてやってくる人は少なくないとライラも聞いている。自分はそうではないけれど、そこに並んで、歌ったり踊ったりさせてもらえることは光栄だし、せめて、できることはしっかりこなしていきたい。ここ最近、ライラはそういうことをしばしば考えている。……と同時に、自分は何を憧れ、何を求めていくのだろう、いつまでそうしていられるのだろう、などとも思案してしまう。それは彼女にとって、少しだけ胸が締め付けられるような錯覚に陥ることでもあった。
―― 今はちょうど蓮実の季節、なんですよ! なーんて♪
蓮実の軽やかな声が再び頭を巡ったところでふと思い出したライラ。そうだ、気になった言葉があったんだった、と。
「そういえばアキハさん、今はハスミさんのキセツ……らしいのですが、そういうのがあるんですか?」
「季節? んー……? ああ、あれかな。七十二候とかいうやつかな」
少し離れた机のキーボードに無理やり手を伸ばし、素早く文字を打ち込む晶葉。椅子を寄せればいいだけなのにズボラなのか、伸びをする猫のような歪な格好で画面と向き合う形になっている。身体が引っ張られているせいで、ご自慢の白衣の下ではおへそがチラリと出てしまっているのだが、その辺りを気にする様子はまるでないのが晶葉らしい。「椅子の上で胡座をかくのは行儀よくないぞ」とプロデューサーに注意されたのもつい最近のことだが、直る見込みがあるかは疑わしい。せくしーですね、と眺めて笑うライラ。とりあえず飲みかけのコーヒーがこぼれないよう、そっと動かして反応を待った。
「これのことだな」
晶葉がウェブページを開いて説明してくれた。テキストによれば、七十二候という中国由来の暦に「蓮始開」というのがあるとのこと。二十四節気では「小暑」の中頃、七月十二〜十六日に当たる。ちょうど今だ。
「私もこういう歳時記的なことには疎いからなぁ。今がそうなんだな」
「蓮のお花も咲く頃ということでございますかねー?」
まぁ蓮の花は八月にさしかかる頃が本番かもしれないけどな、と晶葉が返す。時期というのは必ずしも合致はしない。今年も例年以上の猛暑になると言われているし、毎年変わるものだ。
「でもそうやって、ご縁のある言葉を大切にするのはイイことですねー」
「まぁ、そうだな」
名前は自分が背負って生きていくものだ。それが似合っているかどうかではなく、そこに縁を感じて生きる。それは素敵なことだ。そう思いつつ、ライラは目の前の晶葉を見つめる。人工知能と同じ頭文字を持つ彼女が機械に明るいのもまた不思議な縁なのかもしれない。……では翻って、自分はどうだろう。千夜一夜、たくさんの物語を紡いでいける人であるだろうか、などと。
ふぅ、と小さなため息をひとつ。ライラ、十六歳の夏。
* * * * *
「なかなかすごいファンもいたもんだな」
「ですねー。好きだからということですので、もちろん嬉しいのですが」
事務所の休憩スペース。ようやく今日の予定をすべて終えたライラは、レッスン終わりの池袋晶葉と合流、ドリンク片手にのんびりタイムとなった。
ライラは晶葉と特に縁が深い。今でこそ友達も増えたが、事務所のアイドルで最初に知り合ったのが晶葉だったし、歳も近くて気心の知れた存在だ。ここに来て間もない頃、デスクに部品を広げ、妙ちくりんなロボットを組み立てていた彼女に声を掛けたのが始まりだった。何を作っているのですかと問われた晶葉は声のする方に一度視線を向け、丁寧に説明するでも反応を拒否するでも、また自己紹介をするでもなく、「これはな、きっと凄いものができるぞ」とだけ答えた。冷静に言えばこの受け答えも不器用極まりないのだが、それに対するライラの返答は「それは素敵ですねー」だった。そう言って隣に腰を下ろすライラが、晶葉には妙に嬉しかった。ほどなくして二人はごく自然に会話をするようになった。これまでもずっと友達だったかのように。
晶葉もまた、ライラをひときわ大切な友人と思っている。晶葉が事務所で機械をいじっているところにしばしば現れて、その姿を眺めながらいつも隣でニコニコしている。今日あったことを話したり、簡単な手伝いをしてくれたり。とにかく肩肘を張ることのない、気楽な関係なのだ。別段、何かがすごく分かり合えたとか意気投合したというわけではない。けれどお互いにとって居心地のいい、素敵な仲間といえる存在だ。
―― このキラキラとドキドキのすべてを、みなさんにお届けします!
マグカップの水面に視線を落とすライラ。今日のライブや握手会の記憶をぼんやりと思い起こしていると、長富蓮実の明るいセリフがいくつも浮かぶ。まぶしくて、華やかで、かわいい笑顔。ともに駆け出しのアイドルとはいえ、もとよりアイドル文化に思い入れの強かった彼女には、やっぱりいろんな違いを見せられる。知識が豊富だったり、細かなこだわりがあったり、ファンとの意思疎通もバッチリだったり……。言葉や文化の歴差はもちろんあるんだけど、そういうことではなくて、彼女はもっと彼方を歩いているような気がした。うまく説明はできないけれど、アイドルらしく素敵、というのは彼女のようなタイプを言うのかも、などと思った。
憧れの世界に自らの足で立つのはいっとう素敵なことだ。そうした夢を描いてやってくる人は少なくないとライラも聞いている。自分はそうではないけれど、そこに並んで、歌ったり踊ったりさせてもらえることは光栄だし、せめて、できることはしっかりこなしていきたい。ここ最近、ライラはそういうことをしばしば考えている。……と同時に、自分は何を憧れ、何を求めていくのだろう、いつまでそうしていられるのだろう、などとも思案してしまう。それは彼女にとって、少しだけ胸が締め付けられるような錯覚に陥ることでもあった。
―― 今はちょうど蓮実の季節、なんですよ! なーんて♪
蓮実の軽やかな声が再び頭を巡ったところでふと思い出したライラ。そうだ、気になった言葉があったんだった、と。
「そういえばアキハさん、今はハスミさんのキセツ……らしいのですが、そういうのがあるんですか?」
「季節? んー……? ああ、あれかな。七十二候とかいうやつかな」
少し離れた机のキーボードに無理やり手を伸ばし、素早く文字を打ち込む晶葉。椅子を寄せればいいだけなのにズボラなのか、伸びをする猫のような歪な格好で画面と向き合う形になっている。身体が引っ張られているせいで、ご自慢の白衣の下ではおへそがチラリと出てしまっているのだが、その辺りを気にする様子はまるでないのが晶葉らしい。「椅子の上で胡座をかくのは行儀よくないぞ」とプロデューサーに注意されたのもつい最近のことだが、直る見込みがあるかは疑わしい。せくしーですね、と眺めて笑うライラ。とりあえず飲みかけのコーヒーがこぼれないよう、そっと動かして反応を待った。
「これのことだな」
晶葉がウェブページを開いて説明してくれた。テキストによれば、七十二候という中国由来の暦に「蓮始開」というのがあるとのこと。二十四節気では「小暑」の中頃、七月十二〜十六日に当たる。ちょうど今だ。
「私もこういう歳時記的なことには疎いからなぁ。今がそうなんだな」
「蓮のお花も咲く頃ということでございますかねー?」
まぁ蓮の花は八月にさしかかる頃が本番かもしれないけどな、と晶葉が返す。時期というのは必ずしも合致はしない。今年も例年以上の猛暑になると言われているし、毎年変わるものだ。
「でもそうやって、ご縁のある言葉を大切にするのはイイことですねー」
「まぁ、そうだな」
名前は自分が背負って生きていくものだ。それが似合っているかどうかではなく、そこに縁を感じて生きる。それは素敵なことだ。そう思いつつ、ライラは目の前の晶葉を見つめる。人工知能と同じ頭文字を持つ彼女が機械に明るいのもまた不思議な縁なのかもしれない。……では翻って、自分はどうだろう。千夜一夜、たくさんの物語を紡いでいける人であるだろうか、などと。
ふぅ、と小さなため息をひとつ。ライラ、十六歳の夏。
5:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2020/11/08(日) 09:00:04.65 :FQVp12gN0
「ライラ、このあと時間あるかな? ちょっと打ち合わせができたらと思うんだけど」
「はいです、大丈夫ですよー」
別日。予定を終えて休憩スペースへ戻ったライラは、プロデューサーに声を掛けられた。そばにはトレーナーの青木明も一緒で、何やら話し込んでいた様子。特訓でも始まるのだろうか、と資料を覗き込むように二人の間に入るライラ。
「いま明さんと話してて、次回からのレッスンで新しいプログラムを覚えていこうってことになってね」
「おお、そうなのですね」
「はい。少しずつですけど、レベルアップを図る頃だと思って」
トレーナーが補足する。快活でかわいらしい雰囲気をメインとしたダンスを一部変更して、しなやかさや美しさといった表現力を学ぶ時間を増やしていくという。
「おー、まさしく新しいことですねー」
挑戦させてもらえることは嬉しい。頑張らねばという気持ちとともに、笑顔で二人を見つめるライラ。
「レベルアップでもあるんですけど、ライラさんの強みを見つけていきたい意図もあるんですよ」
心なしかライラの顔がこわばる。
「気負わなくていいですよ。やることは今までと同じで、少しずつ新しい動きを覚えていくだけですから。でもライラさん、この先どういうパフォーマンスを得意としていきたいか、というのを一緒に考えてみましょう」
「どういう……?」
「はい」
明は続ける。
「しなやかで品のある動きも、激しく盛り上がる動きも大事です。だけど魅力の本質はらしさにあります。その人に期待できるモノ。それを見つけていきたいんです。それは今はまだわかっていなくても大丈夫。でも長所は売り出す上でのポイントにもなるし、モチベーションの源にもなります。活動していく中で変わっていったって構わないですが、まずは何かを意識すること。だからこそ今、いろんなレッスンをこなしてほしいと思います」
「おお……」
投げかけられた言葉をゆっくり噛み締めるライラ。うまい返答が見当たらずただただ曖昧な反応になってしまった。そんな様子の彼女をそっと撫でるプロデューサー。
「大丈夫、基礎レッスンはこれからも繰り返していくし、ライラは素直で素敵な子だから心配はしていないよ。ポジティブに、アイドルらしくて自分らしい姿を見つけていこう」
優しい言葉をくれるプロデューサーと目を合わせ、ライラの表情に小さく笑みがこぼれる。だけどすぐに照れくさくなって、また視線を逸らした。
「……ふふっ、ずいぶんプロデューサーさんに懐くようになりましたね♪」
明の茶化すような言葉が聞こえて、えへへ、と笑って返すライラ。そうですよーと言いたかったのだけど、なぜかそれには少し抵抗があった。あまりからかわないでくださいよ、とプロデューサーが遮る。
プロデューサーを慕うライラの姿は、最近の彼女をよく知る人にとっては自然なことだ。だが果たしてそのお慕いには、どのくらいの意味があるのか。今後も変わらないものなのか。それが判然としないのは案外、彼女自身だったりする。
簡単な確認事項を済ませ、あとはまた後日に、と言ってトレーナーはその場を退席となった。プロデューサーが改めて話を続ける。
「たとえばライラなら、故郷の民族舞踊や古典音楽に通じるようなテイストをこなせるようになってもいいと思う。コンテンポラリーなものでもいい。それはアラブの出身というライラのパーソナルな一面を広げたものだ。ふだんのアイドルソングやポップスと合わせて持ち幅を作っていくのは一つだから」
「なるほど……」
「逆に、日本らしい和のスタイルや、日本の音楽シーンについてもっともっと理解を深めていくことだってありだと思う。歴のまだ浅いライラが一つずつ学び進めていくことは、それはまた独自の魅力として映えるだろうから」
プロデューサーが例を示しながら丁寧に説明してくれる。どれが正解という話ではないし、可能な限りライラの嗜好を聞いて、好きなものを軸にしていくよう助力したいと。
「好きなことを推していくって大事なんだよ。トレーナーさんも言っていたけど、続けていけるモチベーションになるからね」
ふむふむと頷くライラだったが、自分の好きなこととなると少し困ってしまう。触れるものはどれも素敵だし、同時に執着するようなことがすぐには浮かばない。
「……プロデューサー殿は、どんなライラさんがいいと思いますですか?」
「どうだろうね。可能性はいろいろあると思うから」
明確には答えないプロデューサー。意見を出すこともできるけど、まずは自身でイメージすべき。そう言っているようだった。そんな空気を少しだけ、ライラも察した。
「わかりました。考えておきますー」
急がずゆっくり考えようね、とプロデューサーは話した。新しいことは楽しみで、プロデューサーも優しくて、……だけどもしオススメがあるなら聞いてみたかったなともライラは思った。自分で考えることは大事だけど、それはわかるけど。どう見られているか、どうしていくべきかなどの彼の言葉はいつだって信頼の最上級だし、信じてここまで活動してきているのだから。
* * * * *
仕事終わり、今日は商店街を通って帰るライラ。道中あちこちで声を掛けられる。今帰りかい? お仕事頑張ってる? 今日は魚が安いよ! サービスつけるけどどうだい? エトセトラ、エトセトラ。
アパートからほど近く、下町情緒いっぱいのこの雰囲気がライラは好きだった。
ひとりひとりにきちんと挨拶を返す。ペコリペコリと丁寧にお辞儀をし、言葉を交わしつつ街を歩く彼女の様子は、商店街に訪れるひとときの癒しでもあった。ここで買い物をしたり、挨拶だけして通り抜けたり。人とのコミュニケーションが好きなライラにとって、ここは楽しい場所でもあった。
暖かくて柔らかな空気が満ちている。事務所も、学校も、近くの公園も、そしてこの商店街も。キラキラすることも、笑ってしまうようなことも日々に溢れていた。時にはうまくいかないことだって、少ししょんぼりすることだってあるけれど、それでも世知辛いことばかりではない。紆余曲折どうあれ、ライラは今の毎日を楽しいと心から感じていた。
「ライラさんにとって、日本は第二の故郷ですねー」
ぼんやりと思いを馳せるライラ。もっともっとたくさんの言葉を理解して、話せるようになって。そうして日本ともっと通じていきたいな、と。そこでふと、先のトレーナーからの言葉が蘇ってきた。つながったかもしれない。ようやく一つ見つけられたような気がして嬉しくなる。アパートの階段を少しだけ、小気味よく駆け上がる。明日プロデューサー殿に相談してみよう、などと考えながら。
暖かな空気に頬を緩ませながら、そのまま彼女は家に到着した。
ポストに一通の手紙が入っていたことに気づいたのはその時だった。
「ライラ、このあと時間あるかな? ちょっと打ち合わせができたらと思うんだけど」
「はいです、大丈夫ですよー」
別日。予定を終えて休憩スペースへ戻ったライラは、プロデューサーに声を掛けられた。そばにはトレーナーの青木明も一緒で、何やら話し込んでいた様子。特訓でも始まるのだろうか、と資料を覗き込むように二人の間に入るライラ。
「いま明さんと話してて、次回からのレッスンで新しいプログラムを覚えていこうってことになってね」
「おお、そうなのですね」
「はい。少しずつですけど、レベルアップを図る頃だと思って」
トレーナーが補足する。快活でかわいらしい雰囲気をメインとしたダンスを一部変更して、しなやかさや美しさといった表現力を学ぶ時間を増やしていくという。
「おー、まさしく新しいことですねー」
挑戦させてもらえることは嬉しい。頑張らねばという気持ちとともに、笑顔で二人を見つめるライラ。
「レベルアップでもあるんですけど、ライラさんの強みを見つけていきたい意図もあるんですよ」
心なしかライラの顔がこわばる。
「気負わなくていいですよ。やることは今までと同じで、少しずつ新しい動きを覚えていくだけですから。でもライラさん、この先どういうパフォーマンスを得意としていきたいか、というのを一緒に考えてみましょう」
「どういう……?」
「はい」
明は続ける。
「しなやかで品のある動きも、激しく盛り上がる動きも大事です。だけど魅力の本質はらしさにあります。その人に期待できるモノ。それを見つけていきたいんです。それは今はまだわかっていなくても大丈夫。でも長所は売り出す上でのポイントにもなるし、モチベーションの源にもなります。活動していく中で変わっていったって構わないですが、まずは何かを意識すること。だからこそ今、いろんなレッスンをこなしてほしいと思います」
「おお……」
投げかけられた言葉をゆっくり噛み締めるライラ。うまい返答が見当たらずただただ曖昧な反応になってしまった。そんな様子の彼女をそっと撫でるプロデューサー。
「大丈夫、基礎レッスンはこれからも繰り返していくし、ライラは素直で素敵な子だから心配はしていないよ。ポジティブに、アイドルらしくて自分らしい姿を見つけていこう」
優しい言葉をくれるプロデューサーと目を合わせ、ライラの表情に小さく笑みがこぼれる。だけどすぐに照れくさくなって、また視線を逸らした。
「……ふふっ、ずいぶんプロデューサーさんに懐くようになりましたね♪」
明の茶化すような言葉が聞こえて、えへへ、と笑って返すライラ。そうですよーと言いたかったのだけど、なぜかそれには少し抵抗があった。あまりからかわないでくださいよ、とプロデューサーが遮る。
プロデューサーを慕うライラの姿は、最近の彼女をよく知る人にとっては自然なことだ。だが果たしてそのお慕いには、どのくらいの意味があるのか。今後も変わらないものなのか。それが判然としないのは案外、彼女自身だったりする。
簡単な確認事項を済ませ、あとはまた後日に、と言ってトレーナーはその場を退席となった。プロデューサーが改めて話を続ける。
「たとえばライラなら、故郷の民族舞踊や古典音楽に通じるようなテイストをこなせるようになってもいいと思う。コンテンポラリーなものでもいい。それはアラブの出身というライラのパーソナルな一面を広げたものだ。ふだんのアイドルソングやポップスと合わせて持ち幅を作っていくのは一つだから」
「なるほど……」
「逆に、日本らしい和のスタイルや、日本の音楽シーンについてもっともっと理解を深めていくことだってありだと思う。歴のまだ浅いライラが一つずつ学び進めていくことは、それはまた独自の魅力として映えるだろうから」
プロデューサーが例を示しながら丁寧に説明してくれる。どれが正解という話ではないし、可能な限りライラの嗜好を聞いて、好きなものを軸にしていくよう助力したいと。
「好きなことを推していくって大事なんだよ。トレーナーさんも言っていたけど、続けていけるモチベーションになるからね」
ふむふむと頷くライラだったが、自分の好きなこととなると少し困ってしまう。触れるものはどれも素敵だし、同時に執着するようなことがすぐには浮かばない。
「……プロデューサー殿は、どんなライラさんがいいと思いますですか?」
「どうだろうね。可能性はいろいろあると思うから」
明確には答えないプロデューサー。意見を出すこともできるけど、まずは自身でイメージすべき。そう言っているようだった。そんな空気を少しだけ、ライラも察した。
「わかりました。考えておきますー」
急がずゆっくり考えようね、とプロデューサーは話した。新しいことは楽しみで、プロデューサーも優しくて、……だけどもしオススメがあるなら聞いてみたかったなともライラは思った。自分で考えることは大事だけど、それはわかるけど。どう見られているか、どうしていくべきかなどの彼の言葉はいつだって信頼の最上級だし、信じてここまで活動してきているのだから。
* * * * *
仕事終わり、今日は商店街を通って帰るライラ。道中あちこちで声を掛けられる。今帰りかい? お仕事頑張ってる? 今日は魚が安いよ! サービスつけるけどどうだい? エトセトラ、エトセトラ。
アパートからほど近く、下町情緒いっぱいのこの雰囲気がライラは好きだった。
ひとりひとりにきちんと挨拶を返す。ペコリペコリと丁寧にお辞儀をし、言葉を交わしつつ街を歩く彼女の様子は、商店街に訪れるひとときの癒しでもあった。ここで買い物をしたり、挨拶だけして通り抜けたり。人とのコミュニケーションが好きなライラにとって、ここは楽しい場所でもあった。
暖かくて柔らかな空気が満ちている。事務所も、学校も、近くの公園も、そしてこの商店街も。キラキラすることも、笑ってしまうようなことも日々に溢れていた。時にはうまくいかないことだって、少ししょんぼりすることだってあるけれど、それでも世知辛いことばかりではない。紆余曲折どうあれ、ライラは今の毎日を楽しいと心から感じていた。
「ライラさんにとって、日本は第二の故郷ですねー」
ぼんやりと思いを馳せるライラ。もっともっとたくさんの言葉を理解して、話せるようになって。そうして日本ともっと通じていきたいな、と。そこでふと、先のトレーナーからの言葉が蘇ってきた。つながったかもしれない。ようやく一つ見つけられたような気がして嬉しくなる。アパートの階段を少しだけ、小気味よく駆け上がる。明日プロデューサー殿に相談してみよう、などと考えながら。
暖かな空気に頬を緩ませながら、そのまま彼女は家に到着した。
ポストに一通の手紙が入っていたことに気づいたのはその時だった。
6:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2020/11/08(日) 09:01:25.78 :FQVp12gN0
Ⅱ ミッシング・イン・ザ・シティ
人にはそれぞれ役割があるし、きっとそれぞれに責任もある。あるいは希望も。
(青木明/トレーナー)
「そう、そこでもっと伸ばす。いい感じよ。最初からの流れで今の動きまで行けるようにするのが次の課題かしらね」
「あー……、えっと……あー……ムズかしいですねー」
わたわたと不慣れな様子を露呈するライラ。うつむく彼女を見て千夏がくすり、と笑う。
別日、レッスンルーム。ようやく始まった新しいレッスンプログラム、当面はお手本を見つつ学ぶということで、先輩アイドルのレッスンに合流させてもらうことになった。快諾してくれたのは相川千夏だった。
私で役に立てるかしらと謙遜していた千夏だったが、蓋を開ければ想定通り、いやそれ以上に、丁寧で優しくて、そして何よりお手本たりえる美がそこにはあった。
「ライラさん、よく見ていてくださいね。相川さんはここまでの三つの動きのつなぎがとても自然でしょう? 全体の流れをちゃんとイメージしていないとこうはならないんですよ」
トレーナーが身振りを交えながら細かな動きについて補足する。目の前でのお手本、その仔細な説明、そして実際に自分も真似して、それにアドバイスをもらう。ぜいたくなレッスンですね、と明は冗談交じりに笑った。
「でも遠慮はいらないですから。それよりもこの時間を積極的に活かしていきましょう」
貴女のことはみんな信頼しています。焦らなくてもいいから少しずつ、とトレーナーは念を押した。
改めて目の前でステップを踏む千夏に目をやるライラ。ふだんは寡黙でクールな彼女だが、表現の美しさ、しなやかさ、そして躍動感に思わず見惚れてしまう。基礎練習で似たようなことをやっているときは穏やかで、でもこうしたところで見せる迫力や色気を見るとその差は歴然で、すごい人なんだということが改めて実感させられた。
「ふぅ……」
レッスン室そばの休憩スペース。ベンチに腰を下ろし、思わず大きく息を吐く。ライラにとって学びいっぱいで、そして己の未熟さいっぱいなことも再認識する時間だった。
「お疲れ様。大丈夫?」
電話中だった千夏が戻ってきた。ドリンクが差し出される。
「あ、はい。ありがとうございますですー。とってもすごかったですねーチナツさん」
「そうかしら? ふふ、ありがとう♪」
今日の振り返りとともに、今後しばらくのスケジュールについて話を交わす二人。
「とっても嬉しいのですが、ご迷惑ではありませんかー?」
少しだけ不安がるライラ。そんなことはないわよ、私自身も確認になるし、と千夏が返すも、それならばよいのですが……と、少し冴えない。
「ふふ。みんな慣れないうちは大変なものよ? 気負わず少しずつ、ね」
無理せずライラのペースでいけばいいから、と優しい口調でフォローする千夏。
「おおらかで優しいいつものライラも素敵よ。でも今のあなたはそこからもう一歩前に進もうとしている。だから苦労するし、だから学びもきっと多い。それはとても尊いことなの。だから絶対に、自分を否定しないでね」
そして、いろんな人にどんどん頼ってね、と。
「レッスンに限らず、悩むことがあったらいつでも相談に乗るわ」
そんな会話とともに今日はお開きとなった。千夏はふたたびトレーナーのもとへ向かった。個人的な確認事項があるから、と。
荷物の片付けをしながら、ライラは考える。千夏に言われるまでもなく、自分はいろんな人に頼りっぱなしだし、感謝の気持ちで日々いっぱいだ。そうしたありがとうを、アイドル活動の中で恩返しできたら。そう思っているからこそ、少しずつでも形になったり、歌やダンスでファンに喜んでもらえたりするのが嬉しい。
だけど同時に、自分がどれくらいのことをできるのか、そもそもアイドルを続けていけるのか、そして日本にどれだけいられるのかもわからない。
先をイメージするというのは、時に酷なことでもある。
Ⅱ ミッシング・イン・ザ・シティ
人にはそれぞれ役割があるし、きっとそれぞれに責任もある。あるいは希望も。
(青木明/トレーナー)
「そう、そこでもっと伸ばす。いい感じよ。最初からの流れで今の動きまで行けるようにするのが次の課題かしらね」
「あー……、えっと……あー……ムズかしいですねー」
わたわたと不慣れな様子を露呈するライラ。うつむく彼女を見て千夏がくすり、と笑う。
別日、レッスンルーム。ようやく始まった新しいレッスンプログラム、当面はお手本を見つつ学ぶということで、先輩アイドルのレッスンに合流させてもらうことになった。快諾してくれたのは相川千夏だった。
私で役に立てるかしらと謙遜していた千夏だったが、蓋を開ければ想定通り、いやそれ以上に、丁寧で優しくて、そして何よりお手本たりえる美がそこにはあった。
「ライラさん、よく見ていてくださいね。相川さんはここまでの三つの動きのつなぎがとても自然でしょう? 全体の流れをちゃんとイメージしていないとこうはならないんですよ」
トレーナーが身振りを交えながら細かな動きについて補足する。目の前でのお手本、その仔細な説明、そして実際に自分も真似して、それにアドバイスをもらう。ぜいたくなレッスンですね、と明は冗談交じりに笑った。
「でも遠慮はいらないですから。それよりもこの時間を積極的に活かしていきましょう」
貴女のことはみんな信頼しています。焦らなくてもいいから少しずつ、とトレーナーは念を押した。
改めて目の前でステップを踏む千夏に目をやるライラ。ふだんは寡黙でクールな彼女だが、表現の美しさ、しなやかさ、そして躍動感に思わず見惚れてしまう。基礎練習で似たようなことをやっているときは穏やかで、でもこうしたところで見せる迫力や色気を見るとその差は歴然で、すごい人なんだということが改めて実感させられた。
「ふぅ……」
レッスン室そばの休憩スペース。ベンチに腰を下ろし、思わず大きく息を吐く。ライラにとって学びいっぱいで、そして己の未熟さいっぱいなことも再認識する時間だった。
「お疲れ様。大丈夫?」
電話中だった千夏が戻ってきた。ドリンクが差し出される。
「あ、はい。ありがとうございますですー。とってもすごかったですねーチナツさん」
「そうかしら? ふふ、ありがとう♪」
今日の振り返りとともに、今後しばらくのスケジュールについて話を交わす二人。
「とっても嬉しいのですが、ご迷惑ではありませんかー?」
少しだけ不安がるライラ。そんなことはないわよ、私自身も確認になるし、と千夏が返すも、それならばよいのですが……と、少し冴えない。
「ふふ。みんな慣れないうちは大変なものよ? 気負わず少しずつ、ね」
無理せずライラのペースでいけばいいから、と優しい口調でフォローする千夏。
「おおらかで優しいいつものライラも素敵よ。でも今のあなたはそこからもう一歩前に進もうとしている。だから苦労するし、だから学びもきっと多い。それはとても尊いことなの。だから絶対に、自分を否定しないでね」
そして、いろんな人にどんどん頼ってね、と。
「レッスンに限らず、悩むことがあったらいつでも相談に乗るわ」
そんな会話とともに今日はお開きとなった。千夏はふたたびトレーナーのもとへ向かった。個人的な確認事項があるから、と。
荷物の片付けをしながら、ライラは考える。千夏に言われるまでもなく、自分はいろんな人に頼りっぱなしだし、感謝の気持ちで日々いっぱいだ。そうしたありがとうを、アイドル活動の中で恩返しできたら。そう思っているからこそ、少しずつでも形になったり、歌やダンスでファンに喜んでもらえたりするのが嬉しい。
だけど同時に、自分がどれくらいのことをできるのか、そもそもアイドルを続けていけるのか、そして日本にどれだけいられるのかもわからない。
先をイメージするというのは、時に酷なことでもある。
7:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2020/11/08(日) 09:02:54.05 :FQVp12gN0
* * * * *
《ライラ、忘れないで。生きていくために大切なことは二つ。受け入れる柔軟さと、揺るぎない想い。その両方なの》
記憶の中をたゆたう声とともに目が覚めたライラ。あたりはまだ薄暗い。カーテンを少しだけ動かすと、おおらかな輝きの月が見える。オボロヅキヨ、でしたっけ。いやあれは春の言葉でしたっけ。
そんなつぶやきとともに、ぼんやりお月様を眺めながら、ライラはつい今しがた見たはずの夢を思い出す。故郷を離れる直前に、母からもらった言葉。相反するその二つを持つこと。それさえ失わなければ、天はあなたを見放さないから、と。ライラはそれをしっかりと心に刻んでいる。だけど、具体的に何をどうすればいいのかというのは簡単なようでいて、難しい。
届いた手紙をもう一度開く。メッセージはライラの母からのものだった。
彼女の身を案じていること、異国への旅路を選択させてしまったことへの責任。もろもろ。居場所は最近になって、仕事で日本に行っている側近者が確認したということ。父にもその知らせは入っているが、現状静観を続けているということ。どうアプローチするか考えているのかもしれないということ。また連絡するとのこと。
ライラの父もさすがに、愛娘がいなくなったことは堪えているようだという。けれど父にもいろんな思いがあるし、立場もある。素直に手を差し伸べてくれるかはわからない。まだ会うべき状態ではないと思う。それでも会いたいという気持ちは募っている。そんな内容だった。
母は板挟み状態だ。
旅立つ時からずっとそう。別れを惜しむ気持ち、旅させることへの不安、でも国に居続けさせるわけにいかなかったという事情、彼女を応援したい気持ち、などなど。
「……」
ライラは思う。キッカケは自発的なものでなかったとはいえ、こうして旅立ったことで故郷に残るいろんな人に少なからず迷惑をかけてしまっただろう。その意識はあるし、そうした自己嫌悪の念は波のように、こうして時を置いて繰り返し押し寄せる。
十六歳にして己の業のようなものを自覚する彼女は儚くもあり、皮肉にも美しかった。
迷惑、という言葉から部屋の隅に視線を移すライラ。今日は綺麗に畳まれたままの、もう一組の布団。運命共同体ともいえる、メイドの分である。
「次は月曜の夜に帰宅致します。必要なものは全て机とカバンに ――」
昨日の丁寧な説明を思い出す。律儀でマメで、献身的で努力家。それが彼女だった。一緒に日本にやってきて、手続きや諸々の段取りから日常生活に至るまで、ライラ一人では難しいことを精一杯フォローしてくれた。メイドも決して人生経験が豊富というわけでも、日本や日本語に長じているわけでもなかったのだが、旅立ったあの日以降、ライラからは全幅の信頼を受けている。
もともとこの旅を計画してくれたのも、故郷でライラの側仕えをしていたこのメイドであった。そういう意味でも、彼女はライラの運命共同体といえた。
日本に到着して以降、いくつかの仕事を転々とする中で一つの縁があり、家政婦のお仕事にたどり着いたのが数ヶ月前のこと。故郷の屋敷で働いていた経験を活かせることもあり、メイドも「これだ!」と勇んで頑張っている最近。東京郊外のある邸宅にてのお仕事で、基本は通っているものの、時折こうして泊まり込みでの仕事が入ったりもする。
経緯どうあれ、端から見ればライラの件は人生を懸けての逃避行。それもうら若き十代半ばの少女。まして故郷ではそれなりに名の知れた富豪のひとり娘である。いかなる事情があるにせよ、旅立ちをおいそれと許可したり助けたりしてくれるほど世間も家族は甘くはない。
それでも、決断が迫られていたこと。母がその密かな理解者だったこと。そして、一人の若いメイドが彼女に寄り添って生きると決断してくれたこと。それにより、この運命の歯車は動き出して現在に至っている。
なかなかすぐにはいい仕事が見つからなかった去年。悲観に暮れそうになるメイドを支えたのはライラの優しい笑顔であり、そんな彼女のために、という己の決意や執念であった。実のところライラは、貧しくも寝食をともにして、会話をして過ごすという当たり前の毎日だけでも純粋に幸せだったのだけど。
都心はずれの古いアパート。ここに共に住まい、そして働きに出て。なにより、故郷の屋敷生活を捨て異国の地に赴き、ほとんどゼロの状態から生きる道を見つけていくという途方もない旅路を選んでくれたこと。支えてくれていること。いろんな意味でライラはメイドに頭が上がらない。迷惑はたくさんかけたし、きっとこれからもたくさんかけてしまうだろうと思うと、心苦しくもなる。
「いえ、そんな。そもそも言い出したのは私です。ライラ様こそ大変な中を生きてくださって、……そして笑顔を見せてくださって。本当にありがとうございます」
私はライラ様が好きですし、この運命が好きですから。そんな彼女の言葉を思い出すライラ。生きれば生きるほどに、自分がまだまだ未熟な子供であることを思い知らされる最近の日々。みんなそれぞれ一生懸命で、みんな生きる様がとても素敵だ。
では自分は、どうなのだろう。
《月は無慈悲、ですね……》
ふふ、と自嘲気味に笑う。たぶん、月は少しも変わらなくて、あの日も今日も輝いている。でも柄にもなく感傷的になっているライラがいて、それは向こうにいた頃の彼女自身のようでもあった。そんなことを思い出したのが、なんとも可笑しかった。
* * * * *
《ライラ、忘れないで。生きていくために大切なことは二つ。受け入れる柔軟さと、揺るぎない想い。その両方なの》
記憶の中をたゆたう声とともに目が覚めたライラ。あたりはまだ薄暗い。カーテンを少しだけ動かすと、おおらかな輝きの月が見える。オボロヅキヨ、でしたっけ。いやあれは春の言葉でしたっけ。
そんなつぶやきとともに、ぼんやりお月様を眺めながら、ライラはつい今しがた見たはずの夢を思い出す。故郷を離れる直前に、母からもらった言葉。相反するその二つを持つこと。それさえ失わなければ、天はあなたを見放さないから、と。ライラはそれをしっかりと心に刻んでいる。だけど、具体的に何をどうすればいいのかというのは簡単なようでいて、難しい。
届いた手紙をもう一度開く。メッセージはライラの母からのものだった。
彼女の身を案じていること、異国への旅路を選択させてしまったことへの責任。もろもろ。居場所は最近になって、仕事で日本に行っている側近者が確認したということ。父にもその知らせは入っているが、現状静観を続けているということ。どうアプローチするか考えているのかもしれないということ。また連絡するとのこと。
ライラの父もさすがに、愛娘がいなくなったことは堪えているようだという。けれど父にもいろんな思いがあるし、立場もある。素直に手を差し伸べてくれるかはわからない。まだ会うべき状態ではないと思う。それでも会いたいという気持ちは募っている。そんな内容だった。
母は板挟み状態だ。
旅立つ時からずっとそう。別れを惜しむ気持ち、旅させることへの不安、でも国に居続けさせるわけにいかなかったという事情、彼女を応援したい気持ち、などなど。
「……」
ライラは思う。キッカケは自発的なものでなかったとはいえ、こうして旅立ったことで故郷に残るいろんな人に少なからず迷惑をかけてしまっただろう。その意識はあるし、そうした自己嫌悪の念は波のように、こうして時を置いて繰り返し押し寄せる。
十六歳にして己の業のようなものを自覚する彼女は儚くもあり、皮肉にも美しかった。
迷惑、という言葉から部屋の隅に視線を移すライラ。今日は綺麗に畳まれたままの、もう一組の布団。運命共同体ともいえる、メイドの分である。
「次は月曜の夜に帰宅致します。必要なものは全て机とカバンに ――」
昨日の丁寧な説明を思い出す。律儀でマメで、献身的で努力家。それが彼女だった。一緒に日本にやってきて、手続きや諸々の段取りから日常生活に至るまで、ライラ一人では難しいことを精一杯フォローしてくれた。メイドも決して人生経験が豊富というわけでも、日本や日本語に長じているわけでもなかったのだが、旅立ったあの日以降、ライラからは全幅の信頼を受けている。
もともとこの旅を計画してくれたのも、故郷でライラの側仕えをしていたこのメイドであった。そういう意味でも、彼女はライラの運命共同体といえた。
日本に到着して以降、いくつかの仕事を転々とする中で一つの縁があり、家政婦のお仕事にたどり着いたのが数ヶ月前のこと。故郷の屋敷で働いていた経験を活かせることもあり、メイドも「これだ!」と勇んで頑張っている最近。東京郊外のある邸宅にてのお仕事で、基本は通っているものの、時折こうして泊まり込みでの仕事が入ったりもする。
経緯どうあれ、端から見ればライラの件は人生を懸けての逃避行。それもうら若き十代半ばの少女。まして故郷ではそれなりに名の知れた富豪のひとり娘である。いかなる事情があるにせよ、旅立ちをおいそれと許可したり助けたりしてくれるほど世間も家族は甘くはない。
それでも、決断が迫られていたこと。母がその密かな理解者だったこと。そして、一人の若いメイドが彼女に寄り添って生きると決断してくれたこと。それにより、この運命の歯車は動き出して現在に至っている。
なかなかすぐにはいい仕事が見つからなかった去年。悲観に暮れそうになるメイドを支えたのはライラの優しい笑顔であり、そんな彼女のために、という己の決意や執念であった。実のところライラは、貧しくも寝食をともにして、会話をして過ごすという当たり前の毎日だけでも純粋に幸せだったのだけど。
都心はずれの古いアパート。ここに共に住まい、そして働きに出て。なにより、故郷の屋敷生活を捨て異国の地に赴き、ほとんどゼロの状態から生きる道を見つけていくという途方もない旅路を選んでくれたこと。支えてくれていること。いろんな意味でライラはメイドに頭が上がらない。迷惑はたくさんかけたし、きっとこれからもたくさんかけてしまうだろうと思うと、心苦しくもなる。
「いえ、そんな。そもそも言い出したのは私です。ライラ様こそ大変な中を生きてくださって、……そして笑顔を見せてくださって。本当にありがとうございます」
私はライラ様が好きですし、この運命が好きですから。そんな彼女の言葉を思い出すライラ。生きれば生きるほどに、自分がまだまだ未熟な子供であることを思い知らされる最近の日々。みんなそれぞれ一生懸命で、みんな生きる様がとても素敵だ。
では自分は、どうなのだろう。
《月は無慈悲、ですね……》
ふふ、と自嘲気味に笑う。たぶん、月は少しも変わらなくて、あの日も今日も輝いている。でも柄にもなく感傷的になっているライラがいて、それは向こうにいた頃の彼女自身のようでもあった。そんなことを思い出したのが、なんとも可笑しかった。
8:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2020/11/08(日) 09:03:22.33 :FQVp12gN0
ぼんやりと思い返すライラ。公園のベンチで行き交う人を眺めたり、交流したりするようになったのは新緑が始まる頃だっただろうか。あれからぐるりと季節が一周して、再びの緑を目にした。そしてさらにまた今、暑い暑い毎日がやってきている。それはつまり、彼に、みんなに、そしてこのアイドルという世界に出会えた季節がまたやって来たということでもある。
情報が濁流のように駆けゆく毎日の中で、自身のおぼつかなさを痛感することはしばしばだったライラ。もともとそんなにテキパキと動ける人間ではないし、それが日本語ばかりの世界ならなおのことだ。でもそれは仕方のないことだし少しずつ、できることから頑張ろう。そう思っていた彼女への、光り輝く世界へのお誘い。
最初は半信半疑だったライラ。だけど徐々にいろんなことができるようになってきて、いろんな人に出会えて、そしていろんな人に支えられながら歩んでいく毎日が、だんだん楽しくなっていった。
彼との出会いが、差し伸べられた手が、あのお誘いの言葉がなければ、アイドル活動はもちろん、こんなに慌ただしく毎日を過ごすことすらできなかっただろう。経験したことのないような日々の忙しさとともに今はいるけれど、それはとても暖かくて、とても幸せで。それは嘘偽りのない、ライラの率直な気持ちだった。
故郷の父母や親族への想いもいろいろあるけれど、ここで得た友達や、お世話になっている方々へのたくさんの感謝や、尊敬の念や、トクベツな気持ち。それがどんどん増えているという事実が、少なからず時が経っているんだということをライラに実感させていた。
窓際に立ち、再び夜空に視線を移す。心なしか、今日は月も星もひときわ輝いているようだった。
《明るい夜は、神秘と隣あわせ……でしたっけ》
思いを馳せる。
アラブに伝わる古い説話に『月を想う』というものがある。赤い月の日はよくない兆候、満月は力に満ちている日といった、よくある伝承をまとめたものだ。その中に「明るく月が照らす夜は、わずかに与えられた自由のひととき」と触れられた一節があって、ライラはそれが好きだった。それは普段言えないことを言ったり、できないことをしたり、たそがれたりする瞬間。北の大地の白夜のような、もっともあれと違って本当に短い時間のことだけど。そこには非日常があり、日常との境界はない。日本でも夕の刻を「彼は誰時」なんて言ったりするらしいけれど、非日常との曖昧さは国を問わず、畏敬の対象でもあり、ロマンでもあるのかもしれない。
「……プロデューサー殿」
意図せずぽつりと言葉が漏れた。日本語だと「ツキ」と「スキ」は、少しだけ似ている。
ぼんやりと思い返すライラ。公園のベンチで行き交う人を眺めたり、交流したりするようになったのは新緑が始まる頃だっただろうか。あれからぐるりと季節が一周して、再びの緑を目にした。そしてさらにまた今、暑い暑い毎日がやってきている。それはつまり、彼に、みんなに、そしてこのアイドルという世界に出会えた季節がまたやって来たということでもある。
情報が濁流のように駆けゆく毎日の中で、自身のおぼつかなさを痛感することはしばしばだったライラ。もともとそんなにテキパキと動ける人間ではないし、それが日本語ばかりの世界ならなおのことだ。でもそれは仕方のないことだし少しずつ、できることから頑張ろう。そう思っていた彼女への、光り輝く世界へのお誘い。
最初は半信半疑だったライラ。だけど徐々にいろんなことができるようになってきて、いろんな人に出会えて、そしていろんな人に支えられながら歩んでいく毎日が、だんだん楽しくなっていった。
彼との出会いが、差し伸べられた手が、あのお誘いの言葉がなければ、アイドル活動はもちろん、こんなに慌ただしく毎日を過ごすことすらできなかっただろう。経験したことのないような日々の忙しさとともに今はいるけれど、それはとても暖かくて、とても幸せで。それは嘘偽りのない、ライラの率直な気持ちだった。
故郷の父母や親族への想いもいろいろあるけれど、ここで得た友達や、お世話になっている方々へのたくさんの感謝や、尊敬の念や、トクベツな気持ち。それがどんどん増えているという事実が、少なからず時が経っているんだということをライラに実感させていた。
窓際に立ち、再び夜空に視線を移す。心なしか、今日は月も星もひときわ輝いているようだった。
《明るい夜は、神秘と隣あわせ……でしたっけ》
思いを馳せる。
アラブに伝わる古い説話に『月を想う』というものがある。赤い月の日はよくない兆候、満月は力に満ちている日といった、よくある伝承をまとめたものだ。その中に「明るく月が照らす夜は、わずかに与えられた自由のひととき」と触れられた一節があって、ライラはそれが好きだった。それは普段言えないことを言ったり、できないことをしたり、たそがれたりする瞬間。北の大地の白夜のような、もっともあれと違って本当に短い時間のことだけど。そこには非日常があり、日常との境界はない。日本でも夕の刻を「彼は誰時」なんて言ったりするらしいけれど、非日常との曖昧さは国を問わず、畏敬の対象でもあり、ロマンでもあるのかもしれない。
「……プロデューサー殿」
意図せずぽつりと言葉が漏れた。日本語だと「ツキ」と「スキ」は、少しだけ似ている。
9:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2020/11/08(日) 09:04:09.20 :FQVp12gN0
* * * * *
「ライラー! 元気なさそうだけど大丈夫カ?」
翌日昼、事務所休憩スペース。ぼんやりとしていたライラを覗き込むように声を掛けてきたのはナターリアだった。
「お疲れ様でございますねー。ライラさんは元気ですよー」
「ソウ? なんだかションボリに見えたゾ。でもなんともないならよかった!」
気づいて笑顔を返すライラとナターリアの視線が重なる。実際、そんなに落ち込んでいるつもりはないライラだったが、気づかって話しかけてくれるのは嬉しい。
「みんなでまたご飯食べるカ? ふぇいふぇい腕によりをかけて作るヨ!」
後ろには楊菲菲の姿もあった。ムン、と力こぶのような仕草を見せる彼女はどこか愛らしくて、そして頼もしい。
ユニットでのイベント活動などを何度か経験する中で仲良くなったこの三人。出自や経緯こそ異なるものの、ともに異国の地でアイドルとなって、不思議な縁あって同じ事務所にいる存在。年も近く、三人とも友好的で周囲への思いやりに溢れている。親しくなるのにそう時間はかからなかった。
とくにナターリアは、活動し始めの頃からライラとレッスンやミニライブなどをともにしていたこともあり、コミュニケーションの機会も多く、ライラをかなり慕っている。月と太陽、静のライラと動のナターリアなど、当初から対比的に評されることが多かった二人。二人ともそれを好意的に受け止め、お互いを意識しつつ、ここまできたのだ。ナターリアは生来の明るさが日々の活動にもいかんなく発揮され、皆を笑顔にするのが得意だった。ライラは対照的に穏やかで、またちがった美しさがあった。そして二人とも周囲の人間のちょっとした変化や悩み・苦しみなどのサインによく気づくタイプだったといえる。フォローのやり方もそれぞれ異なってはいたが、明るさとともに助けの手を差し伸べるナターリアと、相手のそばにそっと腰を下ろして目線を合わせるライラ、ともに慕われるだけの魅力と優しさがあったのは確かだった。ナターリアはそんなライラの優しい佇まいが好きだったし、ライラもまたナターリアの輝きが好きだった。
一方の菲菲にとってもまた、トクベツだった。二人より少し早く事務所に入っていた彼女だが、なかなか確たる仕事のチャンスが掴めず、辛抱強くレッスンを繰り返す日々が続いていた。そんな彼女にそっと声を掛けてきたのが、新しく入ってきたライラだった。
「こんにちは。お疲れさまでございますよー」
事務所の休憩スペースで雑誌を開いていた菲菲のもとを訪れた褐色少女。澄んだ瞳とどこか間の抜けたトーンの挨拶が印象的だった。聞けば、事務所で見かけた人に一人ずつ挨拶をして回っているのだとか。
「ご挨拶ありがとうダヨ! フェイフェイって呼んでね!」
「ふぇいふぇいさんでごさいますか。素敵なお名前ですねー。よろしくお願いしますですー」
ライラの言葉に深い意味はなかった。だけど混じりっ気のない瞳で優しく発せられたその言葉が、菲菲にはとても嬉しかった。もっと日本を勉強しなきゃ、業界のことを理解しなきゃ、できることを増やしてアピールしなきゃ。そんな気負いがあった彼女に、緩やかな風が吹き抜けたようだった。
もっとこの子と仲良くなりたい。菲菲が雑誌を閉じて改めて向き直ったところで、ぐぅ、と音が鳴った。ライラのお腹だった。
「失礼しました……えへへ」
「お腹空いてるノ?」
実は今日まだ何も食べていなくて、とライラが説明する。ダメダヨ! 食べなきゃイロイロ大変! と菲菲が立ち上がる。
「レッスンもそれ以外でも、頑張るエネルギーは大切なんだカラ!」
そう言ってライラを寮の食堂へ連れて行き、チャーハンを御馳走したのが初めて会った日の出来事。とってもおいしいですー、とゆっくり噛み締めるように食べるライラの表情は菲菲の心も暖かにするものだった。
「ライラ、いい笑顔ダヨ」
「そうでございますか? ありがとうございますですよー。でも、ふぇいふぇいさんも素敵な笑顔ですねー」
そう言われて改めて、料理を振る舞っている自分も確かに元気になったと気づいた菲菲。そうか、自分にできることっていろいろあるんだ。そして、幸せを振りまくってこういう感覚だったよネ、と。
「……どうかしましたか?」
「なんでもないヨ! エヘヘ、ありがとうライラ!」
楊菲菲がアイドルとしてステップを上り始めるのはこの少し後からになる。他愛ない出来事に過ぎなくとも、本人にとって大切なきっかけになることがあるし、往々にしてそれは突然の出会いとともに訪れる。彼女にとってそれがこの日のことだったのかもしれない。
「もしなにかあったらみんなに話すんだゾ! プロデューサーでもいいケド、ナターリアたちだって聞くからナ!」
「そうダヨ、ライラ楽しい話はしてくれるけど、悩みとかなかなか言わないカラ……」
そうした二人の暖かい気づかいを受け止め、嬉しそうにするライラの姿があった。
「ありがとうございますですー、大丈夫ですよ。お優しいですね二人とも」
だって友達ダカラネ! 信頼関係っていいよネ! そう言ってワイワイ言葉を交わす。
「ライラだって、このあいだふぇいふぇいがダンスうまくいかなくてしょんぼりしていた時にいち早く声かけてくれたよネ。あれとってもうれしかったんダ」
「そうそう、ライラこそ優しくて、いつも気づいてくれるよ! アタシも思ウ!」
「うふふ、みなさん大好きですよー」
ライラは事務所のこの場所がお気に入りだった。それはとりもなおさず、二人のような存在がいるからに違いない。そして彼も。
「ライラ、そろそろお仕事だけど準備はいいかな」
「あ、はいですー。ではみなさん、またのちほど」
周囲のみんなにも会釈するプロデューサー。場の空気を気づかって、話のタイミングを少し待ってくれていたんだとライラも察した。
「……やっぱりイイですね」
「あの二人のこと?」
「ふふ。プロデューサー殿も、ですよ」
良さに気づいて、素敵を愛して。そんなみんなが大好きだ。肯定して進みたい。自分も。改めてそう感じたライラだった。
* * * * *
「ライラー! 元気なさそうだけど大丈夫カ?」
翌日昼、事務所休憩スペース。ぼんやりとしていたライラを覗き込むように声を掛けてきたのはナターリアだった。
「お疲れ様でございますねー。ライラさんは元気ですよー」
「ソウ? なんだかションボリに見えたゾ。でもなんともないならよかった!」
気づいて笑顔を返すライラとナターリアの視線が重なる。実際、そんなに落ち込んでいるつもりはないライラだったが、気づかって話しかけてくれるのは嬉しい。
「みんなでまたご飯食べるカ? ふぇいふぇい腕によりをかけて作るヨ!」
後ろには楊菲菲の姿もあった。ムン、と力こぶのような仕草を見せる彼女はどこか愛らしくて、そして頼もしい。
ユニットでのイベント活動などを何度か経験する中で仲良くなったこの三人。出自や経緯こそ異なるものの、ともに異国の地でアイドルとなって、不思議な縁あって同じ事務所にいる存在。年も近く、三人とも友好的で周囲への思いやりに溢れている。親しくなるのにそう時間はかからなかった。
とくにナターリアは、活動し始めの頃からライラとレッスンやミニライブなどをともにしていたこともあり、コミュニケーションの機会も多く、ライラをかなり慕っている。月と太陽、静のライラと動のナターリアなど、当初から対比的に評されることが多かった二人。二人ともそれを好意的に受け止め、お互いを意識しつつ、ここまできたのだ。ナターリアは生来の明るさが日々の活動にもいかんなく発揮され、皆を笑顔にするのが得意だった。ライラは対照的に穏やかで、またちがった美しさがあった。そして二人とも周囲の人間のちょっとした変化や悩み・苦しみなどのサインによく気づくタイプだったといえる。フォローのやり方もそれぞれ異なってはいたが、明るさとともに助けの手を差し伸べるナターリアと、相手のそばにそっと腰を下ろして目線を合わせるライラ、ともに慕われるだけの魅力と優しさがあったのは確かだった。ナターリアはそんなライラの優しい佇まいが好きだったし、ライラもまたナターリアの輝きが好きだった。
一方の菲菲にとってもまた、トクベツだった。二人より少し早く事務所に入っていた彼女だが、なかなか確たる仕事のチャンスが掴めず、辛抱強くレッスンを繰り返す日々が続いていた。そんな彼女にそっと声を掛けてきたのが、新しく入ってきたライラだった。
「こんにちは。お疲れさまでございますよー」
事務所の休憩スペースで雑誌を開いていた菲菲のもとを訪れた褐色少女。澄んだ瞳とどこか間の抜けたトーンの挨拶が印象的だった。聞けば、事務所で見かけた人に一人ずつ挨拶をして回っているのだとか。
「ご挨拶ありがとうダヨ! フェイフェイって呼んでね!」
「ふぇいふぇいさんでごさいますか。素敵なお名前ですねー。よろしくお願いしますですー」
ライラの言葉に深い意味はなかった。だけど混じりっ気のない瞳で優しく発せられたその言葉が、菲菲にはとても嬉しかった。もっと日本を勉強しなきゃ、業界のことを理解しなきゃ、できることを増やしてアピールしなきゃ。そんな気負いがあった彼女に、緩やかな風が吹き抜けたようだった。
もっとこの子と仲良くなりたい。菲菲が雑誌を閉じて改めて向き直ったところで、ぐぅ、と音が鳴った。ライラのお腹だった。
「失礼しました……えへへ」
「お腹空いてるノ?」
実は今日まだ何も食べていなくて、とライラが説明する。ダメダヨ! 食べなきゃイロイロ大変! と菲菲が立ち上がる。
「レッスンもそれ以外でも、頑張るエネルギーは大切なんだカラ!」
そう言ってライラを寮の食堂へ連れて行き、チャーハンを御馳走したのが初めて会った日の出来事。とってもおいしいですー、とゆっくり噛み締めるように食べるライラの表情は菲菲の心も暖かにするものだった。
「ライラ、いい笑顔ダヨ」
「そうでございますか? ありがとうございますですよー。でも、ふぇいふぇいさんも素敵な笑顔ですねー」
そう言われて改めて、料理を振る舞っている自分も確かに元気になったと気づいた菲菲。そうか、自分にできることっていろいろあるんだ。そして、幸せを振りまくってこういう感覚だったよネ、と。
「……どうかしましたか?」
「なんでもないヨ! エヘヘ、ありがとうライラ!」
楊菲菲がアイドルとしてステップを上り始めるのはこの少し後からになる。他愛ない出来事に過ぎなくとも、本人にとって大切なきっかけになることがあるし、往々にしてそれは突然の出会いとともに訪れる。彼女にとってそれがこの日のことだったのかもしれない。
「もしなにかあったらみんなに話すんだゾ! プロデューサーでもいいケド、ナターリアたちだって聞くからナ!」
「そうダヨ、ライラ楽しい話はしてくれるけど、悩みとかなかなか言わないカラ……」
そうした二人の暖かい気づかいを受け止め、嬉しそうにするライラの姿があった。
「ありがとうございますですー、大丈夫ですよ。お優しいですね二人とも」
だって友達ダカラネ! 信頼関係っていいよネ! そう言ってワイワイ言葉を交わす。
「ライラだって、このあいだふぇいふぇいがダンスうまくいかなくてしょんぼりしていた時にいち早く声かけてくれたよネ。あれとってもうれしかったんダ」
「そうそう、ライラこそ優しくて、いつも気づいてくれるよ! アタシも思ウ!」
「うふふ、みなさん大好きですよー」
ライラは事務所のこの場所がお気に入りだった。それはとりもなおさず、二人のような存在がいるからに違いない。そして彼も。
「ライラ、そろそろお仕事だけど準備はいいかな」
「あ、はいですー。ではみなさん、またのちほど」
周囲のみんなにも会釈するプロデューサー。場の空気を気づかって、話のタイミングを少し待ってくれていたんだとライラも察した。
「……やっぱりイイですね」
「あの二人のこと?」
「ふふ。プロデューサー殿も、ですよ」
良さに気づいて、素敵を愛して。そんなみんなが大好きだ。肯定して進みたい。自分も。改めてそう感じたライラだった。
10:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2020/11/08(日) 09:04:52.20 :FQVp12gN0
* * * * *
「最近少し、元気がない感じだったりする?」
仕事終わり、プロデューサーがライラに話しかけた。
動きがどこかダメということではないけれど、表情はあまり冴えているとはいえない。そんな雰囲気が見て取れたから。相川千夏は「そういう時もあるわよ」と言ってはいたが、とはいえ気づいたなら軽くでもフォローしておきたい。プロデューサーらしい考え方だった。
ライラとしても、なんとなくそんな感覚があったここ数日。お見通しですねー、と苦笑いのような表情を見せた。彼女にしては珍しい。
どこか冴えないここ最近の雰囲気を察してもらえたのは嬉しいようでいて、申し訳なさもある。それはナターリアたちからも言われたこと。あまりよくない雰囲気に見えているんだろうなということは反省しなくてはいけない。理由は何だろうと辿ってみるライラではあったけれど、当然ながら手紙のことになるだろう。
「……ライラさん、少しだけおセンチさんなのかもしれませんです」
「どこで覚えたのそんな言葉」
このあいだハスミさんがおっしゃってました、と補足するライラ。使い方はこれで合っているはず、と。視線を合わせる二人。緊張気味の空気が少し、和らいだ。
「プロデューサー殿、ご相談いいでしょうか」
「うん」
「ありがとうございますですよ。……えっと」
ライラも、やっぱり彼にはきちんと説明しておくことが大事だと思った様子。とはいえ、何から話してよいものか、少し迷ってしまうところもあるようで。しばし沈黙が流れる。
「あー、ちょっとお待ちくださいね」
うまい言葉が出てこずうーんと首をひねるライラに、そっと笑顔を寄せる彼。
「待つよ。でも話すのが難しいなら焦らないこと。少しずつでもいいし、今じゃなくてもいい。もちろん今何か聞かせてくれるならちゃんと聞くし、一緒に考えられることは考えるから」
ここじゃない場所がいいならまた相談に乗るし、何でも言ってほしい。彼はそう続けた。
「―― ありがとうございます、ですよ」
相談そのものも大事だけど、信頼があるってことが何より大切だし、彼はきっとそう。それが伝わってくる言葉に、ライラは嬉しくなった。
「ごめんなさい、ではまた改めていつか、でよろしいですか?」
「もちろん」
笑顔を交わす。大丈夫、もう少し頭の中で整理できたらお伝えしてみましょう。己に言い聞かせるように小さくつぶやくライラの姿があった。
プロデューサーという人物にも少し触れておく必要があるだろう。言わずもがな、この少女と公園で出会い、アイドルとして迎え入れたのが彼である。その出会いを運命と呼ぶか偶然の産物と呼ぶかは定かでないが、彼女の複雑な出自を知ってなお手を差し伸べたことは事実であり、それはライラに少なからずアイドルとしての可能性を見たということでもある。彼女はきっと伸びるし、きっと輝く。それを誰より信じているのは彼だった。同情や人助けの思いで提案したわけではないのだ。だからこそ、だからこそ、彼女のフォローアップや様々なケアについてひときわ熱心だし、誰よりも気を回している一人でもあった。
元々とにかくマメな性格で、担当アイドルへはもちろん周囲の関係者や業界の方々への気配りも忘れない。熱心さと驕らない謙虚さが部署内では評判だった。
とはいえ結局他人は他人、伝わらないこともあるし汲み取れないことだってある。まして相手が異性だったり、異文化圏からやって来た子だったりすればなおさらである。
彼がライラをスカウトしてきたと報告した折、事務所では驚きとともに心配の声も少なからずあった。アイドルとしてきちんとプロデュースしていけるかはもちろん、彼女本人のケアに求められることも多いだろうことが懸念されたからだ。だが彼にも彼なりの熟慮と決意があったと汲み取られ、事務所からはゴーサインがくだった。彼という一人のプロデューサーの運命もここで大きく動いたのだった。
どんなに心血を注ごうと、アイドルとして大成することを約束できるわけではないし、先のことに責任を負えるわけでもない。しかしそれでも賽は投げられた。ここは既にルビコン川の彼岸なのだ。ライラのアイドル活動はそうした彼の覚悟とともに始まったことは間違いない。
日進月歩、物語は動いていた。当初は歌もダンスもおぼつかない彼女ではあったが、光るものは確かにあって、熱心に一つずつ学び覚えていく努力の姿もそこにはあった。それはまたライラ自身の内なる覚悟の賜物かもしれないし、彼女のなりのセンスに導かれる部分だったのかもしれない。
一つ厳然たる事実として、プロデューサーの言葉や思い、気づかいや理解が、ライラにはとても心地よかったということがある。そしてそれはプロデューサーにとってのライラの言動にも当てはまることだった。これこそは理論や理屈では埋め難い、運命的なことなのかもしれない。人はそれを相性、などと言ったり言わなかったり。
出会うべくして出会ったかどうかを明言するのは難しい。しかしきっと、無二の信頼関係は築けるように思っていた。おそらく、お互いに。
それでも、だからこそ、言葉は必要なのだけど。
* * * * *
「最近少し、元気がない感じだったりする?」
仕事終わり、プロデューサーがライラに話しかけた。
動きがどこかダメということではないけれど、表情はあまり冴えているとはいえない。そんな雰囲気が見て取れたから。相川千夏は「そういう時もあるわよ」と言ってはいたが、とはいえ気づいたなら軽くでもフォローしておきたい。プロデューサーらしい考え方だった。
ライラとしても、なんとなくそんな感覚があったここ数日。お見通しですねー、と苦笑いのような表情を見せた。彼女にしては珍しい。
どこか冴えないここ最近の雰囲気を察してもらえたのは嬉しいようでいて、申し訳なさもある。それはナターリアたちからも言われたこと。あまりよくない雰囲気に見えているんだろうなということは反省しなくてはいけない。理由は何だろうと辿ってみるライラではあったけれど、当然ながら手紙のことになるだろう。
「……ライラさん、少しだけおセンチさんなのかもしれませんです」
「どこで覚えたのそんな言葉」
このあいだハスミさんがおっしゃってました、と補足するライラ。使い方はこれで合っているはず、と。視線を合わせる二人。緊張気味の空気が少し、和らいだ。
「プロデューサー殿、ご相談いいでしょうか」
「うん」
「ありがとうございますですよ。……えっと」
ライラも、やっぱり彼にはきちんと説明しておくことが大事だと思った様子。とはいえ、何から話してよいものか、少し迷ってしまうところもあるようで。しばし沈黙が流れる。
「あー、ちょっとお待ちくださいね」
うまい言葉が出てこずうーんと首をひねるライラに、そっと笑顔を寄せる彼。
「待つよ。でも話すのが難しいなら焦らないこと。少しずつでもいいし、今じゃなくてもいい。もちろん今何か聞かせてくれるならちゃんと聞くし、一緒に考えられることは考えるから」
ここじゃない場所がいいならまた相談に乗るし、何でも言ってほしい。彼はそう続けた。
「―― ありがとうございます、ですよ」
相談そのものも大事だけど、信頼があるってことが何より大切だし、彼はきっとそう。それが伝わってくる言葉に、ライラは嬉しくなった。
「ごめんなさい、ではまた改めていつか、でよろしいですか?」
「もちろん」
笑顔を交わす。大丈夫、もう少し頭の中で整理できたらお伝えしてみましょう。己に言い聞かせるように小さくつぶやくライラの姿があった。
プロデューサーという人物にも少し触れておく必要があるだろう。言わずもがな、この少女と公園で出会い、アイドルとして迎え入れたのが彼である。その出会いを運命と呼ぶか偶然の産物と呼ぶかは定かでないが、彼女の複雑な出自を知ってなお手を差し伸べたことは事実であり、それはライラに少なからずアイドルとしての可能性を見たということでもある。彼女はきっと伸びるし、きっと輝く。それを誰より信じているのは彼だった。同情や人助けの思いで提案したわけではないのだ。だからこそ、だからこそ、彼女のフォローアップや様々なケアについてひときわ熱心だし、誰よりも気を回している一人でもあった。
元々とにかくマメな性格で、担当アイドルへはもちろん周囲の関係者や業界の方々への気配りも忘れない。熱心さと驕らない謙虚さが部署内では評判だった。
とはいえ結局他人は他人、伝わらないこともあるし汲み取れないことだってある。まして相手が異性だったり、異文化圏からやって来た子だったりすればなおさらである。
彼がライラをスカウトしてきたと報告した折、事務所では驚きとともに心配の声も少なからずあった。アイドルとしてきちんとプロデュースしていけるかはもちろん、彼女本人のケアに求められることも多いだろうことが懸念されたからだ。だが彼にも彼なりの熟慮と決意があったと汲み取られ、事務所からはゴーサインがくだった。彼という一人のプロデューサーの運命もここで大きく動いたのだった。
どんなに心血を注ごうと、アイドルとして大成することを約束できるわけではないし、先のことに責任を負えるわけでもない。しかしそれでも賽は投げられた。ここは既にルビコン川の彼岸なのだ。ライラのアイドル活動はそうした彼の覚悟とともに始まったことは間違いない。
日進月歩、物語は動いていた。当初は歌もダンスもおぼつかない彼女ではあったが、光るものは確かにあって、熱心に一つずつ学び覚えていく努力の姿もそこにはあった。それはまたライラ自身の内なる覚悟の賜物かもしれないし、彼女のなりのセンスに導かれる部分だったのかもしれない。
一つ厳然たる事実として、プロデューサーの言葉や思い、気づかいや理解が、ライラにはとても心地よかったということがある。そしてそれはプロデューサーにとってのライラの言動にも当てはまることだった。これこそは理論や理屈では埋め難い、運命的なことなのかもしれない。人はそれを相性、などと言ったり言わなかったり。
出会うべくして出会ったかどうかを明言するのは難しい。しかしきっと、無二の信頼関係は築けるように思っていた。おそらく、お互いに。
それでも、だからこそ、言葉は必要なのだけど。
11:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2020/11/08(日) 09:06:34.55 :FQVp12gN0
「フゴフゴ」
プロデューサーが机に戻るのと入れ違いに、後ろからソファ越しにパンの薫りと柔らかな咀嚼音が来訪した。視線を寄せるとコロネがふたつ。
「お疲れ様でございます、フゴフゴさん」
大原みちる。パンを食べている人。そして、パンを分けてくれた人。
初見のライラの感想はそれに尽きる。公園のベンチでぼんやりしていたところに偶然通りがかった彼女。空腹を隠せないでいたライラの様子をしばし眺めたのち、抱えるように持っていた袋からパンを一つ取り出し、彼女に差し出した。自身は既に口いっぱいに頬張っていたため、言葉少なにフゴ、フゴ、と述べただけだけど。
パンをもらえることを察し、丁寧にお礼を述べたライラ。こちらどうぞ、とベンチの隣席を促すと彼女もそのまま腰を下ろした。そっと噛みしめると、芳ばしさと、甘さが口の中に広がった。
「とてもおいしいです。ありがとうございますですよ」
笑顔を交わした。
「パンをたくさんお持ちなんですねー」
「フゴフゴ」
「……パン屋さんでございますか?」
「フゴ!」
頬張りながら頷く少女。
大きな大きなバゲットが、ようやく全て彼女の口の中に収まった。
「……あたしのうち、パン屋なんです! これはおすそわけ! おいしいものはみんなで! ね、幸せって一緒がいいでしょう?」
そうこうしているうちに少女の手元では次なるベーグルの包みが開かれていた。軽快に口に運ばれる。
「そうですね、こうしていろんな出会いやお話ができて嬉しいです」
しばらく雑談を交わす二人。パンを食べ続ける謎のもぐもぐ少女。どうやら近くの学校に通っている中学生とのこと。なるほど、じゃあまたお会いできるかもしれませんね、とライラ。
「またお会いできますように。……わたくし、ライラと申します。お名前伺ってよろしいですか?」
「フゴフゴ」
ロールパンを咥えたまま「大原みちるです」と彼女は名乗った、つもりだった。
二ヶ月後、事務所で偶然の再会を果たした時に「あの時はありがとうございました、フゴフゴさん」と返されたのだけど、それはまた別の話。
「ライラさん、プロデューサーさんに相談するのは難しいですか?」
話題はさっきのライラのことになった。ぐうぜん近くに座っていたので会話の様子が少し、みちるの耳にも入っていたという。言葉に詰まっているようだったのが気になったとのこと。
「伝えるって難しいですよね。でもやっぱり大事なんだって、あたし思うんです」
話せることからでいいんです、とみちるは続けた。漠然と思うこと。感じていること。ちょっとした考え。やってみたいこと。今日あった楽しいこと。好きなこと。好きな人。なんでも。
「話すときっと、また見えてくることはありますよ」
だからあいまいでも、まとまっていなくても、想いは口に出していいと思うんです、と。それはたとえ言葉足らずの時にも笑顔と意思で前に進む、大原みちるらしいメッセージでもあった。
「相手にもっともっと知ってほしいし、相手のことをもっともっと知りたいって思う気持ちは大切ですから。ライラさんも大切にしてくださいね♪」
なるほどー、とライラが相槌をうつ。噛み締めるほどに、自分にも当てはまる言葉だ。
プロデューサーには特にそうだ。信じることも、頼りにしていることもたくさんあるし、いろんな気持ちが溢れている。それはライラにとっても確かなことだ。みちるにそれを話すと、そう言えるのって大切なことですよ! と返してくれた。
「フゴフゴさんも、担当のプロデューサー殿とはそうですか?」
うーん、と一旦間を置きつつ、にっこりと頷いてみせたみちる。
「そうですね! まぁ、あたしプロデューサーのこと大好きですから!」
ライラさんはどうですか?
その質問は答えが見えているようで、でもまだ、どこか口にしづらいものでもあった。
「フゴフゴ」
プロデューサーが机に戻るのと入れ違いに、後ろからソファ越しにパンの薫りと柔らかな咀嚼音が来訪した。視線を寄せるとコロネがふたつ。
「お疲れ様でございます、フゴフゴさん」
大原みちる。パンを食べている人。そして、パンを分けてくれた人。
初見のライラの感想はそれに尽きる。公園のベンチでぼんやりしていたところに偶然通りがかった彼女。空腹を隠せないでいたライラの様子をしばし眺めたのち、抱えるように持っていた袋からパンを一つ取り出し、彼女に差し出した。自身は既に口いっぱいに頬張っていたため、言葉少なにフゴ、フゴ、と述べただけだけど。
パンをもらえることを察し、丁寧にお礼を述べたライラ。こちらどうぞ、とベンチの隣席を促すと彼女もそのまま腰を下ろした。そっと噛みしめると、芳ばしさと、甘さが口の中に広がった。
「とてもおいしいです。ありがとうございますですよ」
笑顔を交わした。
「パンをたくさんお持ちなんですねー」
「フゴフゴ」
「……パン屋さんでございますか?」
「フゴ!」
頬張りながら頷く少女。
大きな大きなバゲットが、ようやく全て彼女の口の中に収まった。
「……あたしのうち、パン屋なんです! これはおすそわけ! おいしいものはみんなで! ね、幸せって一緒がいいでしょう?」
そうこうしているうちに少女の手元では次なるベーグルの包みが開かれていた。軽快に口に運ばれる。
「そうですね、こうしていろんな出会いやお話ができて嬉しいです」
しばらく雑談を交わす二人。パンを食べ続ける謎のもぐもぐ少女。どうやら近くの学校に通っている中学生とのこと。なるほど、じゃあまたお会いできるかもしれませんね、とライラ。
「またお会いできますように。……わたくし、ライラと申します。お名前伺ってよろしいですか?」
「フゴフゴ」
ロールパンを咥えたまま「大原みちるです」と彼女は名乗った、つもりだった。
二ヶ月後、事務所で偶然の再会を果たした時に「あの時はありがとうございました、フゴフゴさん」と返されたのだけど、それはまた別の話。
「ライラさん、プロデューサーさんに相談するのは難しいですか?」
話題はさっきのライラのことになった。ぐうぜん近くに座っていたので会話の様子が少し、みちるの耳にも入っていたという。言葉に詰まっているようだったのが気になったとのこと。
「伝えるって難しいですよね。でもやっぱり大事なんだって、あたし思うんです」
話せることからでいいんです、とみちるは続けた。漠然と思うこと。感じていること。ちょっとした考え。やってみたいこと。今日あった楽しいこと。好きなこと。好きな人。なんでも。
「話すときっと、また見えてくることはありますよ」
だからあいまいでも、まとまっていなくても、想いは口に出していいと思うんです、と。それはたとえ言葉足らずの時にも笑顔と意思で前に進む、大原みちるらしいメッセージでもあった。
「相手にもっともっと知ってほしいし、相手のことをもっともっと知りたいって思う気持ちは大切ですから。ライラさんも大切にしてくださいね♪」
なるほどー、とライラが相槌をうつ。噛み締めるほどに、自分にも当てはまる言葉だ。
プロデューサーには特にそうだ。信じることも、頼りにしていることもたくさんあるし、いろんな気持ちが溢れている。それはライラにとっても確かなことだ。みちるにそれを話すと、そう言えるのって大切なことですよ! と返してくれた。
「フゴフゴさんも、担当のプロデューサー殿とはそうですか?」
うーん、と一旦間を置きつつ、にっこりと頷いてみせたみちる。
「そうですね! まぁ、あたしプロデューサーのこと大好きですから!」
ライラさんはどうですか?
その質問は答えが見えているようで、でもまだ、どこか口にしづらいものでもあった。
12:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2020/11/08(日) 09:07:02.21 :FQVp12gN0
* * * * *
「少し掴めてきたようね。いい感じよ」
「おー、いけておりましたか。えへへ、ありがとうございますですよー」
翌日のレッスン終わり。千夏から動きを褒められ、笑みを見せつつ言葉を返すライラ。
「いいですね! 緩急のつけ方が少しずつうまくなってきました。表現の積み重ねはこれからですけど、まずはいい調子ですよ!」
青木トレーナーの言葉も明るい。いい流れがきているのがわかる。
レッスンを終え、事務室へ戻りながら千夏と会話を交わすライラ。途中、通りがかった部屋から美しいメロディと雄大な声が聞こえてきた。
「今日もやってるわね」
二人で扉の窓越しにそっと覗くと、伴奏に合わせて伸びやかに歌い上げる黒川千秋の姿がそこにあった。一節歌っては担当する青木麗トレーナーと確認、また一節繰り返しては確認。緻密で厳格、妥協のない彼女らしさがそこに見て取れる。また声が響く。繊細で力強く、そして美しい。まさしく黒川千秋、彼女の声だ。
「すごいわね」
「すごいですねー」
事務所の売り出し中アイドルの一人であり、最近ますます活躍どころが増えつつある彼女。ステージ活動に限らず、バラエティでの雛壇や地方レポでのちょっとした役回りなど、分野を問わず様々な仕事が舞い込んできているが、どれも苦手意識を持たず積極的にアタックするし、その様子はお茶の間にも概ね好評である。一方で彼女のストイックで妥協のない姿勢、こうした陰ながらの努力、そうして積み上げられた信頼と確かな歌唱力。これこそが彼女の人気を不動のものにしている。技術的な細かなことまではわからないライラにとっても、その歌声は心に響くものがあった。
千夏もそうだが、先輩たちはみな自分たちの魅力に長けている。自己理解と研鑽の賜物、なのかもしれない。自分もうまくならなくては、という気持ちに駆られるライラ。
「二人とも、お疲れさま」
プロデューサーと廊下で合流した。千夏と三人で今日の振り返りをしつつ歩く。
「またレッスンも見てあげてね。ライラ、どんどんうまくなってきてるわよ」
「相川さんが言うなら間違いないですね。明日は見られるから楽しみにしてるよ」
「えへへ、頑張りますですよー」
にっこり笑ってみせるライラ。彼女はこうした空気がとてもお気に入りだ。
でも、自分が前に進むためには。己を進めていくためには。それにはまず、言葉を発していかないと。みちるを見て、千夏を見て、ライラは改めてそれを自覚していた。
「……プロデューサー殿、あの」
ライラが口を開いたところで、大きな声とともにその話は遮られた。千川ちひろが事務室からこちらへ走ってやってきた。
「すみませんプロデューサーさん! あの、アポなしで面会を求めて来られた方がいらっしゃるんですが……その、今、大丈夫でしょうか?」
緊張気味の表情を隠せないちひろは珍しい。
「あ、はいもちろん。……えっと、どなたが?」
「詳細までは伺えなかったんですが、あの、……ライラちゃんの関係者の方、と」
* * * * *
「少し掴めてきたようね。いい感じよ」
「おー、いけておりましたか。えへへ、ありがとうございますですよー」
翌日のレッスン終わり。千夏から動きを褒められ、笑みを見せつつ言葉を返すライラ。
「いいですね! 緩急のつけ方が少しずつうまくなってきました。表現の積み重ねはこれからですけど、まずはいい調子ですよ!」
青木トレーナーの言葉も明るい。いい流れがきているのがわかる。
レッスンを終え、事務室へ戻りながら千夏と会話を交わすライラ。途中、通りがかった部屋から美しいメロディと雄大な声が聞こえてきた。
「今日もやってるわね」
二人で扉の窓越しにそっと覗くと、伴奏に合わせて伸びやかに歌い上げる黒川千秋の姿がそこにあった。一節歌っては担当する青木麗トレーナーと確認、また一節繰り返しては確認。緻密で厳格、妥協のない彼女らしさがそこに見て取れる。また声が響く。繊細で力強く、そして美しい。まさしく黒川千秋、彼女の声だ。
「すごいわね」
「すごいですねー」
事務所の売り出し中アイドルの一人であり、最近ますます活躍どころが増えつつある彼女。ステージ活動に限らず、バラエティでの雛壇や地方レポでのちょっとした役回りなど、分野を問わず様々な仕事が舞い込んできているが、どれも苦手意識を持たず積極的にアタックするし、その様子はお茶の間にも概ね好評である。一方で彼女のストイックで妥協のない姿勢、こうした陰ながらの努力、そうして積み上げられた信頼と確かな歌唱力。これこそが彼女の人気を不動のものにしている。技術的な細かなことまではわからないライラにとっても、その歌声は心に響くものがあった。
千夏もそうだが、先輩たちはみな自分たちの魅力に長けている。自己理解と研鑽の賜物、なのかもしれない。自分もうまくならなくては、という気持ちに駆られるライラ。
「二人とも、お疲れさま」
プロデューサーと廊下で合流した。千夏と三人で今日の振り返りをしつつ歩く。
「またレッスンも見てあげてね。ライラ、どんどんうまくなってきてるわよ」
「相川さんが言うなら間違いないですね。明日は見られるから楽しみにしてるよ」
「えへへ、頑張りますですよー」
にっこり笑ってみせるライラ。彼女はこうした空気がとてもお気に入りだ。
でも、自分が前に進むためには。己を進めていくためには。それにはまず、言葉を発していかないと。みちるを見て、千夏を見て、ライラは改めてそれを自覚していた。
「……プロデューサー殿、あの」
ライラが口を開いたところで、大きな声とともにその話は遮られた。千川ちひろが事務室からこちらへ走ってやってきた。
「すみませんプロデューサーさん! あの、アポなしで面会を求めて来られた方がいらっしゃるんですが……その、今、大丈夫でしょうか?」
緊張気味の表情を隠せないちひろは珍しい。
「あ、はいもちろん。……えっと、どなたが?」
「詳細までは伺えなかったんですが、あの、……ライラちゃんの関係者の方、と」
13:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2020/11/08(日) 09:08:00.86 :FQVp12gN0
* * * * *
「お待たせしました」
いつになく緊張感が漂う応接室に入るプロデューサー。
そこで彼が対峙したのは紳士然とした風体の外国人男性だった。ライラと似ているようで違うようで、そんな紺碧の瞳が印象的。
「初めまして。唐突で不躾な訪問をお許しください」
自己紹介を受ける。ライラの両親に頼まれてやってきたエージェントだという。黒服のSPみたいな人物が現れるのかと思ったらそうではなく、話のできそうな感じのビジネスマンがそこにいた。いや、むしろ警戒が必要かもしれないなとプロデューサーは思った。
ライラも一言だけ、エージェントの男性と挨拶を交わした。アラビア語らしき言葉はプロデューサーたちにはわからなかったが、どうやら面識があるらしいことだけは周囲にも察しがついた。とはいえ、顔は強張ったままのライラ。不安でいっぱいなこともまた事実だった。
挨拶が済んだ男性がプロデューサーの方に向き直る。
「いくつかお話をできればと思うのですが……、まずその前に、ライラ様を救ってくださったこと、今なお生活面含め様々にサポートしてくださっていること、母国の親族に代わってお礼を述べさせてください。本当にありがとうございます」
深々と頭を下げるエージェント。流暢な日本語だった。
「いえいえ、それは様々な偶然が重なってのことです。頭をあげてください。話を進めましょう」
プロデューサーが応じつつ先を促す。本題はここからだ。しかしキッチリとした礼から入ってこられたことに、内心少しだけほっとするところもあった。ひとまず、高圧的あるいは暴力的に何かがなされることはない様子だったから。
「……私たちはライラ様の、そして皆様の味方である、ということを説明させてください」
エージェントが言葉を選ぶように、丁寧に切り出す。
結論から言えばライラを連れて帰ろうというものではない。どのような状態でいるかのより詳細な確認がしたくてここに来たということ。皆心配していたし、何をおいてもまずそのことであろうと。
何人ものエージェントの尽力により、ライラの消息が日本で確認でき、アイドル活動をしていることを数ヶ月前にようやく把握した。そしてその活動や人間関係を通じて彼女が成長していることを窺い知ることもできた。前向きに努力し、学び、苦労をしながらも生活していること。周囲の人間に恵まれていること。今を大切に思っていること。その事実に皆まず安堵したこと。何一つ否定するつもりはないし、むしろ逃避行する決断をさせてしまった事実について謝らねばならない、とお父様も述べている状態であること。
その言葉を聞いて驚きを隠せないライラ。エージェントは言葉を続けた。
ただ一方で、一族には一族の守らねばならないこともあるし、邁進しなければならない父の事情は父の事情として存在すること。父にも思いがあるし、責務もあるし、譲れない部分もあるということ。そのうえで、決してこのまま今生の別れとするわけにはいかないということ。
「そこで私がやってきた、ということになります」
エージェントは改めて己の使命を説明した。連れて帰れと言われているわけではなく、もう一度わかり合えるよう、よい関係にしていくよう策を案じよと言われているのだと。それは穏やかな言葉のようではあるが、しかし、具体的にどうするかとなると難しい。
「本音としては、お父様も、家族の皆様も帰国を望まれている、と思います」
それが偽らざる真意であろうと。しかしライラの意思を無視して連れて帰ることは決して望ましい形ではないだろうと。皆にとってよい結論を探していく必要がある。
「私は個人的に、ライラ様にも笑顔でいて頂きたいですし、母国の皆様にも納得できる何かをお届けしたい。そのためには時間をかけて双方に話を掛け合い、慎重に策を考えていきたいと思っています」
事を荒立てたりするつもりも、無下なことを述べるつもりもありません。ですので今後もなにとぞご協力、ご斟酌頂ければと思います。そう言ってエージェントは再び深く頭を垂れた。
「……」
どう反応していいものか、プロデューサーは少し戸惑っていた。こういう人たちが現れる日が来ることは可能性として十分にあったのだけど、準備ができていなかった。しかしそれ以上に、思った以上に柔和な対応で苛烈な提案もなかったことに少し安堵していて、同時にそれが少し怖くもあった。
プロデューサーがライラを見る。彼女もまた、この来訪に備えていなかったのだろうことが伺えた。少しだけ俯いたのち、おもむろに口を開いた。
《連れて帰れではなく、よい関係にしていく策を案じよと》
《はい》
《それは、お父様からの命ですか》
《もちろんです》
《それは》
《はい》
《……それは、その……》
続く言葉が紡げなかったライラ。それは父の体面を保つためのことでしょうか。その質問はさすがに失礼だと感じたから。目の前のエージェントにも、父にも。
沈黙があった。ライラは黙ってうなずいて見せた。
「重ねてになりますが、私はライラ様の、そして皆様の味方です。なにとぞ、ご協力を頂ければ幸いです」
またお伺いします。そう言って再度の丁寧な挨拶とともに、彼は事務所をあとにした。
出入り口の扉が閉まると共に、ようやく事務所の空気が緊張から開放された。
大きく息を吐くプロデューサーに、ライラがぺこりと頭を下げた。
「プロデューサー殿、すみませんです。ライラさんのことでまたご迷惑をお掛けしてしまって」
「そんなことはないよ、大丈夫だから」
「ですが」
言い続けようとするライラを静止するプロデューサー。自戒の言葉は必要ない。それははるか日本にやってきたこの子を、あの日出会ったライラという少女を、アイドルとして受け入れる時に始まった運命の一端にすぎない。その思いは変わらないのだから。
「大丈夫。でもあの人はまた来るだろうし、今後もこういう応対はあるということだから」
そのへんの心づもりはしておかなきゃね、と笑顔を返した。その表情にいくらか気分が落ち着いたのか、ライラもようやくゆっくりと息を吐いた。
そして、もう一つ、話せていなかったことを詫びた。
「じつは先日、アパートに手紙が届いておりました」
文言がどのようなものであったかも説明した。うまく自分の中で飲み込めずいたので話せなかったということも。プロデューサーは頷きながら話を聞いた。
「大変だったんだね。察してあげられなくてごめん」
「そんなことないです。そんなこと」
涙目になりそうなライラをそっと撫でて、少し落ち着くまで待つプロデューサー。
「いっしょに向き合っていこう。大丈夫。向こうも何かを急いているわけではないから」
頷き合う。そう言いつつも、彼の言葉をどこまで信じていいのかは、まだわからない。不安がないと言えば嘘になる。プロデューサーはそんな感覚に囚われていた。
* * * * *
「お待たせしました」
いつになく緊張感が漂う応接室に入るプロデューサー。
そこで彼が対峙したのは紳士然とした風体の外国人男性だった。ライラと似ているようで違うようで、そんな紺碧の瞳が印象的。
「初めまして。唐突で不躾な訪問をお許しください」
自己紹介を受ける。ライラの両親に頼まれてやってきたエージェントだという。黒服のSPみたいな人物が現れるのかと思ったらそうではなく、話のできそうな感じのビジネスマンがそこにいた。いや、むしろ警戒が必要かもしれないなとプロデューサーは思った。
ライラも一言だけ、エージェントの男性と挨拶を交わした。アラビア語らしき言葉はプロデューサーたちにはわからなかったが、どうやら面識があるらしいことだけは周囲にも察しがついた。とはいえ、顔は強張ったままのライラ。不安でいっぱいなこともまた事実だった。
挨拶が済んだ男性がプロデューサーの方に向き直る。
「いくつかお話をできればと思うのですが……、まずその前に、ライラ様を救ってくださったこと、今なお生活面含め様々にサポートしてくださっていること、母国の親族に代わってお礼を述べさせてください。本当にありがとうございます」
深々と頭を下げるエージェント。流暢な日本語だった。
「いえいえ、それは様々な偶然が重なってのことです。頭をあげてください。話を進めましょう」
プロデューサーが応じつつ先を促す。本題はここからだ。しかしキッチリとした礼から入ってこられたことに、内心少しだけほっとするところもあった。ひとまず、高圧的あるいは暴力的に何かがなされることはない様子だったから。
「……私たちはライラ様の、そして皆様の味方である、ということを説明させてください」
エージェントが言葉を選ぶように、丁寧に切り出す。
結論から言えばライラを連れて帰ろうというものではない。どのような状態でいるかのより詳細な確認がしたくてここに来たということ。皆心配していたし、何をおいてもまずそのことであろうと。
何人ものエージェントの尽力により、ライラの消息が日本で確認でき、アイドル活動をしていることを数ヶ月前にようやく把握した。そしてその活動や人間関係を通じて彼女が成長していることを窺い知ることもできた。前向きに努力し、学び、苦労をしながらも生活していること。周囲の人間に恵まれていること。今を大切に思っていること。その事実に皆まず安堵したこと。何一つ否定するつもりはないし、むしろ逃避行する決断をさせてしまった事実について謝らねばならない、とお父様も述べている状態であること。
その言葉を聞いて驚きを隠せないライラ。エージェントは言葉を続けた。
ただ一方で、一族には一族の守らねばならないこともあるし、邁進しなければならない父の事情は父の事情として存在すること。父にも思いがあるし、責務もあるし、譲れない部分もあるということ。そのうえで、決してこのまま今生の別れとするわけにはいかないということ。
「そこで私がやってきた、ということになります」
エージェントは改めて己の使命を説明した。連れて帰れと言われているわけではなく、もう一度わかり合えるよう、よい関係にしていくよう策を案じよと言われているのだと。それは穏やかな言葉のようではあるが、しかし、具体的にどうするかとなると難しい。
「本音としては、お父様も、家族の皆様も帰国を望まれている、と思います」
それが偽らざる真意であろうと。しかしライラの意思を無視して連れて帰ることは決して望ましい形ではないだろうと。皆にとってよい結論を探していく必要がある。
「私は個人的に、ライラ様にも笑顔でいて頂きたいですし、母国の皆様にも納得できる何かをお届けしたい。そのためには時間をかけて双方に話を掛け合い、慎重に策を考えていきたいと思っています」
事を荒立てたりするつもりも、無下なことを述べるつもりもありません。ですので今後もなにとぞご協力、ご斟酌頂ければと思います。そう言ってエージェントは再び深く頭を垂れた。
「……」
どう反応していいものか、プロデューサーは少し戸惑っていた。こういう人たちが現れる日が来ることは可能性として十分にあったのだけど、準備ができていなかった。しかしそれ以上に、思った以上に柔和な対応で苛烈な提案もなかったことに少し安堵していて、同時にそれが少し怖くもあった。
プロデューサーがライラを見る。彼女もまた、この来訪に備えていなかったのだろうことが伺えた。少しだけ俯いたのち、おもむろに口を開いた。
《連れて帰れではなく、よい関係にしていく策を案じよと》
《はい》
《それは、お父様からの命ですか》
《もちろんです》
《それは》
《はい》
《……それは、その……》
続く言葉が紡げなかったライラ。それは父の体面を保つためのことでしょうか。その質問はさすがに失礼だと感じたから。目の前のエージェントにも、父にも。
沈黙があった。ライラは黙ってうなずいて見せた。
「重ねてになりますが、私はライラ様の、そして皆様の味方です。なにとぞ、ご協力を頂ければ幸いです」
またお伺いします。そう言って再度の丁寧な挨拶とともに、彼は事務所をあとにした。
出入り口の扉が閉まると共に、ようやく事務所の空気が緊張から開放された。
大きく息を吐くプロデューサーに、ライラがぺこりと頭を下げた。
「プロデューサー殿、すみませんです。ライラさんのことでまたご迷惑をお掛けしてしまって」
「そんなことはないよ、大丈夫だから」
「ですが」
言い続けようとするライラを静止するプロデューサー。自戒の言葉は必要ない。それははるか日本にやってきたこの子を、あの日出会ったライラという少女を、アイドルとして受け入れる時に始まった運命の一端にすぎない。その思いは変わらないのだから。
「大丈夫。でもあの人はまた来るだろうし、今後もこういう応対はあるということだから」
そのへんの心づもりはしておかなきゃね、と笑顔を返した。その表情にいくらか気分が落ち着いたのか、ライラもようやくゆっくりと息を吐いた。
そして、もう一つ、話せていなかったことを詫びた。
「じつは先日、アパートに手紙が届いておりました」
文言がどのようなものであったかも説明した。うまく自分の中で飲み込めずいたので話せなかったということも。プロデューサーは頷きながら話を聞いた。
「大変だったんだね。察してあげられなくてごめん」
「そんなことないです。そんなこと」
涙目になりそうなライラをそっと撫でて、少し落ち着くまで待つプロデューサー。
「いっしょに向き合っていこう。大丈夫。向こうも何かを急いているわけではないから」
頷き合う。そう言いつつも、彼の言葉をどこまで信じていいのかは、まだわからない。不安がないと言えば嘘になる。プロデューサーはそんな感覚に囚われていた。
14:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2020/11/08(日) 09:08:41.34 :FQVp12gN0
「相川さん、いるんでしょ?」
プロデューサーがパーテーションの向こうに声を投げた。マグカップを持った相川千夏が顔を覗かせる。
「気づいていたのね。ごめんなさい、盗み聞きする趣味はなかったのだけど」
「いえ、相川さんなら話を汲んでくださるし、ありがたいです」
奥でひっそりと待機していた彼女。ダンスの指導役でもある今、渦中のライラの事情は知っておきたいところだろう。ライラも同意するようにうなずいて見せた。一拍ののち、いろいろお疲れ様、と労う様子を二人に対して見せる彼女。
「どう思いました?」
「私に聞くの?」
もちろんです。相川さんの意見もほしいですから、とまっすぐに答えるプロデューサー。あきれた、と言いながら彼女は少しだけ笑った。
実はこの二人の歴は短くない。ユニット活動が増えた近年は別のプロデューサーを介することが多いものの、もともとスカウトしてきたのは彼で、相川千夏はれっきとした担当アイドルである。ライラのサポートをお願いしたのもそうした繋がりがあってのことだった。彼女とは遠慮なく会話ができる空気感があると彼は信じているし、そしてそれは千夏も同じだった。いつだってこうして全力で向き合ってくれる彼は頼もしい、と。ちょっと唐突なところが玉に瑕だけど。
「あなたらしいわね」
まっすぐな彼の視線が千夏はどこか苦手で、そして少しだけ好きだった。
「率直に、あの人をどれくらい信じますか」
閑話休題。プロデューサーがざっくりと切り出す。少しだけ思案する千夏。
「……あの人の言葉を、というならかなり信じてもいいんじゃないかしら」
でもあの人を信じていいかとなると、なんとも。そう彼女は返した。概ねプロデューサーも同意見だった。
「そう……でしょうか」
そこにライラが言葉を挟む。
「むしろ逆かもしれませんです」
「……というと?」
二人が視線を送る。俯き加減で、彼女は言葉を続けた。
「あの方は向こうで、パパからそれなりに信頼されていた方だったと思いますです。お仕事ができる方で、ライラさんにも優しい方でした。……だからこそ」
だからこそ、あの感じが少し不思議でした、と。遠大なことのような、ひとまずは静観するような、あの説明に違和感を覚えたというのがライラの主張だった。あの語りが嘘ではないにせよ、何かあるかもしれない。あるいは新たな提案がまた持って寄越されるかもしれない。それは、ありえることだ。
「相川さん、いるんでしょ?」
プロデューサーがパーテーションの向こうに声を投げた。マグカップを持った相川千夏が顔を覗かせる。
「気づいていたのね。ごめんなさい、盗み聞きする趣味はなかったのだけど」
「いえ、相川さんなら話を汲んでくださるし、ありがたいです」
奥でひっそりと待機していた彼女。ダンスの指導役でもある今、渦中のライラの事情は知っておきたいところだろう。ライラも同意するようにうなずいて見せた。一拍ののち、いろいろお疲れ様、と労う様子を二人に対して見せる彼女。
「どう思いました?」
「私に聞くの?」
もちろんです。相川さんの意見もほしいですから、とまっすぐに答えるプロデューサー。あきれた、と言いながら彼女は少しだけ笑った。
実はこの二人の歴は短くない。ユニット活動が増えた近年は別のプロデューサーを介することが多いものの、もともとスカウトしてきたのは彼で、相川千夏はれっきとした担当アイドルである。ライラのサポートをお願いしたのもそうした繋がりがあってのことだった。彼女とは遠慮なく会話ができる空気感があると彼は信じているし、そしてそれは千夏も同じだった。いつだってこうして全力で向き合ってくれる彼は頼もしい、と。ちょっと唐突なところが玉に瑕だけど。
「あなたらしいわね」
まっすぐな彼の視線が千夏はどこか苦手で、そして少しだけ好きだった。
「率直に、あの人をどれくらい信じますか」
閑話休題。プロデューサーがざっくりと切り出す。少しだけ思案する千夏。
「……あの人の言葉を、というならかなり信じてもいいんじゃないかしら」
でもあの人を信じていいかとなると、なんとも。そう彼女は返した。概ねプロデューサーも同意見だった。
「そう……でしょうか」
そこにライラが言葉を挟む。
「むしろ逆かもしれませんです」
「……というと?」
二人が視線を送る。俯き加減で、彼女は言葉を続けた。
「あの方は向こうで、パパからそれなりに信頼されていた方だったと思いますです。お仕事ができる方で、ライラさんにも優しい方でした。……だからこそ」
だからこそ、あの感じが少し不思議でした、と。遠大なことのような、ひとまずは静観するような、あの説明に違和感を覚えたというのがライラの主張だった。あの語りが嘘ではないにせよ、何かあるかもしれない。あるいは新たな提案がまた持って寄越されるかもしれない。それは、ありえることだ。
15:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2020/11/08(日) 09:09:19.31 :FQVp12gN0
* * * * *
ライラはその日、父の夢を見た。敬愛する父の夢を。
偉大で、人望があって、たくさんの人を束ねている、アラブ屈指の資産家の当主。蓄財はもちろん、モノの動かし方にも長けており、また慈善活動などにも積極的。かの有名なロックフェラーの一族よろしく「お金を使うのもうまい人」だった。決して怖い人ではなかったし、行動力があって、決断力があって、いつだってライラに多面的な見方や正しさ、適切さを教えてくれた。
父と過ごす時間はライラの幸せの一つだった。
想いや考えを言葉にすること。口にすること。伝えること。それは何より大切である。はじめにそれをライラに教えてくれたのは父だった。成すべきことをきちんと公言し、そして実践する。それが信頼に繋がるから、と。ライラはその言葉も、実践してみせる父の姿も、意気揚々と話してみせる様子も好きだった。
幼いライラは好奇心のままに思うことを述べ、「それは違うんだよ」と正されることもしばしばあった。しかしそういう時、ライラの父はいつだって楽しそうだった。様々な質問や疑問に対し、ライラが理解するまで何度も何度も丁寧に教え説いてくれた。愛に溢れた父の姿がそこにあったのは間違いない。
一方で、国の動くような大きな事業にさえ携わっているライラの父には、当然ながら厳格さや怖さも常に見え隠れしていた。たくさんの人に慕われていたし、立派な人として名が通っていた。ライラも自らの成長とともに、父の立場やその存在の大きさが少しずつ認識できるようになり、少しずつわきまえるようになっていった。娘には変わらず優しい父だったが、邪魔にならないように、機嫌を損ねないようにと意識する娘の姿もそこにはあった。
やがてライラのもとにも、結婚の話が舞い込むようになる。
始まりは十四の誕生日だった。一族の暖かな祝福に囲まれた席上で、ライラの父は心からの愛とともに「ライラの結婚相手を探し始めよう」と宣言した。いささか気が早いのでは、という母の言葉は一蹴された。彼女に相応な、立派な相手を探すのに早すぎることはないと。
それ以降、会う人に娘を紹介したり、年頃の男性がいないか調べたりするライラ父の姿がしばしば見かけられるようになる。相手は名家の子息だったり、実業家の二代目だったり、あるいは有名な若い人気役者だったり。それは決して不思議なことではなく、一族的にも、社会風習的にもよくある話といえばそうだった。ライラ自身、それを不思議に思うことも、否定することもなかった。そういうものだろう。自分もそういう歳になったのだろうと。
当人不在で進んでしまう盲目片手落ちな話は古今東西あふれているが、そこは徹底主義のライラ父。彼女本人とのコミュニケーションも決して欠かすことはなかった。―― ライラと顔を合わせるたびに結婚が素敵なものだと説き、相手候補になりそうな人物の話をし、いずれ縁があるかもしれない企業の話をした。―― それは父なりの精一杯の愛だったのだと、ライラは思っている。
十四歳の誕生日を最後に、以後二人の間に「会話」がなされることはなかったのだけど。
ライラにもやってみたいことはたくさんあったし、好奇心の矛先はいっぱいあった。けれどそれが地元の名士の娘にふさわしいことかどうかは考えたし、その結果断念したことも多かった。それを辛いと思うことはなかった。そのはずだった。
この頃に前後して、ライラは屋敷の奥部屋に膨大に並べられている書籍に興味を持った。神話に童話、歴史書に随筆、小説から詩まで、知らない世の中の様々な物語が眠っていた。好奇心の赴くままに、ライラは少しずつ読み深めるようになる。
かつてイベリア半島の広大な王国を一身に担うこととなった女王ファナは愛ゆえに狂気の化身となってしまったという。はたして彼女は幸せだったのだろうか。国を担ったのは運命の歯車の賜物でしかなく、躍進と栄華の最中にあってなお満ちぬ思いと不安に追われ続けた彼女は幽閉されて人生を終える。しかしその逸話はどこを取っても夫への愛に溢れていた。狂女王などと呼ばれる悲哀の人。しかしそれほどに愛することができた彼女は、ひょっとすると幸せだったのかもしれない。
狂気の話はアラブにもあった。皮肉にもそちらは愛される人物の名がライラだったりするのだけれど。こちらはどうあれ悲恋だし悲劇だ。想いが強かろうと、マジュヌーンもまた救われない。しかし皮肉にも、恋焦がれ、愛に尽きるその物語は名文とされていた。
恋愛とは異なるが、はるか東洋には狂気の末に虎へと変貌してしまったお話もあった。それは己にそれだけの自負や自尊心があったため招いた「個としての悲劇」とされる。背負わなければ苦しまずに済んだろうと言うのは容易い。しかしそうはできないのだ。比喩のようでいて、どこか笑えないものでもあった。愚かさは古今変わらぬ人間の業だという。生きるとはかくも難しく、そして様々である。
愛のそばにしばしば寄り添って現れる「狂気」という単語が、ライラの中で印象に残るようになっていた。
ライラは思う。己の運命を否定するつもりは少しもないし、自分の人生はじゅうぶんに幸福だ。日々は小さな発見の連続だし、きっとこれからもそう。そういうもの。ただ、時の流れや世情の変化の中で失われていくものも当然あって、父との会話がそこに当てはまるのが残念だと。―― いや、より厳密に言えば、父は今もそこにいて、笑顔を見せてくれるし、愛をもって自分に接してくれる。でも結婚以外の話が交わされることは、きっともうない。それは尚更悲しいことだった。
どこかやるせなさや鬱屈さのようなものは存在したし、それは少しずつ彼女の中に募っていた。同時に外の世界への好奇心も。
* * * * *
ライラはその日、父の夢を見た。敬愛する父の夢を。
偉大で、人望があって、たくさんの人を束ねている、アラブ屈指の資産家の当主。蓄財はもちろん、モノの動かし方にも長けており、また慈善活動などにも積極的。かの有名なロックフェラーの一族よろしく「お金を使うのもうまい人」だった。決して怖い人ではなかったし、行動力があって、決断力があって、いつだってライラに多面的な見方や正しさ、適切さを教えてくれた。
父と過ごす時間はライラの幸せの一つだった。
想いや考えを言葉にすること。口にすること。伝えること。それは何より大切である。はじめにそれをライラに教えてくれたのは父だった。成すべきことをきちんと公言し、そして実践する。それが信頼に繋がるから、と。ライラはその言葉も、実践してみせる父の姿も、意気揚々と話してみせる様子も好きだった。
幼いライラは好奇心のままに思うことを述べ、「それは違うんだよ」と正されることもしばしばあった。しかしそういう時、ライラの父はいつだって楽しそうだった。様々な質問や疑問に対し、ライラが理解するまで何度も何度も丁寧に教え説いてくれた。愛に溢れた父の姿がそこにあったのは間違いない。
一方で、国の動くような大きな事業にさえ携わっているライラの父には、当然ながら厳格さや怖さも常に見え隠れしていた。たくさんの人に慕われていたし、立派な人として名が通っていた。ライラも自らの成長とともに、父の立場やその存在の大きさが少しずつ認識できるようになり、少しずつわきまえるようになっていった。娘には変わらず優しい父だったが、邪魔にならないように、機嫌を損ねないようにと意識する娘の姿もそこにはあった。
やがてライラのもとにも、結婚の話が舞い込むようになる。
始まりは十四の誕生日だった。一族の暖かな祝福に囲まれた席上で、ライラの父は心からの愛とともに「ライラの結婚相手を探し始めよう」と宣言した。いささか気が早いのでは、という母の言葉は一蹴された。彼女に相応な、立派な相手を探すのに早すぎることはないと。
それ以降、会う人に娘を紹介したり、年頃の男性がいないか調べたりするライラ父の姿がしばしば見かけられるようになる。相手は名家の子息だったり、実業家の二代目だったり、あるいは有名な若い人気役者だったり。それは決して不思議なことではなく、一族的にも、社会風習的にもよくある話といえばそうだった。ライラ自身、それを不思議に思うことも、否定することもなかった。そういうものだろう。自分もそういう歳になったのだろうと。
当人不在で進んでしまう盲目片手落ちな話は古今東西あふれているが、そこは徹底主義のライラ父。彼女本人とのコミュニケーションも決して欠かすことはなかった。―― ライラと顔を合わせるたびに結婚が素敵なものだと説き、相手候補になりそうな人物の話をし、いずれ縁があるかもしれない企業の話をした。―― それは父なりの精一杯の愛だったのだと、ライラは思っている。
十四歳の誕生日を最後に、以後二人の間に「会話」がなされることはなかったのだけど。
ライラにもやってみたいことはたくさんあったし、好奇心の矛先はいっぱいあった。けれどそれが地元の名士の娘にふさわしいことかどうかは考えたし、その結果断念したことも多かった。それを辛いと思うことはなかった。そのはずだった。
この頃に前後して、ライラは屋敷の奥部屋に膨大に並べられている書籍に興味を持った。神話に童話、歴史書に随筆、小説から詩まで、知らない世の中の様々な物語が眠っていた。好奇心の赴くままに、ライラは少しずつ読み深めるようになる。
かつてイベリア半島の広大な王国を一身に担うこととなった女王ファナは愛ゆえに狂気の化身となってしまったという。はたして彼女は幸せだったのだろうか。国を担ったのは運命の歯車の賜物でしかなく、躍進と栄華の最中にあってなお満ちぬ思いと不安に追われ続けた彼女は幽閉されて人生を終える。しかしその逸話はどこを取っても夫への愛に溢れていた。狂女王などと呼ばれる悲哀の人。しかしそれほどに愛することができた彼女は、ひょっとすると幸せだったのかもしれない。
狂気の話はアラブにもあった。皮肉にもそちらは愛される人物の名がライラだったりするのだけれど。こちらはどうあれ悲恋だし悲劇だ。想いが強かろうと、マジュヌーンもまた救われない。しかし皮肉にも、恋焦がれ、愛に尽きるその物語は名文とされていた。
恋愛とは異なるが、はるか東洋には狂気の末に虎へと変貌してしまったお話もあった。それは己にそれだけの自負や自尊心があったため招いた「個としての悲劇」とされる。背負わなければ苦しまずに済んだろうと言うのは容易い。しかしそうはできないのだ。比喩のようでいて、どこか笑えないものでもあった。愚かさは古今変わらぬ人間の業だという。生きるとはかくも難しく、そして様々である。
愛のそばにしばしば寄り添って現れる「狂気」という単語が、ライラの中で印象に残るようになっていた。
ライラは思う。己の運命を否定するつもりは少しもないし、自分の人生はじゅうぶんに幸福だ。日々は小さな発見の連続だし、きっとこれからもそう。そういうもの。ただ、時の流れや世情の変化の中で失われていくものも当然あって、父との会話がそこに当てはまるのが残念だと。―― いや、より厳密に言えば、父は今もそこにいて、笑顔を見せてくれるし、愛をもって自分に接してくれる。でも結婚以外の話が交わされることは、きっともうない。それは尚更悲しいことだった。
どこかやるせなさや鬱屈さのようなものは存在したし、それは少しずつ彼女の中に募っていた。同時に外の世界への好奇心も。
16:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2020/11/08(日) 09:10:00.26 :FQVp12gN0
そんな彼女の様子を誰より気づかっていたのが、側仕えのメイドだった。
ライラの日常に寄り添うようになってそれなりに年月が経つ。日々彼女の優しさ、暖かさ、好奇心など様々な魅力に触れてきた。仕える側にもかかわらず、むしろ自分の方がたくさんの幸せをもらえているようだとメイドは思っていた。それだけライラは素敵で、ライラは美しかった。
そんな折に訪れた縁談の話。
ライラは決して結婚を否定しないし、むしろ新たな出会いに興味すらある様子だった。それは父を安心させるに足る姿ではあったものの、真意はその限りではない。少しだけ儚さがにじむようになった彼女の横顔を、その理由を、父が気づくことはなかった。
側仕えとして彼女を支えていたメイドに、判断が迫られていた。
結婚に備え彼女が気持ちを整えていけるようフォローするのか。
それに代わる生きる術を見つけていけるようフォローするのか。
越権行為を詫びながら、メイドはこっそりとライラ母に相談を繰り返した。
何度となく、ライラ自身とも話をした。
己の運命も、少しだけ考えた。
そして彼女は一つの案をライラに持ちかけることになる。はるか彼方、東洋へ……日本へ旅をしませんかと。意を決して切り出した彼女の問いかけに対して、ライラの反応は好意的なものだった。
メイドの決断は、ライラをどこか父の目の届かないところへ連れて行くというものだった。故郷を捨てる永遠の旅路になるのか、はたまた再び戻ってくるのか。それは時勢にもよるし、何よりライラ父の反応にもよる。先の見えない逃避行であることは間違いない。
太平洋上の小さな島のどこかに行く案も考えた。だが社会制度や治安、現地で働くことを考えるとなかなか決断ができない。
そんな中で選択肢に入ったのが日本だった。
経済の浮き沈みが激しい文化混様な国。治安もそれほど悪くない。仕事があるかは……なんともわからないけれど。巷に溢れるモノはそれなりに豊富だと聞く。異邦人として入りゆく立場として、混在が自然な国なのはありがたい。
こちらにはない文化も多い。ライラが喜ぶのではないかな、という発想がメイドの頭によぎった。
ライラは一つだけ、メイドに問いかけをした。
《日本に行くことが……わたくしが幸せだと思える、最善の選択になりますか……?》
それは答えの難しい問いだった。最善、とは何を意味するだろう。ライラの本当に求めるものは何だろう。世の中は計画通りに回らないことが往々にして多い。もし、悲運に巡り合ってしまったら。そう思う時にはきっともう、取り返しがつかない。それでも。
《ええ、もちろんです》
メイドは彼女と向き合って、彼女の瞳に語りかけるように、まっすぐ返答した。それでも私はこの選択肢を信じたい。今のままここにいて、ここで運命を迎え入れるよりも、きっと彼女の道たりえるだろうと。そう願いながら。
偶然にも、ライラもまた日本という国に少しだけ関心を抱いていた。それは父の仕事の合弁企業として名を連ねる会社に日本の商社を何度となく見たからだった。それは別に豊かさの指標という意味ではないが、本で読んだことしかない東洋の島国の人々がわざわざ中東に訪れて事業をおこなっていることで興味がわいたのだった。
書籍を広げる。サムライがいて、キモノを着て、カタナで戦うお話が印象的だった。もちろん現実に見かける商社の人々がそうでないことから、これらが古典であることくらいは察しがついた。いろんな歴史がある。ニンジャ……は現存かもしれない。なんにせよ、行かねばわからないことは多い。
これを予期していたわけではないが、メイドは拙くも日本語が話せた。本当に、本当にそれによりライラは助けられることとなる。
逃避行を現実のものとすることが決まって以降、水面下での打ち合わせが何度となくおこなわれた。希望の一端を託したかの国は、二人にとってさながら黄金の国ジパングであった。
その日は来た。
ひっそりと屋敷を抜け出したときも、人混みに紛れつつDXBを発つときも、ライラは涙を流さなかった。辛くない、はもちろん嘘だ。だけどこれは自分が決めた道なのだ。家族との別れは悲しくもある。でも、それも運命だ。希望に満ちているのだと信じたい。
深呼吸をひとつ。
父を恨む気持ちは少しもない。それはボタンを掛け違うように「うまく伝え合えなかった」だけのことだから。身勝手をどうか許してほしい、そう思いながら。
手には日本語の本がある。行き先が決まって以降、少しでも話せるようになりたいと密かに勉強をしていた本は既に傷みが見えるほどになっていた。
小さくなっていく故国を飛行機の窓から見下ろしたあと、彼女は少しだけ眠った。
そんな彼女の様子を誰より気づかっていたのが、側仕えのメイドだった。
ライラの日常に寄り添うようになってそれなりに年月が経つ。日々彼女の優しさ、暖かさ、好奇心など様々な魅力に触れてきた。仕える側にもかかわらず、むしろ自分の方がたくさんの幸せをもらえているようだとメイドは思っていた。それだけライラは素敵で、ライラは美しかった。
そんな折に訪れた縁談の話。
ライラは決して結婚を否定しないし、むしろ新たな出会いに興味すらある様子だった。それは父を安心させるに足る姿ではあったものの、真意はその限りではない。少しだけ儚さがにじむようになった彼女の横顔を、その理由を、父が気づくことはなかった。
側仕えとして彼女を支えていたメイドに、判断が迫られていた。
結婚に備え彼女が気持ちを整えていけるようフォローするのか。
それに代わる生きる術を見つけていけるようフォローするのか。
越権行為を詫びながら、メイドはこっそりとライラ母に相談を繰り返した。
何度となく、ライラ自身とも話をした。
己の運命も、少しだけ考えた。
そして彼女は一つの案をライラに持ちかけることになる。はるか彼方、東洋へ……日本へ旅をしませんかと。意を決して切り出した彼女の問いかけに対して、ライラの反応は好意的なものだった。
メイドの決断は、ライラをどこか父の目の届かないところへ連れて行くというものだった。故郷を捨てる永遠の旅路になるのか、はたまた再び戻ってくるのか。それは時勢にもよるし、何よりライラ父の反応にもよる。先の見えない逃避行であることは間違いない。
太平洋上の小さな島のどこかに行く案も考えた。だが社会制度や治安、現地で働くことを考えるとなかなか決断ができない。
そんな中で選択肢に入ったのが日本だった。
経済の浮き沈みが激しい文化混様な国。治安もそれほど悪くない。仕事があるかは……なんともわからないけれど。巷に溢れるモノはそれなりに豊富だと聞く。異邦人として入りゆく立場として、混在が自然な国なのはありがたい。
こちらにはない文化も多い。ライラが喜ぶのではないかな、という発想がメイドの頭によぎった。
ライラは一つだけ、メイドに問いかけをした。
《日本に行くことが……わたくしが幸せだと思える、最善の選択になりますか……?》
それは答えの難しい問いだった。最善、とは何を意味するだろう。ライラの本当に求めるものは何だろう。世の中は計画通りに回らないことが往々にして多い。もし、悲運に巡り合ってしまったら。そう思う時にはきっともう、取り返しがつかない。それでも。
《ええ、もちろんです》
メイドは彼女と向き合って、彼女の瞳に語りかけるように、まっすぐ返答した。それでも私はこの選択肢を信じたい。今のままここにいて、ここで運命を迎え入れるよりも、きっと彼女の道たりえるだろうと。そう願いながら。
偶然にも、ライラもまた日本という国に少しだけ関心を抱いていた。それは父の仕事の合弁企業として名を連ねる会社に日本の商社を何度となく見たからだった。それは別に豊かさの指標という意味ではないが、本で読んだことしかない東洋の島国の人々がわざわざ中東に訪れて事業をおこなっていることで興味がわいたのだった。
書籍を広げる。サムライがいて、キモノを着て、カタナで戦うお話が印象的だった。もちろん現実に見かける商社の人々がそうでないことから、これらが古典であることくらいは察しがついた。いろんな歴史がある。ニンジャ……は現存かもしれない。なんにせよ、行かねばわからないことは多い。
これを予期していたわけではないが、メイドは拙くも日本語が話せた。本当に、本当にそれによりライラは助けられることとなる。
逃避行を現実のものとすることが決まって以降、水面下での打ち合わせが何度となくおこなわれた。希望の一端を託したかの国は、二人にとってさながら黄金の国ジパングであった。
その日は来た。
ひっそりと屋敷を抜け出したときも、人混みに紛れつつDXBを発つときも、ライラは涙を流さなかった。辛くない、はもちろん嘘だ。だけどこれは自分が決めた道なのだ。家族との別れは悲しくもある。でも、それも運命だ。希望に満ちているのだと信じたい。
深呼吸をひとつ。
父を恨む気持ちは少しもない。それはボタンを掛け違うように「うまく伝え合えなかった」だけのことだから。身勝手をどうか許してほしい、そう思いながら。
手には日本語の本がある。行き先が決まって以降、少しでも話せるようになりたいと密かに勉強をしていた本は既に傷みが見えるほどになっていた。
小さくなっていく故国を飛行機の窓から見下ろしたあと、彼女は少しだけ眠った。
17:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2020/11/08(日) 09:10:51.05 :FQVp12gN0
Ⅲ メッセージ・イン・ア・ボトル
この世は皆、おしなべて理不尽。それを愛せることが生きる秘訣。
(相川千夏/アイドル)
「最後のところ、もう一回いきましょう」
トレーナーの指摘が入る。にわかに緊張感も高まっている今日このごろ。それは彼女の参加するライブが近づいてきている証でもあった。
プロデューサーの積極的な動きもあり、ライラは既にここから三本のライブ予定が入っている。直近のものは彼女メインのステージではないものの、演目内容的には最近取り組んでいることを実践するタイミングでもあった。だがライラの進捗はあまり思わしくない状態になっていた。
「動きとしては悪くありません。綺麗だし、表情もしっかり見せられるようになってきました。ただどうしても、細かなアラが出てしまう時が多いというか」
トレーナーの言葉に集約される。できなくはないが、ミスもしがち。精度がまだ追いついていない。そんな感じだった。
「積み重ねるしかないね。焦らずしっかり頑張ろう」
それと、ライブに向けて気持ちも高めていこう。プロデューサーがそんな後押しの言葉を添える。はいです、とライラもうなずいた。彼女自身、決して不真面目にやっているわけではないし、むしろここ最近の追い込みぶりは評価も高い。まだ詰めきれていないだけなのだ。だけどそのままステージにあがることは許されない。それは共演者にも、ファンにも失礼だから、と。
鏡の前で自分と向き合うライラ。額の汗に、疲労の表情に、ジャージ姿の自分に、少しでも前に進んだと感じられるところを求めつつ。結果を信じつつ。
「……もう少し、残って練習させてくださいませんですか?」
気持ちは充実しているな、とプロデューサーも感じた。あとは技術面。
帰り道、今日は公園を通った。ここはライラのお気に入りの一つだった。季節の変化が楽しめるし、ベンチもある。知らない人もたくさん行き交うし、そこにたくさんの人間模様が見られるから。
日本に来て、公園を訪れてライラは少し驚いた。溌剌としたマラソンランナーや元気な子供たち、朗らかな親子連れなどがいる一方で、この国のイメージにそぐわないほどのため息や落胆、疲れややるせなさを見せる人々でもあふれていた。ベンチに座った何人かには話し掛けてみたこともある。愚痴をこぼす人もいれば反応すら薄い人もいた。一息ついて立ち直った人もいれば、どうしようもないままの人もいるらしい。
みんな辛いこともあるのだ。
お気に入りのベンチに腰を下ろすライラ。ここは木陰に入るため少しだけ暑さが穏やかだ。とはいえ湿度の高い日本の夏。去年も今年も、彼女にはなかなか堪えるものがある。それでも、この場所は好きだった。理由はいろいろあるけれど。
セミの声を聞く。わずかに風が吹き抜ける。彼女が見上げる空は今日も青かった。
東京の空は低い、なんて言葉があるらしいとライラが聞いたのは最近のこと。文学作品の一節に端を発している言い回しなのだとか。空気の透明度が低いからだろうと晶葉が教えてくれた。早い話が、濁っているほどそう感じるのだ。
「だから大自然のところでは高く感じるし、東京でも冬は空気が澄んでいるぶん、夏よりは少し高く感じるだろうな」
彼女の言葉が印象的だった。
大都会を揶揄する意味もある言葉なのだということはライラにも少し理解できた。では故郷はどうだろう。低かっただろうか。思いを馳せる。高い建物がたくさんあったことは確かだけれど。
個人的には、空が低いかどうかはピンとこないな、とライラは思った。空はそこにあるし、届かないくらいに雲も星も彼方だ。際限のない世界がそこに広がっていると思うと、それは向こうともつながっているような実感がある。それでいいような気がした。
「ライラ様」
声に気づき視線を移してようやく、メイドがそばにいることに気づいたライラ。
「おー、お疲れ様でございます。今お帰りでございますかー」
「はい。ございます」
少しだけ不格好な挨拶と優しい笑みが交わされる。聡明で努力家なメイドではあったが、ライラが学び得ている日本語同様、どこかしら不自然なものが混ざることがある。それは語学習得の難しさの現れでもあるし、実は彼女が「ライラの日本語」を大好きなせいでもあるのだけれど。
ベンチの臨席を促すライラを彼女が制した。
「お話もよいですが、そろそろ帰るのはいかがでしょう。続きは家で伺いますから」
柱に下がる時計に視線を移すライラ。まだ明るいものの、たしかに帰りどきかもしれなかった。はいです、と答えつつ立ち上がる。
「そういえばお腹も空いてきましたですね」
「ライラ様のそういう素直なところ、よいと思いますよ」
雑談を交えながら帰路につく。
「……エージェントはその後、現れたりしていませんか?」
話は変わって先日の来訪者の件になった。特には、とライラが答える。先日の急な訪問は本当に寝耳に水だったせいもあり、メイドに知らされたのは同日夜のことだった。様々な事情を鑑みるにしても唐突だし、直接アイドル事務所にやってきたこと含め、メイドにとっては釈然としないことが多かった。そして力になれなかったことも悔いた。
「また現れたらまず私が話しますから、すぐにご連絡をお願いします。先日はプロデューサー様も真摯に丁寧にご対応くださったとのことですが、あまりご迷惑をかけてばかりもいられませんし」
「大丈夫でございますよ。それに」
優しい表情のライラが彼女を見つめる。
「それにきっと……、プロデューサー殿はこれからも一緒に対応してくださると思いますです、ね」
だから我々も前向きにいきましょう。言葉尻に少し照れを隠せないライラではあったが、いつになく強くて暖かい姿がそこにあった。
「ライラ様、最近すこし大人びた感じが致しますね」
きっとアイドル活動がいい状態なのでしょうね。そして周囲のみなさまにも恵まれているのでしょう。メイドはそう続けた。その見立ては間違っていないのだが、ライラにとってはうまく返答しづらいところでもあった。
「頑張ってはいますですが、まだまだ課題いっぱいでございますよー」
レッスンの失敗の話を始めるライラ。自分の未熟さはよくわかっている。
ひとしきり聞きながら、メイドが暖かな言葉を返す。
「きっと大丈夫ですよ、ライラ様なら」
信じる気持ちとともに交わされる「きっと」が、なんだか素敵なもののように感じられた。
ひょっとして……、という話もメイドは続けようとしたが、それは思いとどまった。恋や愛といった話は自分もよくわからないし、それを彼女相手にしていいのかもわからなかったから。
Ⅲ メッセージ・イン・ア・ボトル
この世は皆、おしなべて理不尽。それを愛せることが生きる秘訣。
(相川千夏/アイドル)
「最後のところ、もう一回いきましょう」
トレーナーの指摘が入る。にわかに緊張感も高まっている今日このごろ。それは彼女の参加するライブが近づいてきている証でもあった。
プロデューサーの積極的な動きもあり、ライラは既にここから三本のライブ予定が入っている。直近のものは彼女メインのステージではないものの、演目内容的には最近取り組んでいることを実践するタイミングでもあった。だがライラの進捗はあまり思わしくない状態になっていた。
「動きとしては悪くありません。綺麗だし、表情もしっかり見せられるようになってきました。ただどうしても、細かなアラが出てしまう時が多いというか」
トレーナーの言葉に集約される。できなくはないが、ミスもしがち。精度がまだ追いついていない。そんな感じだった。
「積み重ねるしかないね。焦らずしっかり頑張ろう」
それと、ライブに向けて気持ちも高めていこう。プロデューサーがそんな後押しの言葉を添える。はいです、とライラもうなずいた。彼女自身、決して不真面目にやっているわけではないし、むしろここ最近の追い込みぶりは評価も高い。まだ詰めきれていないだけなのだ。だけどそのままステージにあがることは許されない。それは共演者にも、ファンにも失礼だから、と。
鏡の前で自分と向き合うライラ。額の汗に、疲労の表情に、ジャージ姿の自分に、少しでも前に進んだと感じられるところを求めつつ。結果を信じつつ。
「……もう少し、残って練習させてくださいませんですか?」
気持ちは充実しているな、とプロデューサーも感じた。あとは技術面。
帰り道、今日は公園を通った。ここはライラのお気に入りの一つだった。季節の変化が楽しめるし、ベンチもある。知らない人もたくさん行き交うし、そこにたくさんの人間模様が見られるから。
日本に来て、公園を訪れてライラは少し驚いた。溌剌としたマラソンランナーや元気な子供たち、朗らかな親子連れなどがいる一方で、この国のイメージにそぐわないほどのため息や落胆、疲れややるせなさを見せる人々でもあふれていた。ベンチに座った何人かには話し掛けてみたこともある。愚痴をこぼす人もいれば反応すら薄い人もいた。一息ついて立ち直った人もいれば、どうしようもないままの人もいるらしい。
みんな辛いこともあるのだ。
お気に入りのベンチに腰を下ろすライラ。ここは木陰に入るため少しだけ暑さが穏やかだ。とはいえ湿度の高い日本の夏。去年も今年も、彼女にはなかなか堪えるものがある。それでも、この場所は好きだった。理由はいろいろあるけれど。
セミの声を聞く。わずかに風が吹き抜ける。彼女が見上げる空は今日も青かった。
東京の空は低い、なんて言葉があるらしいとライラが聞いたのは最近のこと。文学作品の一節に端を発している言い回しなのだとか。空気の透明度が低いからだろうと晶葉が教えてくれた。早い話が、濁っているほどそう感じるのだ。
「だから大自然のところでは高く感じるし、東京でも冬は空気が澄んでいるぶん、夏よりは少し高く感じるだろうな」
彼女の言葉が印象的だった。
大都会を揶揄する意味もある言葉なのだということはライラにも少し理解できた。では故郷はどうだろう。低かっただろうか。思いを馳せる。高い建物がたくさんあったことは確かだけれど。
個人的には、空が低いかどうかはピンとこないな、とライラは思った。空はそこにあるし、届かないくらいに雲も星も彼方だ。際限のない世界がそこに広がっていると思うと、それは向こうともつながっているような実感がある。それでいいような気がした。
「ライラ様」
声に気づき視線を移してようやく、メイドがそばにいることに気づいたライラ。
「おー、お疲れ様でございます。今お帰りでございますかー」
「はい。ございます」
少しだけ不格好な挨拶と優しい笑みが交わされる。聡明で努力家なメイドではあったが、ライラが学び得ている日本語同様、どこかしら不自然なものが混ざることがある。それは語学習得の難しさの現れでもあるし、実は彼女が「ライラの日本語」を大好きなせいでもあるのだけれど。
ベンチの臨席を促すライラを彼女が制した。
「お話もよいですが、そろそろ帰るのはいかがでしょう。続きは家で伺いますから」
柱に下がる時計に視線を移すライラ。まだ明るいものの、たしかに帰りどきかもしれなかった。はいです、と答えつつ立ち上がる。
「そういえばお腹も空いてきましたですね」
「ライラ様のそういう素直なところ、よいと思いますよ」
雑談を交えながら帰路につく。
「……エージェントはその後、現れたりしていませんか?」
話は変わって先日の来訪者の件になった。特には、とライラが答える。先日の急な訪問は本当に寝耳に水だったせいもあり、メイドに知らされたのは同日夜のことだった。様々な事情を鑑みるにしても唐突だし、直接アイドル事務所にやってきたこと含め、メイドにとっては釈然としないことが多かった。そして力になれなかったことも悔いた。
「また現れたらまず私が話しますから、すぐにご連絡をお願いします。先日はプロデューサー様も真摯に丁寧にご対応くださったとのことですが、あまりご迷惑をかけてばかりもいられませんし」
「大丈夫でございますよ。それに」
優しい表情のライラが彼女を見つめる。
「それにきっと……、プロデューサー殿はこれからも一緒に対応してくださると思いますです、ね」
だから我々も前向きにいきましょう。言葉尻に少し照れを隠せないライラではあったが、いつになく強くて暖かい姿がそこにあった。
「ライラ様、最近すこし大人びた感じが致しますね」
きっとアイドル活動がいい状態なのでしょうね。そして周囲のみなさまにも恵まれているのでしょう。メイドはそう続けた。その見立ては間違っていないのだが、ライラにとってはうまく返答しづらいところでもあった。
「頑張ってはいますですが、まだまだ課題いっぱいでございますよー」
レッスンの失敗の話を始めるライラ。自分の未熟さはよくわかっている。
ひとしきり聞きながら、メイドが暖かな言葉を返す。
「きっと大丈夫ですよ、ライラ様なら」
信じる気持ちとともに交わされる「きっと」が、なんだか素敵なもののように感じられた。
ひょっとして……、という話もメイドは続けようとしたが、それは思いとどまった。恋や愛といった話は自分もよくわからないし、それを彼女相手にしていいのかもわからなかったから。
18:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2020/11/08(日) 09:11:32.83 :FQVp12gN0
* * * * *
「ずっと」や「きっと」は絶対じゃない。それを知るのが青春だ。 ―― そんなキャッチフレーズが昔どこかであったかもしれないが、何はともあれ現実は厳しいもの。きっとはきっと、とは限らない。
月末、ライラが参加したミニライブはファンの暖かな拍手と共に無事閉幕となった。途中ミスした箇所もあったが、大きなトラブルはなく歌い踊り終えることができた。
終了後の楽屋、プロデューサーはお疲れ様の言葉とともによかったところ、ミスしたところどちらにも触れた。ライラはこの時間が好きだった。よかったところは素直に喜び、ダメだったところはきちんと反省する、それが大事。できるだけ時間の経たないうちに。プロデューサーが常日頃から言っていることだけれど、実際に自分のこととして受け止めるととても嬉しいし、反省しなきゃということもよくわかる。
「細かな振り返り練習はまたするとして、先にみんなに挨拶をしておこう」
プロデューサーが別スタッフとの応対のため離席する間に、促されるままに共演者やスタッフにお疲れ様でしたの挨拶に回る。中盤のミスについてもごめんなさいでした、と自ら拾いあげつつ。気にしないで、また頑張ろうね、そんな暖かな声を掛けてくれる周囲の仲間たち。優しい言葉にありがたさを感じるとともに、また頑張ろうと感じる。
「そうね。本当気をつけてよね」
そんな中で、少し厳しい言葉が投げかけられることもあった。すぐ隣で踊っていた共演のアイドルだ。
「リハではできてたっていうけど、あなたはあの時だって少し怪しかったし。まだまだ怖いわよ。もっと必死でやって」
みんなで演目を作ってるんだし。センターの人にもファンのみなさんにも失礼でしょ、などなど指摘は続いた。ライラはただただすみませんでしたと返すほかなかった。
言い方がよいかはともかく、共演者として、あるいはアイドルの世界で生き抜く立場としてこうした反応が出るのは当然のことでもある。件の彼女にとっては毎日が戦場であり、毎ステージが命懸けなのだ。そういう子もいるし、むしろそういう子は少なくない。そんな子にとって、ライラのおおらかで一見どこか執着の見えない姿が苛立ちの要因となることは想像に難くない。許容できるミスの程度も人によるし、彼女の姿が間違いということもないのだ。
頭を垂れながら、こだわりがあるって大切なことだしすごいことだ、とライラは感じていた。自分にはどうだろう。何があるだろう。
「おおらかさも時には罪深い、ってね」
少し高めの声が話に割って入ってきた。
「そんなもんにしとこっか?」
声の主は誰あろう、本日のステージのメインを張っていた「しゅがーはぁと」こと佐藤心だった。小言を放っていた少女も即座に立ち上がり、お疲れ様でした、ありがとうございました! と丁寧な一礼。ライラもあわててそれに倣う。
「ありがとね。一生懸命な言葉嬉しいぞ。また次、みんな頑張ろうね☆」
二、三の会話とともにその場はお開きとなり、ライラはもう一度だけ挨拶をして離れた。
「ライラちゃんこっちおいで」
自分の荷物のところに戻ろうとした彼女をしゅがーはぁとが呼び止めた。片付けに慌ただしい楽屋の人の波をぬって、手招きされる方へ向かう。
「改めて今日のことだけど」
「はい、すみませんでございました」
「うん、ごめんなさいの話はもうここまで」
お辞儀をするライラを起きるよう促し、具体的な話に切り替える彼女。
「問題だったのはどこだっけ」
「えっと、三曲目のサビのところで……」
「オッケ。マネさん、楽譜プリーズ☆」
練習で使っていた譜面と立ち回り表を開く。ライラの動きのところと譜面を照らし合わせる。
「ここね。リハでできていたんだから、物理的にはできるんだよね。たぶん拍の変わり方が難しいからひっかかるんだと思うの。三、で踏み出して遅れちゃうなら二の終わりに足を前に出す体勢になっておく方がいい。前の終わりから」
「は、はいです」
「やってみよ♪」
しゅがーはぁと自らの手拍子のもと、ライラがステップを踏む。
「そうそう、半拍前から体勢だけ向き直っておいた方が入りやすいよね。覚えておくといいぞ☆」
あとその方が緩急がついてより綺麗に見えるから、と。
そのまま少し、しゅがーはぁと直々のアドバイスが続いた。しなやかな動きは簡単そうで難しい、魅せるポイントにもっと強弱をつけよう、などなど。
「今更終わったライブの動きをやり直し、って思ったかもしれないけど、その方がいいんだよね。それにこのへんは今後にも絶対大切なとこだから忘れずに、ね?」
「はい。ありがとうございましたです」
「うん、ライラちゃんも笑顔忘れないようにね」
ウインクひとつ。そして軽く頭を撫でて笑顔をくれる彼女。普段の明るく軽妙な言動とは裏腹に、人一倍努力家で責任感がある、汗をかくことが似合う女性。ライラには一貫して端的で明快で後腐れのない言葉を選んで教えている節がある。それは彼女なりの愛情であり、同時に彼女からのリスペクトでもあるのだけれど、そのあたりが詳しく語られることはない。
「はぁとさん、やっぱり優しいでございますね」
ライラのそんな返しを彼女はおもいっきり笑った。そして向き直る。
「頑張っている子を無闇に貶めていいハズないもん。どうせああやって言う人は言うから。アタシはそういうタイプじゃないだけ。だからこそ反省はすぐやって、改善点はすぐ確認して、何度でも歌って踊って、ってね♪」
そうしてアタシたちは笑顔を見せなきゃ。スキになってもらうには、自分のスキも大事にしよう。
「それでこそアイドル、みんなの前でキラキラしてこそアイドルだぞ☆」
そう語る彼女はひときわ美しかった。
* * * * *
「ずっと」や「きっと」は絶対じゃない。それを知るのが青春だ。 ―― そんなキャッチフレーズが昔どこかであったかもしれないが、何はともあれ現実は厳しいもの。きっとはきっと、とは限らない。
月末、ライラが参加したミニライブはファンの暖かな拍手と共に無事閉幕となった。途中ミスした箇所もあったが、大きなトラブルはなく歌い踊り終えることができた。
終了後の楽屋、プロデューサーはお疲れ様の言葉とともによかったところ、ミスしたところどちらにも触れた。ライラはこの時間が好きだった。よかったところは素直に喜び、ダメだったところはきちんと反省する、それが大事。できるだけ時間の経たないうちに。プロデューサーが常日頃から言っていることだけれど、実際に自分のこととして受け止めるととても嬉しいし、反省しなきゃということもよくわかる。
「細かな振り返り練習はまたするとして、先にみんなに挨拶をしておこう」
プロデューサーが別スタッフとの応対のため離席する間に、促されるままに共演者やスタッフにお疲れ様でしたの挨拶に回る。中盤のミスについてもごめんなさいでした、と自ら拾いあげつつ。気にしないで、また頑張ろうね、そんな暖かな声を掛けてくれる周囲の仲間たち。優しい言葉にありがたさを感じるとともに、また頑張ろうと感じる。
「そうね。本当気をつけてよね」
そんな中で、少し厳しい言葉が投げかけられることもあった。すぐ隣で踊っていた共演のアイドルだ。
「リハではできてたっていうけど、あなたはあの時だって少し怪しかったし。まだまだ怖いわよ。もっと必死でやって」
みんなで演目を作ってるんだし。センターの人にもファンのみなさんにも失礼でしょ、などなど指摘は続いた。ライラはただただすみませんでしたと返すほかなかった。
言い方がよいかはともかく、共演者として、あるいはアイドルの世界で生き抜く立場としてこうした反応が出るのは当然のことでもある。件の彼女にとっては毎日が戦場であり、毎ステージが命懸けなのだ。そういう子もいるし、むしろそういう子は少なくない。そんな子にとって、ライラのおおらかで一見どこか執着の見えない姿が苛立ちの要因となることは想像に難くない。許容できるミスの程度も人によるし、彼女の姿が間違いということもないのだ。
頭を垂れながら、こだわりがあるって大切なことだしすごいことだ、とライラは感じていた。自分にはどうだろう。何があるだろう。
「おおらかさも時には罪深い、ってね」
少し高めの声が話に割って入ってきた。
「そんなもんにしとこっか?」
声の主は誰あろう、本日のステージのメインを張っていた「しゅがーはぁと」こと佐藤心だった。小言を放っていた少女も即座に立ち上がり、お疲れ様でした、ありがとうございました! と丁寧な一礼。ライラもあわててそれに倣う。
「ありがとね。一生懸命な言葉嬉しいぞ。また次、みんな頑張ろうね☆」
二、三の会話とともにその場はお開きとなり、ライラはもう一度だけ挨拶をして離れた。
「ライラちゃんこっちおいで」
自分の荷物のところに戻ろうとした彼女をしゅがーはぁとが呼び止めた。片付けに慌ただしい楽屋の人の波をぬって、手招きされる方へ向かう。
「改めて今日のことだけど」
「はい、すみませんでございました」
「うん、ごめんなさいの話はもうここまで」
お辞儀をするライラを起きるよう促し、具体的な話に切り替える彼女。
「問題だったのはどこだっけ」
「えっと、三曲目のサビのところで……」
「オッケ。マネさん、楽譜プリーズ☆」
練習で使っていた譜面と立ち回り表を開く。ライラの動きのところと譜面を照らし合わせる。
「ここね。リハでできていたんだから、物理的にはできるんだよね。たぶん拍の変わり方が難しいからひっかかるんだと思うの。三、で踏み出して遅れちゃうなら二の終わりに足を前に出す体勢になっておく方がいい。前の終わりから」
「は、はいです」
「やってみよ♪」
しゅがーはぁと自らの手拍子のもと、ライラがステップを踏む。
「そうそう、半拍前から体勢だけ向き直っておいた方が入りやすいよね。覚えておくといいぞ☆」
あとその方が緩急がついてより綺麗に見えるから、と。
そのまま少し、しゅがーはぁと直々のアドバイスが続いた。しなやかな動きは簡単そうで難しい、魅せるポイントにもっと強弱をつけよう、などなど。
「今更終わったライブの動きをやり直し、って思ったかもしれないけど、その方がいいんだよね。それにこのへんは今後にも絶対大切なとこだから忘れずに、ね?」
「はい。ありがとうございましたです」
「うん、ライラちゃんも笑顔忘れないようにね」
ウインクひとつ。そして軽く頭を撫でて笑顔をくれる彼女。普段の明るく軽妙な言動とは裏腹に、人一倍努力家で責任感がある、汗をかくことが似合う女性。ライラには一貫して端的で明快で後腐れのない言葉を選んで教えている節がある。それは彼女なりの愛情であり、同時に彼女からのリスペクトでもあるのだけれど、そのあたりが詳しく語られることはない。
「はぁとさん、やっぱり優しいでございますね」
ライラのそんな返しを彼女はおもいっきり笑った。そして向き直る。
「頑張っている子を無闇に貶めていいハズないもん。どうせああやって言う人は言うから。アタシはそういうタイプじゃないだけ。だからこそ反省はすぐやって、改善点はすぐ確認して、何度でも歌って踊って、ってね♪」
そうしてアタシたちは笑顔を見せなきゃ。スキになってもらうには、自分のスキも大事にしよう。
「それでこそアイドル、みんなの前でキラキラしてこそアイドルだぞ☆」
そう語る彼女はひときわ美しかった。
19:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2020/11/08(日) 09:12:47.40 :FQVp12gN0
「佐藤さんと話し込んでいたみたいだけど、何か気になることはあった?」
別対応から戻ってきたプロデューサーと合流し、帰路につくライラ。今日のことを振り返る。
「いえ、アドバイスを頂いておりましただけですよー」
やっぱりとても魅力的な方でございますね。そうライラは続けた。
「ならいいけど……対応が必要なら何でも言ってほしい。僕も動くから、ね」
「ありがとうございます、です」
優しい言葉が心にそっと触れるようだった。その後もしばらく雑談を続けたが、彼の気づかう様子がライラにも伝わってきた。思えばそれは今日のようにライブがあったりミスがあったりした場面に限らない。いつだって暖かで、それでいてキッチリしていて、細かな変化にも気づいてケアしてくれる。一緒に走ってくれる。
ふれあう人みんな少なからず魅力はあるし、たくさんの優しさに満ちている。今日のしゅがーはぁと然り、最近の相川千夏然り、学ぶことの多い昨今なのは言うまでもない。だけどその中でも、彼の言葉は少しだけ、少しだけ心の奥に届くような、そんな感覚がライラにはあった。
イチレンタクショウ。そんな言い回しがあると聞いた。彼のこうした姿を見ているとそういうことが浮かぶし、自然と笑みが浮かぶ。やっぱりプロデューサー殿は素敵だ、と再認識するライラ。そして、と。
「……」
少し俯いて、一呼吸して向き直る。
「……どうかした?」
「いえ、大丈夫でございますよ♪」
笑顔を見せられているだろうか。大丈夫。
「……ですが、プロデューサー殿」
「うん」
「今日の振り返り、しっかりお願いしますです」
わたくし、もっともっと前に進まなきゃいけませんです。いえ、進みたい、です。だから。
そう語る彼女の澄んだ瞳はひときわ美しかった。
「わかった。だけど背負い込みすぎないようにね。少しずつ、確実に。一緒に頑張ろう」
もっともっと、夢も希望も抱かせてあげたい。それはプロデューサーの切なる願いだった。
「前を向く人にしか見えない世界がある。渇望はその端緒。……だっけ」
そんなことを相川さんが言っていたなぁなどと思い返しつつ、プロデューサーは前を向いた。
情景とともに受け止める言葉にはより一層の意味がある。結果はどうあれ今日という日の経験はとても大切で、今だからこそ感じられることがきっとある。彼女に伝えられることは何か。教えてあげられることは何か。自責の念も強い彼女に負荷にならないように、だけどうまく教えてあげたいことがたくさんある。プロデューサーに求められることはここでの判断と舵取りだ。
「僕も負けていられないな」
そうつぶやきつつ、気合を入れ直す彼の姿があった。
その日の夜、ライラは少しだけ文字を書き認めた。だけど伝えたいことはうまくまとまらなかった。手紙は封をされることなく、机に戻された。
「佐藤さんと話し込んでいたみたいだけど、何か気になることはあった?」
別対応から戻ってきたプロデューサーと合流し、帰路につくライラ。今日のことを振り返る。
「いえ、アドバイスを頂いておりましただけですよー」
やっぱりとても魅力的な方でございますね。そうライラは続けた。
「ならいいけど……対応が必要なら何でも言ってほしい。僕も動くから、ね」
「ありがとうございます、です」
優しい言葉が心にそっと触れるようだった。その後もしばらく雑談を続けたが、彼の気づかう様子がライラにも伝わってきた。思えばそれは今日のようにライブがあったりミスがあったりした場面に限らない。いつだって暖かで、それでいてキッチリしていて、細かな変化にも気づいてケアしてくれる。一緒に走ってくれる。
ふれあう人みんな少なからず魅力はあるし、たくさんの優しさに満ちている。今日のしゅがーはぁと然り、最近の相川千夏然り、学ぶことの多い昨今なのは言うまでもない。だけどその中でも、彼の言葉は少しだけ、少しだけ心の奥に届くような、そんな感覚がライラにはあった。
イチレンタクショウ。そんな言い回しがあると聞いた。彼のこうした姿を見ているとそういうことが浮かぶし、自然と笑みが浮かぶ。やっぱりプロデューサー殿は素敵だ、と再認識するライラ。そして、と。
「……」
少し俯いて、一呼吸して向き直る。
「……どうかした?」
「いえ、大丈夫でございますよ♪」
笑顔を見せられているだろうか。大丈夫。
「……ですが、プロデューサー殿」
「うん」
「今日の振り返り、しっかりお願いしますです」
わたくし、もっともっと前に進まなきゃいけませんです。いえ、進みたい、です。だから。
そう語る彼女の澄んだ瞳はひときわ美しかった。
「わかった。だけど背負い込みすぎないようにね。少しずつ、確実に。一緒に頑張ろう」
もっともっと、夢も希望も抱かせてあげたい。それはプロデューサーの切なる願いだった。
「前を向く人にしか見えない世界がある。渇望はその端緒。……だっけ」
そんなことを相川さんが言っていたなぁなどと思い返しつつ、プロデューサーは前を向いた。
情景とともに受け止める言葉にはより一層の意味がある。結果はどうあれ今日という日の経験はとても大切で、今だからこそ感じられることがきっとある。彼女に伝えられることは何か。教えてあげられることは何か。自責の念も強い彼女に負荷にならないように、だけどうまく教えてあげたいことがたくさんある。プロデューサーに求められることはここでの判断と舵取りだ。
「僕も負けていられないな」
そうつぶやきつつ、気合を入れ直す彼の姿があった。
その日の夜、ライラは少しだけ文字を書き認めた。だけど伝えたいことはうまくまとまらなかった。手紙は封をされることなく、机に戻された。
20:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2020/11/08(日) 09:13:15.18 :FQVp12gN0
* * * * *
「やっぱりここよね」
「はいです」
「実際、ここからの流れが難しいですもんね。テンポが早くなるところ中心に、また重点的にやっていきましょうね」
「はい、ありがとうございますです」
後日、レッスン終わり。相川千夏とトレーナーとともに、ライラは休憩室で先日のライブのシーンを映像で振り返っていた。終わったものは仕方ないとして、振り返りは大事だ。ミスを見返すのは少し辛いけど、それも必要なこと。
「似た構成の曲も練習でやってみましょうか。切り替えのところとか、参考になるかもしれませんし」
「いいわね」
二人の会話に頷きつつも、言葉を挟まないライラ。様子に気づき、千夏が声を掛ける。
「……悔しい?」
「あ、えっと……、はいです」
先日のことを少し掘り下げる。ライラは首肯しつつも、言葉を継いだ。
「でも……悔しいといいますか、申し訳ないといいますか、という感じでございまして」
千夏にはその気持ちが少なからず理解できた。けれどその気持ちを乗り越えるには、結果を伴うしか術がないのも事実なのだ。
「ふふ。意思が見えてきたのはいいことね」
意思。千夏はそう表現した。先日のミス以降、より厳密に言えばミスを注意されて以降、ライラは自戒の念とともに、自分にできることをきちんとやり遂げたいという思いが強くなっていた。以前よりも、また。
「そういえば。ライラは故郷のこと、その後に何か進展はあるのかしら」
千夏が耳元でそっと囁いた。
「いえ、まだでございます」
そう返すライラではあったものの、決して俯き加減でなかったことに千夏は少し、光明を見ていた。
「そう。じゃあ、そうね、先へのイメージはどう?」
「あー、そうですね……」
以前から話が出ていた、好きなこと、やっていきたいことの件。ライラなりに考えているところはある。とはいえ、まだ言葉にはしづらいままだ。
「ごめんなさいです、それももう少し、考えてさせて頂けますか」
「ああいえ、急かすつもりじゃないのよ」
こちらこそごめんなさい、と千夏がフォローを入れる。でもね、と言葉を添えながら。
「焦らず考えればいいと思うの。でも思うことに向き合って、見つけていかないといけないのも事実だって私は思うの。なぜならそこにこそ、真価はあるんだから」
「シンカ、でございますか」
「ええ。あなたの本当の魅力につながるところ。そのきっかけはそんなに気取ったものでなくても構わない。個人的な欲でも願望でもいいの」
でもそれが己を前に進めるから。そう千夏はまとめた。ライラは彼女の言葉をゆっくりと咀嚼し、そして視線を合わせる。
「……将来は、まだわかりませんです。でもわたくしはまず、きちんと目の前のことをこなせるようになりたいです。それが責任を果たすということだと思いますので」
「うんうん」
「責任を果たすのは、おそらく、きっと、生きる意味の一つにもなるのでは、と」
だから、と。
「素敵な考え方だと思うわ」
千夏が受け止める。そうあれかし、などと返しつつ、ライラの頭を撫でた。
「でもね、これは注意だけど。必死になることと盲目になることは別なのよ」
「モウモク、ですか」
「そう。目の前のことに集中することは大切。だけど、そのために視野を狭めてしまうのは勿体ないわ」
あなたはたくさん見て、たくさん感じてきたでしょう。そしてこれからもっともっと学び知っていくハズ。その感覚を失わないでね。そして、楽しんでね。
「この世は皆、おしなべて理不尽。それを愛せることが生きる秘訣、よ」
また知らない単語が出てきたと思い、反芻するライラ。いいのよ今のは雰囲気で、と遮る千夏。彼女はたまにこういうことをする。二人で笑い合った。
事務所でもひときわ聡明な女性と目されることの多い相川千夏。その所以は博識さよりも、こうした察しの良さに基づくところなのかもしれない。そして、決して答えを焦らないところも。
「千夏さんの言うとおりです。焦りすぎないで。そして、常にいろんな可能性を意識していきましょうね」
資料を整頓していた青木トレーナーが戻ってきて、言葉を挟んだ。正解はないけれど、だからこそ、と。
「人にはそれぞれ役割があるし、きっとそれぞれに責任もあります。でもそこにこだわりすぎないこと」
それでこそ、あるいは希望も、そこに見出せるかもしれませんから。
いつもにも増して真剣な、彼女らしいメッセージのようだった。それは生真面目なライラの姿あってこそ紡がれた言葉ではあったのだけれど。らしくない、と少し恥ずかしそうにしつつもきちんと話しきるあたり、青木明の性格がよく現れていた。
「それともう一つ」
千夏が思い出したようにつぶやいた。
「好きはたくさんあっていいし、いろんな好きがあっていいってことを忘れないで」
印象的なフレーズだった。今度はわかる単語だったものの、いまいちピンとこないライラ。
「えっと、それはどういう……」
「いずれわかるわ」
きっとここからもう一段階レベルアップするには、あなたの意思が示されることが必要なのよ。これからのことも含め、ね。
そう言って千夏は笑みを見せた。
* * * * *
「やっぱりここよね」
「はいです」
「実際、ここからの流れが難しいですもんね。テンポが早くなるところ中心に、また重点的にやっていきましょうね」
「はい、ありがとうございますです」
後日、レッスン終わり。相川千夏とトレーナーとともに、ライラは休憩室で先日のライブのシーンを映像で振り返っていた。終わったものは仕方ないとして、振り返りは大事だ。ミスを見返すのは少し辛いけど、それも必要なこと。
「似た構成の曲も練習でやってみましょうか。切り替えのところとか、参考になるかもしれませんし」
「いいわね」
二人の会話に頷きつつも、言葉を挟まないライラ。様子に気づき、千夏が声を掛ける。
「……悔しい?」
「あ、えっと……、はいです」
先日のことを少し掘り下げる。ライラは首肯しつつも、言葉を継いだ。
「でも……悔しいといいますか、申し訳ないといいますか、という感じでございまして」
千夏にはその気持ちが少なからず理解できた。けれどその気持ちを乗り越えるには、結果を伴うしか術がないのも事実なのだ。
「ふふ。意思が見えてきたのはいいことね」
意思。千夏はそう表現した。先日のミス以降、より厳密に言えばミスを注意されて以降、ライラは自戒の念とともに、自分にできることをきちんとやり遂げたいという思いが強くなっていた。以前よりも、また。
「そういえば。ライラは故郷のこと、その後に何か進展はあるのかしら」
千夏が耳元でそっと囁いた。
「いえ、まだでございます」
そう返すライラではあったものの、決して俯き加減でなかったことに千夏は少し、光明を見ていた。
「そう。じゃあ、そうね、先へのイメージはどう?」
「あー、そうですね……」
以前から話が出ていた、好きなこと、やっていきたいことの件。ライラなりに考えているところはある。とはいえ、まだ言葉にはしづらいままだ。
「ごめんなさいです、それももう少し、考えてさせて頂けますか」
「ああいえ、急かすつもりじゃないのよ」
こちらこそごめんなさい、と千夏がフォローを入れる。でもね、と言葉を添えながら。
「焦らず考えればいいと思うの。でも思うことに向き合って、見つけていかないといけないのも事実だって私は思うの。なぜならそこにこそ、真価はあるんだから」
「シンカ、でございますか」
「ええ。あなたの本当の魅力につながるところ。そのきっかけはそんなに気取ったものでなくても構わない。個人的な欲でも願望でもいいの」
でもそれが己を前に進めるから。そう千夏はまとめた。ライラは彼女の言葉をゆっくりと咀嚼し、そして視線を合わせる。
「……将来は、まだわかりませんです。でもわたくしはまず、きちんと目の前のことをこなせるようになりたいです。それが責任を果たすということだと思いますので」
「うんうん」
「責任を果たすのは、おそらく、きっと、生きる意味の一つにもなるのでは、と」
だから、と。
「素敵な考え方だと思うわ」
千夏が受け止める。そうあれかし、などと返しつつ、ライラの頭を撫でた。
「でもね、これは注意だけど。必死になることと盲目になることは別なのよ」
「モウモク、ですか」
「そう。目の前のことに集中することは大切。だけど、そのために視野を狭めてしまうのは勿体ないわ」
あなたはたくさん見て、たくさん感じてきたでしょう。そしてこれからもっともっと学び知っていくハズ。その感覚を失わないでね。そして、楽しんでね。
「この世は皆、おしなべて理不尽。それを愛せることが生きる秘訣、よ」
また知らない単語が出てきたと思い、反芻するライラ。いいのよ今のは雰囲気で、と遮る千夏。彼女はたまにこういうことをする。二人で笑い合った。
事務所でもひときわ聡明な女性と目されることの多い相川千夏。その所以は博識さよりも、こうした察しの良さに基づくところなのかもしれない。そして、決して答えを焦らないところも。
「千夏さんの言うとおりです。焦りすぎないで。そして、常にいろんな可能性を意識していきましょうね」
資料を整頓していた青木トレーナーが戻ってきて、言葉を挟んだ。正解はないけれど、だからこそ、と。
「人にはそれぞれ役割があるし、きっとそれぞれに責任もあります。でもそこにこだわりすぎないこと」
それでこそ、あるいは希望も、そこに見出せるかもしれませんから。
いつもにも増して真剣な、彼女らしいメッセージのようだった。それは生真面目なライラの姿あってこそ紡がれた言葉ではあったのだけれど。らしくない、と少し恥ずかしそうにしつつもきちんと話しきるあたり、青木明の性格がよく現れていた。
「それともう一つ」
千夏が思い出したようにつぶやいた。
「好きはたくさんあっていいし、いろんな好きがあっていいってことを忘れないで」
印象的なフレーズだった。今度はわかる単語だったものの、いまいちピンとこないライラ。
「えっと、それはどういう……」
「いずれわかるわ」
きっとここからもう一段階レベルアップするには、あなたの意思が示されることが必要なのよ。これからのことも含め、ね。
そう言って千夏は笑みを見せた。
21:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2020/11/08(日) 09:14:24.16 :FQVp12gN0
Ⅳ シンギン・イン・ザ・レイン
あいまいでも、まとまっていなくても、想いは口に出していいと思うんです。
(大原みちる/アイドル)
翌日はひさしぶりに雨が降った。
軽い打ち合わせの予定を終えて、事務所で外を眺めつつぼんやり過ごすライラ。雨の街並みをゆっくり眺めている時間も好きだった。移動時に濡れてしまうのは少し不便だけど、春には春の、夏には夏の雨があったし、時の移ろいを感じられるものだった。
「ライラちゃん、新しいサインかわいいっすね」
声のする方に目をやると、いつのまにか仕事から戻ってきた吉岡沙紀がソファに腰を下ろしていた。机に置いていたライラのサイン色紙のひとつを手に取り、ふうむ、と眺める仕草を見せている。
「かわいいですか? ふふ、ありがとうございますですよー」
お疲れ様でございますと改めて挨拶を交わし、彼女のそばへ。自身のサインが記された色紙を一緒に覗き込む。
丸いフォルムのアイスのイラストと、それに添うように「LAYLA」の文字。デビューしてからずっとただ名前を書いていただけだったけれど、もっとサインらしく何かあってもいいかもと思うに至り、考えた末これにしたのが最近のことだ。
「やっぱアイス好きなんすね」
そうですねー、とっても好きですと返答するライラ。
「いざ考えようとすると、サインってどんなものがよいのでしょうかー……となってしまいまして。プロデューサー殿にアイデアを相談したのですよ」
「で、アイスはどうかって言われたんすか?」
「いえ、プロデューサー殿は『好きなもの書いたらそれがライラのサインだよ』って言ってくれました。ですので」
名前がメインなのかアイスがメインなのかわからないけど、見てくれたファンの人々にも好評だ。それにプロデューサーが即座にいいと言ってくれたことが、ライラには嬉しかった。
「ライラちゃんはプロデューサーへの信頼が本当に厚いんすね」
彼女の話を微笑ましく聞く沙紀。以前より喜怒哀楽が見えるようになってきた彼女の姿を嬉しく思うし、自分の想いを語る最近のライラはアイドル仲間としても素敵だと強く感じる。
「成長してるなぁ。アタシも頑張らないと」
沙紀の言葉は本心からのものだったが、ライラは少し戸惑った。
楽しくて、前に進んでいるようで、でもどこに向かっていくのかはまだまだわからなくて。そんな自分を暖かく支えてくれる人がいっぱいで、嬉しいけど何もできていない自分がいて。少しだけ不安に苛まれる最近。
「あまり悩みすぎないようにしましょうね」
沙紀が優しくライラの頬に触れた。ニッと歯を見せて笑いかける吉岡沙紀の姿は珍しいかもしれない。
「さっきぼんやりと外を眺めていたライラちゃん、楽しそうだったんすよ。雨が好きとかそういうことじゃなくて、雨は雨で楽しんでいるというか。目の前の瞬間ひとつひとつを大切にしているライラちゃんなら、きっとこれからも楽しいっすよ♪」
そう言って、鈍色の空に視線を走らせる沙紀。
「……ありがとうございますですよー。ふふ」
言葉にしてもらえて、ライラは少し気が楽になったように感じた。ぺこり、と丁寧なお辞儀をして礼を述べる。
「ゆっくり楽しんでいきましょ。夏はライラちゃんの季節なんすから」
「夏は……ライラさんの?」
「アイスクリーム好きなんでしょ? なら今っすよ」
口元に添えていた指を小粋な仕草でぴっ、とライラに向けた。自然に出るカッコいい動きと笑顔。フィーリングいっぱいのトークだけど、沙紀らしくて素敵だった。ライラもつられて笑みをこぼした。
そっか、夏は自分の季節なのか、と噛みしめるライラ。何気ない言葉だけど、それはとても大切なものだったかもしれない。
ひとしきり会話が交わされたところで、カバンに入れていたスマートフォンが振動していることに気づいた。アイドル活動をするようになってほどなく、連絡に必須だからと事務所から与えられたものだ。ふだんも使っていいよと言われているが、ライラ自身は必要な連絡用途以外ではあまり使おうとしない。使用を避けているというより、彼女なりに大切に扱っていることの現れではあるのだけれど。
取り出して画面を覗くと「相川千夏」の文字が並んでいた。おまたせしました、と声をかけると、聞き慣れたトーンの反応があった。
「お疲れ様。唐突だけど、今週末は予定あるかしら?」
ライブがあるのだけど、一緒に観に行かない? そう語る声の主は、いつもよりご機嫌のようだった。
Ⅳ シンギン・イン・ザ・レイン
あいまいでも、まとまっていなくても、想いは口に出していいと思うんです。
(大原みちる/アイドル)
翌日はひさしぶりに雨が降った。
軽い打ち合わせの予定を終えて、事務所で外を眺めつつぼんやり過ごすライラ。雨の街並みをゆっくり眺めている時間も好きだった。移動時に濡れてしまうのは少し不便だけど、春には春の、夏には夏の雨があったし、時の移ろいを感じられるものだった。
「ライラちゃん、新しいサインかわいいっすね」
声のする方に目をやると、いつのまにか仕事から戻ってきた吉岡沙紀がソファに腰を下ろしていた。机に置いていたライラのサイン色紙のひとつを手に取り、ふうむ、と眺める仕草を見せている。
「かわいいですか? ふふ、ありがとうございますですよー」
お疲れ様でございますと改めて挨拶を交わし、彼女のそばへ。自身のサインが記された色紙を一緒に覗き込む。
丸いフォルムのアイスのイラストと、それに添うように「LAYLA」の文字。デビューしてからずっとただ名前を書いていただけだったけれど、もっとサインらしく何かあってもいいかもと思うに至り、考えた末これにしたのが最近のことだ。
「やっぱアイス好きなんすね」
そうですねー、とっても好きですと返答するライラ。
「いざ考えようとすると、サインってどんなものがよいのでしょうかー……となってしまいまして。プロデューサー殿にアイデアを相談したのですよ」
「で、アイスはどうかって言われたんすか?」
「いえ、プロデューサー殿は『好きなもの書いたらそれがライラのサインだよ』って言ってくれました。ですので」
名前がメインなのかアイスがメインなのかわからないけど、見てくれたファンの人々にも好評だ。それにプロデューサーが即座にいいと言ってくれたことが、ライラには嬉しかった。
「ライラちゃんはプロデューサーへの信頼が本当に厚いんすね」
彼女の話を微笑ましく聞く沙紀。以前より喜怒哀楽が見えるようになってきた彼女の姿を嬉しく思うし、自分の想いを語る最近のライラはアイドル仲間としても素敵だと強く感じる。
「成長してるなぁ。アタシも頑張らないと」
沙紀の言葉は本心からのものだったが、ライラは少し戸惑った。
楽しくて、前に進んでいるようで、でもどこに向かっていくのかはまだまだわからなくて。そんな自分を暖かく支えてくれる人がいっぱいで、嬉しいけど何もできていない自分がいて。少しだけ不安に苛まれる最近。
「あまり悩みすぎないようにしましょうね」
沙紀が優しくライラの頬に触れた。ニッと歯を見せて笑いかける吉岡沙紀の姿は珍しいかもしれない。
「さっきぼんやりと外を眺めていたライラちゃん、楽しそうだったんすよ。雨が好きとかそういうことじゃなくて、雨は雨で楽しんでいるというか。目の前の瞬間ひとつひとつを大切にしているライラちゃんなら、きっとこれからも楽しいっすよ♪」
そう言って、鈍色の空に視線を走らせる沙紀。
「……ありがとうございますですよー。ふふ」
言葉にしてもらえて、ライラは少し気が楽になったように感じた。ぺこり、と丁寧なお辞儀をして礼を述べる。
「ゆっくり楽しんでいきましょ。夏はライラちゃんの季節なんすから」
「夏は……ライラさんの?」
「アイスクリーム好きなんでしょ? なら今っすよ」
口元に添えていた指を小粋な仕草でぴっ、とライラに向けた。自然に出るカッコいい動きと笑顔。フィーリングいっぱいのトークだけど、沙紀らしくて素敵だった。ライラもつられて笑みをこぼした。
そっか、夏は自分の季節なのか、と噛みしめるライラ。何気ない言葉だけど、それはとても大切なものだったかもしれない。
ひとしきり会話が交わされたところで、カバンに入れていたスマートフォンが振動していることに気づいた。アイドル活動をするようになってほどなく、連絡に必須だからと事務所から与えられたものだ。ふだんも使っていいよと言われているが、ライラ自身は必要な連絡用途以外ではあまり使おうとしない。使用を避けているというより、彼女なりに大切に扱っていることの現れではあるのだけれど。
取り出して画面を覗くと「相川千夏」の文字が並んでいた。おまたせしました、と声をかけると、聞き慣れたトーンの反応があった。
「お疲れ様。唐突だけど、今週末は予定あるかしら?」
ライブがあるのだけど、一緒に観に行かない? そう語る声の主は、いつもよりご機嫌のようだった。
22:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2020/11/08(日) 09:15:13.24 :FQVp12gN0
* * * * *
相川千夏はそもそも後輩の面倒見が特別よいとか世話焼きとかいうわけではない。落ち着いた佇まいが魅力の、聡明で博識なオトナの女性だ。ただそうした堅いイメージに比せず、彼女を慕う後輩は多い。その理由はいろいろあるが、盟友・大槻唯の言葉を借りるのであれば「大切なタイミングを絶対にこぼさないヒト」だからだとか。その話を聞いて以来、ライラも頼もしい大人像として千夏を浮かべることがあった。
電話越し、一瞬の躊躇の後、ぜひ行きたいですとライラは返答した。唐突なお誘いもきっと何か意図あってのことに違いない。大切を絶対にこぼさない。たとえばそれが今なのかもしれない、などと思いながら。
「おまたせしました」
駅前で合流の後、一緒に電車を乗り継いで隣町へ。目的の駅を降りるとすぐに視界に入ってきたコンサートホールが今日のお目当てだ。
「急に声を掛けちゃってごめんなさいね」
「いえいえ、とても嬉しいですよー」
入り口の大きな立て看板が見えてきた。凛々しい写真と大きく「黒川千秋」の文字。
「お仕事が入っていたから来られないと思っていたのだけど、急にリスケになっちゃって」
座席は言わずもがな満員だし、立ち見だけど、と千夏が説明する。
「おさそい頂けて光栄でございますです。チアキさんが練習いっぱいされているのは知ってますもんね」
「ええ、それに ――」
彼女のライブはきっと見に行って損はないわよ。特に、今のライラはね。そう話す千夏が印象的だった。
「少しだけお邪魔しちゃおうかしら」
そう言って千夏はステージ前の楽屋を控えめにノックした。
「あら、いらっしゃい。来てくれたのね」
事務所が誇る人気アイドルがそこにいた。ぱぁっ、と明るい表情を見せる千秋。
「ステージ前の集中時間にごめんなさいね」
「ううん、そんなことないわ。むしろ嬉しい」
「仕上がりは順調?」
「ええ。十二分に堪能していってね」
交わされる会話がプロフェッショナルのそれだ、とライラは思った。千秋の視線が自分の方に移ったところでペコリと一礼。
「こんにちはですよー。失礼します」
「ライラさんも来てくれたのね。ありがとう」
「楽しみでございます。頑張って……くださいませ?」
「ふふっ、ありがとう」
変な疑問形イントネーションになってしまったのは、頑張ってくださいと千秋に言ってよいのか少し迷ったからだった。最前線を走る黒川千秋という女性、その凄さも、美しさも、そして努力の様子もみんな知っているから。
「最近ちょっとだけ、しょんぼりんこね。悩み事かしら?」
千秋が何かを察したのか、目線を合わせながらライラに話しかけた。
「……えっと、そう、見えますでしょうか」
「少しだけね。いつもの優しくて暖かいあなたの笑顔が、最近ちょっと控えめな印象だったから」
ライラは一度うつむいて、そうですねー……、とつぶやくばかりだった。自分でもうまく言葉にできないので、いや、内心わかってはいるのだけれど、せっかくの千秋の問いかけに返答することができない。
「無理しなくてもいいわよ。きっと悩んでること、引っかかっていることがあるんだと思うの。でも、言葉にできないことって少なくないから。焦らず、でも背負い込みすぎないでね」
優しい笑顔とともにフォローする千秋。誰しも思い悩む時はあるから、と。嬉しい言葉であるとともに、なんだか最近は今までにも増して、助けてもらってばかりだとも思ってしまうライラがいた。
あまり長居も悪いわね、と千夏が促し、切り上げる雰囲気になった。
「またゆっくり話せるかしら」
「もちろん。ライブ後でも後日でも、また時間を取って話したいわ。千夏さんとも、ライラさんともね」
再度エールを送り、楽屋を後にした。手を振って見送ってくれた千秋はクールでエレガントで、衣装もとっても煌びやかだ。だけどその背中には既に熱い想いが滾っているようだった。
* * * * *
相川千夏はそもそも後輩の面倒見が特別よいとか世話焼きとかいうわけではない。落ち着いた佇まいが魅力の、聡明で博識なオトナの女性だ。ただそうした堅いイメージに比せず、彼女を慕う後輩は多い。その理由はいろいろあるが、盟友・大槻唯の言葉を借りるのであれば「大切なタイミングを絶対にこぼさないヒト」だからだとか。その話を聞いて以来、ライラも頼もしい大人像として千夏を浮かべることがあった。
電話越し、一瞬の躊躇の後、ぜひ行きたいですとライラは返答した。唐突なお誘いもきっと何か意図あってのことに違いない。大切を絶対にこぼさない。たとえばそれが今なのかもしれない、などと思いながら。
「おまたせしました」
駅前で合流の後、一緒に電車を乗り継いで隣町へ。目的の駅を降りるとすぐに視界に入ってきたコンサートホールが今日のお目当てだ。
「急に声を掛けちゃってごめんなさいね」
「いえいえ、とても嬉しいですよー」
入り口の大きな立て看板が見えてきた。凛々しい写真と大きく「黒川千秋」の文字。
「お仕事が入っていたから来られないと思っていたのだけど、急にリスケになっちゃって」
座席は言わずもがな満員だし、立ち見だけど、と千夏が説明する。
「おさそい頂けて光栄でございますです。チアキさんが練習いっぱいされているのは知ってますもんね」
「ええ、それに ――」
彼女のライブはきっと見に行って損はないわよ。特に、今のライラはね。そう話す千夏が印象的だった。
「少しだけお邪魔しちゃおうかしら」
そう言って千夏はステージ前の楽屋を控えめにノックした。
「あら、いらっしゃい。来てくれたのね」
事務所が誇る人気アイドルがそこにいた。ぱぁっ、と明るい表情を見せる千秋。
「ステージ前の集中時間にごめんなさいね」
「ううん、そんなことないわ。むしろ嬉しい」
「仕上がりは順調?」
「ええ。十二分に堪能していってね」
交わされる会話がプロフェッショナルのそれだ、とライラは思った。千秋の視線が自分の方に移ったところでペコリと一礼。
「こんにちはですよー。失礼します」
「ライラさんも来てくれたのね。ありがとう」
「楽しみでございます。頑張って……くださいませ?」
「ふふっ、ありがとう」
変な疑問形イントネーションになってしまったのは、頑張ってくださいと千秋に言ってよいのか少し迷ったからだった。最前線を走る黒川千秋という女性、その凄さも、美しさも、そして努力の様子もみんな知っているから。
「最近ちょっとだけ、しょんぼりんこね。悩み事かしら?」
千秋が何かを察したのか、目線を合わせながらライラに話しかけた。
「……えっと、そう、見えますでしょうか」
「少しだけね。いつもの優しくて暖かいあなたの笑顔が、最近ちょっと控えめな印象だったから」
ライラは一度うつむいて、そうですねー……、とつぶやくばかりだった。自分でもうまく言葉にできないので、いや、内心わかってはいるのだけれど、せっかくの千秋の問いかけに返答することができない。
「無理しなくてもいいわよ。きっと悩んでること、引っかかっていることがあるんだと思うの。でも、言葉にできないことって少なくないから。焦らず、でも背負い込みすぎないでね」
優しい笑顔とともにフォローする千秋。誰しも思い悩む時はあるから、と。嬉しい言葉であるとともに、なんだか最近は今までにも増して、助けてもらってばかりだとも思ってしまうライラがいた。
あまり長居も悪いわね、と千夏が促し、切り上げる雰囲気になった。
「またゆっくり話せるかしら」
「もちろん。ライブ後でも後日でも、また時間を取って話したいわ。千夏さんとも、ライラさんともね」
再度エールを送り、楽屋を後にした。手を振って見送ってくれた千秋はクールでエレガントで、衣装もとっても煌びやかだ。だけどその背中には既に熱い想いが滾っているようだった。
23:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2020/11/08(日) 09:16:11.19 :FQVp12gN0
ライブの時間はあっという間だった。
いや、そう感じたライラ含め、会場の皆がステージ上のたった一人を包むパフォーマンスにのまれただけかもしれない。
ライラは圧倒された。張り詰めた空気、微かな息遣い、美しいシルエット。ゆるやかなせせらぎの音、微かな伴奏音。高く静かな音色が一つ。音色はやがて声だとわかる。無から有へ、悠から動へ。そして世界は開闢へ。
彼女の物語が始まった。そこにいる皆が一斉にそう感じた。
繊細なピアノ音、波打つグラフィック。弦を弾く音が一つ、澄んだ吐息がまた一つ。共鳴する舞台。音は歌となり、歌は音となる。
突然そこに、劈くような大きな打撃音が一つ。それを皮切りに、彼女を纏う音々が踊り出す。少しずつ。増える拍数、駆け行く音色。重なる音符、雄大なコーラス。
そして、それらを切り裂く咆哮一つ。
真紅のドレスに身を包んだ、艶やかな黒髪の女性に光が当たる。マイクを前に悠然と構える黒川千秋がそこにいた。
彼女の世界に入った人々にとって、そこからはもう輝きを見て、煌めきに触れるだけの時間だ。とてつもないスケールと歌唱力。舞台を席巻する全能感。見惚れるほどの美しさと壮大さがそこにあった。
彼女は歌う。時に優しく、時に雄々しく。
彼女は踊る。時にしなやかに、時に躍動感いっぱいに。
彼女は綴る。彼女は魅せる。そして彼女は示すのだ。
いま私はここにいる、と。
有名な物語をベースにした歌や、かつて彼女自身が出演したミュージカルで用いられた曲なども披露された。それらは前提となるストーリーや世界観が明確に存在するだけに、いささか唐突で過大な言い回しがあったりするのだが、それでも一切の敷居や隔たりを感じさせる間もなく、聴く人々を一緒に連れて行くだけのパワーがあった。それが今、この瞬間の黒川千秋だった。天下を揺るがす物語が、生死を伴う喜悲劇が、甘美な青春の一頁が、ここにあった。
「明日世界が終わるなら」なんて例えを出さずとも、今日を全力で生きる意味はある。
それは後半で歌われた何気ない一節だった。舞台となっていた物語で、混乱の渦中で翻弄される仲間たちへの主人公の語りと重なるもの。いろんなことが錯綜する時だからこそ、そうでなくとも大切にしていたことを、何よりも今大切なこととしてやろう。意味や価値を決めるのは自分たちだ。そう綴る主人公は、美しかった。
この一節が、今更ながらにライラの心に深く刺さっていた。自惚れたことを言えば、それがあたかも自分に向けて歌われているように思えたから。
機というものはわからない。この歌を練習しているシーンをこれまでにも何度か事務所で見かけていたし、他にも並び立つだけのメッセージたる歌詞は少なからずあったわけで。しかし人に届くということには時節がおおいに関わる。ライラにとってそれが今であり、またこの舞台の、今日のスケールがあって感じ得たのがそのフレーズだった、ということである。大仰かつ仔細に綴られた詩の数々の中でこれが特に響いたことは偶然かもしれないが、それこそが運命なのかもしれない。後々に彼女はそう実感していた。
気が付くとホールが歓声に包まれていた。
アンコール前の幕間でようやく、思い出したように大きく呼吸をするライラ。すごかった。ただただ、すごかった。隣にいた千夏も「参ったわね」と小さな声でつぶやいた。
「すごいものね。彼女」
「……ほんとうですね」
万雷の拍手の中、千秋がステージに戻ってきた。ありがとうございます、と深々一礼。そして少し説明を添えた。
「僭越ながらもう一曲だけ、披露させて頂きます。……ただ、今日これまでのテイストとは少し変わるものですが、ご容赦頂けたらと思います」
曰く、これは私がアイドルになって最初に覚えた曲です、と。アイドルらしい楽曲を否定するつもりは昔も今もないけれど、当時はこれをうまく歌うことができず苦労した。どちらがいいという話ではなく、それぞれに魅力も輝きもある。それを自分の中で噛み締め、表現につなげるまでに時間がかかってしまった。だがそれこそが自分のスタートであり、思い出であり、今も大切にしている輝きの根幹であると。
「私はできることなら、いろんな自分を否定せず信じていきたいし、挑戦し続けていきたいと思っています。過去も、今も、これからも」
アンコール曲が始まった。終始壮大でアーティスト然とした今日のこれまでの流れとはうってかわって、可愛らしく、キャッチーなフレーズに満ちたメロディ。軽快にステップを踏む彼女の姿もまた存分にキュートだった。
曲の中で彼女は五度にも渡り「シンデレラ」というフレーズを出した。魔法にかかる。誰もがシンデレラだという。きらめくステージで彼女がその言葉を解き放つことは本当に意味がある。だけど、とライラは自分の胸に手を当てた。はたしてそうだろうか。それを信じるだけの力が、今の己にあるだろうか。
そんなライラの気持ちを見透かすように、千夏がそっと笑みを見せた。
ライブの時間はあっという間だった。
いや、そう感じたライラ含め、会場の皆がステージ上のたった一人を包むパフォーマンスにのまれただけかもしれない。
ライラは圧倒された。張り詰めた空気、微かな息遣い、美しいシルエット。ゆるやかなせせらぎの音、微かな伴奏音。高く静かな音色が一つ。音色はやがて声だとわかる。無から有へ、悠から動へ。そして世界は開闢へ。
彼女の物語が始まった。そこにいる皆が一斉にそう感じた。
繊細なピアノ音、波打つグラフィック。弦を弾く音が一つ、澄んだ吐息がまた一つ。共鳴する舞台。音は歌となり、歌は音となる。
突然そこに、劈くような大きな打撃音が一つ。それを皮切りに、彼女を纏う音々が踊り出す。少しずつ。増える拍数、駆け行く音色。重なる音符、雄大なコーラス。
そして、それらを切り裂く咆哮一つ。
真紅のドレスに身を包んだ、艶やかな黒髪の女性に光が当たる。マイクを前に悠然と構える黒川千秋がそこにいた。
彼女の世界に入った人々にとって、そこからはもう輝きを見て、煌めきに触れるだけの時間だ。とてつもないスケールと歌唱力。舞台を席巻する全能感。見惚れるほどの美しさと壮大さがそこにあった。
彼女は歌う。時に優しく、時に雄々しく。
彼女は踊る。時にしなやかに、時に躍動感いっぱいに。
彼女は綴る。彼女は魅せる。そして彼女は示すのだ。
いま私はここにいる、と。
有名な物語をベースにした歌や、かつて彼女自身が出演したミュージカルで用いられた曲なども披露された。それらは前提となるストーリーや世界観が明確に存在するだけに、いささか唐突で過大な言い回しがあったりするのだが、それでも一切の敷居や隔たりを感じさせる間もなく、聴く人々を一緒に連れて行くだけのパワーがあった。それが今、この瞬間の黒川千秋だった。天下を揺るがす物語が、生死を伴う喜悲劇が、甘美な青春の一頁が、ここにあった。
「明日世界が終わるなら」なんて例えを出さずとも、今日を全力で生きる意味はある。
それは後半で歌われた何気ない一節だった。舞台となっていた物語で、混乱の渦中で翻弄される仲間たちへの主人公の語りと重なるもの。いろんなことが錯綜する時だからこそ、そうでなくとも大切にしていたことを、何よりも今大切なこととしてやろう。意味や価値を決めるのは自分たちだ。そう綴る主人公は、美しかった。
この一節が、今更ながらにライラの心に深く刺さっていた。自惚れたことを言えば、それがあたかも自分に向けて歌われているように思えたから。
機というものはわからない。この歌を練習しているシーンをこれまでにも何度か事務所で見かけていたし、他にも並び立つだけのメッセージたる歌詞は少なからずあったわけで。しかし人に届くということには時節がおおいに関わる。ライラにとってそれが今であり、またこの舞台の、今日のスケールがあって感じ得たのがそのフレーズだった、ということである。大仰かつ仔細に綴られた詩の数々の中でこれが特に響いたことは偶然かもしれないが、それこそが運命なのかもしれない。後々に彼女はそう実感していた。
気が付くとホールが歓声に包まれていた。
アンコール前の幕間でようやく、思い出したように大きく呼吸をするライラ。すごかった。ただただ、すごかった。隣にいた千夏も「参ったわね」と小さな声でつぶやいた。
「すごいものね。彼女」
「……ほんとうですね」
万雷の拍手の中、千秋がステージに戻ってきた。ありがとうございます、と深々一礼。そして少し説明を添えた。
「僭越ながらもう一曲だけ、披露させて頂きます。……ただ、今日これまでのテイストとは少し変わるものですが、ご容赦頂けたらと思います」
曰く、これは私がアイドルになって最初に覚えた曲です、と。アイドルらしい楽曲を否定するつもりは昔も今もないけれど、当時はこれをうまく歌うことができず苦労した。どちらがいいという話ではなく、それぞれに魅力も輝きもある。それを自分の中で噛み締め、表現につなげるまでに時間がかかってしまった。だがそれこそが自分のスタートであり、思い出であり、今も大切にしている輝きの根幹であると。
「私はできることなら、いろんな自分を否定せず信じていきたいし、挑戦し続けていきたいと思っています。過去も、今も、これからも」
アンコール曲が始まった。終始壮大でアーティスト然とした今日のこれまでの流れとはうってかわって、可愛らしく、キャッチーなフレーズに満ちたメロディ。軽快にステップを踏む彼女の姿もまた存分にキュートだった。
曲の中で彼女は五度にも渡り「シンデレラ」というフレーズを出した。魔法にかかる。誰もがシンデレラだという。きらめくステージで彼女がその言葉を解き放つことは本当に意味がある。だけど、とライラは自分の胸に手を当てた。はたしてそうだろうか。それを信じるだけの力が、今の己にあるだろうか。
そんなライラの気持ちを見透かすように、千夏がそっと笑みを見せた。
24:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2020/11/08(日) 09:17:00.81 :FQVp12gN0
「お疲れ様。とっても素敵だったわね」
「ありがとう。そう言ってもらえると安心するわ」
ステージ終了後の楽屋。ラフな格好に戻りようやく一息つく千秋に、千夏から言葉が贈られる。「慌ただしいでしょうけど、できれば一声だけでも掛けておきたいから」ということで立ち寄ることにしたのだった。ライラも一緒に足を運んだ。
「お疲れ様でございました。とっても……とっても素敵でした」
「ふふっ、ありがとう」
本心からの言葉ではあるのだけど、どこかぎこちなさの漂うライラの挨拶。
「いろいろ、悩みは尽きないみたいね」
「はいです。……でも」
ライラが向き直る。
「チアキさんの歌に、ちょっとだけ勇気を頂けた気がします。ありがとうございました」
その瞳はとても綺麗で、千秋も思わず笑みがこぼれた。
「そう。そう言ってもらえるのは嬉しいわ」
連れてきてよかった、と千夏が添えた。そこからしばし三人で言葉を交わす。
ステージでの激情に満ちたパフォーマンスからは想像できないくらい、柔らかな空気が流れていた。なんだろう、ほっとする。そんな気持ちのライラがいた。
「そうだ、ちょっとこっちへ来て?」
そう言って千秋は楽屋を出て二人を付いてくるよう促す。慌ただしくスタッフの行き交う廊下を抜けてその先へ。
狭い通路の向こうには、さっきまでの壮大な世界の一端があった。光に照らされたステージ跡。もっとも既に片付けの最中で、大小様々な設備類がそこかしこでバラされていたけれど。
「ここにいたの、私は。ついさっきまで」
ステージの真ん中に立つ千秋。遠慮気味なライラの手を引き、ともに中央へ。観客席を向く。
「光り輝くステージに立って、己の力の限りの声を、高らかに、美しく発して、皆に届ける。言葉で表すとそれだけなのに、途方もないことだと思うわ」
私はここに立つと、ここまで来たんだという気持ちと、まだまだなんだという気持ちの両方をいつも抱くの、と千秋は語った。
「チアキさんでもそうなのですか」
ライラは驚いた反応を見せたが、もちろんよ、私だってまだまだ、と千秋は返す。
「でもそれは、ここに来たからこそ気づけたことでもあるの」
だから。
「だからライラさん、あなたも前に進んで。そしてステージに立って」
踏み出した先だからこそ見える景色はきっとあるから。
「今の場所で悩み続けても仕方ない時だってあるし、悩みながらも進まきゃね」
千秋はそう言ってるんだと思うわ、と千夏が補足する。
「私は少しだけ、ライラが最近悩んでいることを知っているけど……それはきっと、一つの答えに辿りつくには、もっともっと時間がかかると思うの」
あるいは、明確な正解なんてないかもしれない。だからこそ進みましょう。
「いずれわかるわ。あなたの悩みや考え、想い、そして行動。きっとそれ全てが答えで、それ全てがあなたなんだって」
そう語る千夏の姿はライラにとって、ステージ上の千秋と同じくらい雄大に映った。
「『過程の価値は今わからない。それでも人は努力する。それゆえ人は努力する』って」
そんな言葉があったわね。フランスの諺だけど。千夏は続けた。
「どんなに努力したってトップには立てなかったりする。誰もがナンバーワンなんて大仰よ。でも、だからこそ努力しがいがあるし、努力の意味はあるの」
「だからこそ、でございますか……」
言葉を噛み締めるライラ。
「あら、私はそれでもナンバーワンになるわよ?」
「フフ。千秋のそういうトコ、嫌いじゃないわよ」
皮肉っぽく割って入った千秋の言葉に、笑みを返す千夏。
ライラの方を向き、千秋が再び言葉を添える。
「頑張っていきましょう。お互いね」
周囲をどんどん頼ってね。私でも、一緒にいるみんなでも、千夏さんでも、プロデューサーさんでも。彼女はそう続けた。
「あなたは素敵よ。ライラさん」
その言葉は、その後しばらくライラを奮い立たせる力となった。
その日の夜、ライラはまた少し手紙を書き綴った。
けれどやはり、想いがまとまるまではいかず、それは再び机にしまうこととなった。
* * * * *
「お疲れ様です。ここにいたんですね」
「あら、何か呼ばれていたかしら」
翌日夜。レッスン室でひとり、ダンスを練習する相川千夏のもとにプロデューサーが訪れた。
「いえ、自主練をしていると聞いたもので、少し様子を見に」
「そう。ありがとう」
気にせず続けてくださいと言われたが、千夏は一息いれることにした。
「ライラの面倒をいろいろ見てくれて感謝しています」
「いいわよ。むしろ私こそ刺激になるわ」
汗を拭きつつ会話に応じる千夏。あの子は本当に素敵。私も頑張らなきゃって思わせてくれるわ。そう続けた。
「……私のことも気にかけて、ライラのサポートの話を持ってきてくれたのかしら」
そこは相川さんの魅力と実力を買ってのことにすぎませんよ、と返すプロデューサー。
相変わらずトボケるのが上手なんだから、と笑う千夏。心なしかご機嫌の様子だった。
「いい感じみたいでよかったです」
「まぁ、千秋のライブも観たところだし、ね」
「素敵でしたか」
「アレを観て奮い立たないわけがないでしょ、というくらいには」
見惚れるほどだったし、やっぱり悔しい気持ちもあるわ、と千夏は続けた。
「もっと私も、ってね。もちろん千秋は千秋、私は私。でも、だからこそ、私も自分にできることをやるつもり。……だから」
だから、よければ見ていてね。少し小さめな声で、しかしはっきりと彼女はつぶやいた。意気軒昂な千夏は珍しい。だからこそ、魅力にも信頼にも満ちているようだった。
期待しています、と彼。信頼関係が少なからず見え隠れする会話が、お互いにどこか心地よかった。
彼に対して明確に欲を見せる彼女は珍しいのだけれど、どこまでの意味があるのか、それがどこまで彼に届いたかは、お互いのみの知るところ。
プロデューサーが机に戻るとメールが一通届いていた。
先日会った、ライラのエージェントからだった。
「お疲れ様。とっても素敵だったわね」
「ありがとう。そう言ってもらえると安心するわ」
ステージ終了後の楽屋。ラフな格好に戻りようやく一息つく千秋に、千夏から言葉が贈られる。「慌ただしいでしょうけど、できれば一声だけでも掛けておきたいから」ということで立ち寄ることにしたのだった。ライラも一緒に足を運んだ。
「お疲れ様でございました。とっても……とっても素敵でした」
「ふふっ、ありがとう」
本心からの言葉ではあるのだけど、どこかぎこちなさの漂うライラの挨拶。
「いろいろ、悩みは尽きないみたいね」
「はいです。……でも」
ライラが向き直る。
「チアキさんの歌に、ちょっとだけ勇気を頂けた気がします。ありがとうございました」
その瞳はとても綺麗で、千秋も思わず笑みがこぼれた。
「そう。そう言ってもらえるのは嬉しいわ」
連れてきてよかった、と千夏が添えた。そこからしばし三人で言葉を交わす。
ステージでの激情に満ちたパフォーマンスからは想像できないくらい、柔らかな空気が流れていた。なんだろう、ほっとする。そんな気持ちのライラがいた。
「そうだ、ちょっとこっちへ来て?」
そう言って千秋は楽屋を出て二人を付いてくるよう促す。慌ただしくスタッフの行き交う廊下を抜けてその先へ。
狭い通路の向こうには、さっきまでの壮大な世界の一端があった。光に照らされたステージ跡。もっとも既に片付けの最中で、大小様々な設備類がそこかしこでバラされていたけれど。
「ここにいたの、私は。ついさっきまで」
ステージの真ん中に立つ千秋。遠慮気味なライラの手を引き、ともに中央へ。観客席を向く。
「光り輝くステージに立って、己の力の限りの声を、高らかに、美しく発して、皆に届ける。言葉で表すとそれだけなのに、途方もないことだと思うわ」
私はここに立つと、ここまで来たんだという気持ちと、まだまだなんだという気持ちの両方をいつも抱くの、と千秋は語った。
「チアキさんでもそうなのですか」
ライラは驚いた反応を見せたが、もちろんよ、私だってまだまだ、と千秋は返す。
「でもそれは、ここに来たからこそ気づけたことでもあるの」
だから。
「だからライラさん、あなたも前に進んで。そしてステージに立って」
踏み出した先だからこそ見える景色はきっとあるから。
「今の場所で悩み続けても仕方ない時だってあるし、悩みながらも進まきゃね」
千秋はそう言ってるんだと思うわ、と千夏が補足する。
「私は少しだけ、ライラが最近悩んでいることを知っているけど……それはきっと、一つの答えに辿りつくには、もっともっと時間がかかると思うの」
あるいは、明確な正解なんてないかもしれない。だからこそ進みましょう。
「いずれわかるわ。あなたの悩みや考え、想い、そして行動。きっとそれ全てが答えで、それ全てがあなたなんだって」
そう語る千夏の姿はライラにとって、ステージ上の千秋と同じくらい雄大に映った。
「『過程の価値は今わからない。それでも人は努力する。それゆえ人は努力する』って」
そんな言葉があったわね。フランスの諺だけど。千夏は続けた。
「どんなに努力したってトップには立てなかったりする。誰もがナンバーワンなんて大仰よ。でも、だからこそ努力しがいがあるし、努力の意味はあるの」
「だからこそ、でございますか……」
言葉を噛み締めるライラ。
「あら、私はそれでもナンバーワンになるわよ?」
「フフ。千秋のそういうトコ、嫌いじゃないわよ」
皮肉っぽく割って入った千秋の言葉に、笑みを返す千夏。
ライラの方を向き、千秋が再び言葉を添える。
「頑張っていきましょう。お互いね」
周囲をどんどん頼ってね。私でも、一緒にいるみんなでも、千夏さんでも、プロデューサーさんでも。彼女はそう続けた。
「あなたは素敵よ。ライラさん」
その言葉は、その後しばらくライラを奮い立たせる力となった。
その日の夜、ライラはまた少し手紙を書き綴った。
けれどやはり、想いがまとまるまではいかず、それは再び机にしまうこととなった。
* * * * *
「お疲れ様です。ここにいたんですね」
「あら、何か呼ばれていたかしら」
翌日夜。レッスン室でひとり、ダンスを練習する相川千夏のもとにプロデューサーが訪れた。
「いえ、自主練をしていると聞いたもので、少し様子を見に」
「そう。ありがとう」
気にせず続けてくださいと言われたが、千夏は一息いれることにした。
「ライラの面倒をいろいろ見てくれて感謝しています」
「いいわよ。むしろ私こそ刺激になるわ」
汗を拭きつつ会話に応じる千夏。あの子は本当に素敵。私も頑張らなきゃって思わせてくれるわ。そう続けた。
「……私のことも気にかけて、ライラのサポートの話を持ってきてくれたのかしら」
そこは相川さんの魅力と実力を買ってのことにすぎませんよ、と返すプロデューサー。
相変わらずトボケるのが上手なんだから、と笑う千夏。心なしかご機嫌の様子だった。
「いい感じみたいでよかったです」
「まぁ、千秋のライブも観たところだし、ね」
「素敵でしたか」
「アレを観て奮い立たないわけがないでしょ、というくらいには」
見惚れるほどだったし、やっぱり悔しい気持ちもあるわ、と千夏は続けた。
「もっと私も、ってね。もちろん千秋は千秋、私は私。でも、だからこそ、私も自分にできることをやるつもり。……だから」
だから、よければ見ていてね。少し小さめな声で、しかしはっきりと彼女はつぶやいた。意気軒昂な千夏は珍しい。だからこそ、魅力にも信頼にも満ちているようだった。
期待しています、と彼。信頼関係が少なからず見え隠れする会話が、お互いにどこか心地よかった。
彼に対して明確に欲を見せる彼女は珍しいのだけれど、どこまでの意味があるのか、それがどこまで彼に届いたかは、お互いのみの知るところ。
プロデューサーが机に戻るとメールが一通届いていた。
先日会った、ライラのエージェントからだった。
25:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2020/11/08(日) 09:18:44.81 :FQVp12gN0
* * * * *
「ありがとうございました!」
喝采の中、みんなで一斉にファンへ挨拶。祝日のホールで開催されたミニライブは満員御礼、滞りなく無事閉幕となった。今回はライラもミスすることなく歌い終え、踊り終えることができた。舞台袖にはけてホッと一息。タオルを持って現れたプロデューサーとハイタッチを交わす。
「いえーい、でございますよ」
どこか間の抜けたライラのトーンと、それに丁寧に反応するプロデューサーの関係は傍目から見ていても暖かい雰囲気だった。
ライラも手応えを実感するとともに、いろんな感情が混ざり合う自分に少しだけ驚いていた。目の前をことをミスなく終えられたという安堵感。周囲のみんなからの暖かな言葉とそれが実感できることの嬉しさ。万事順調に終えられたことによる楽屋のおおらかな空気。中心を担うアイドルのレベルの高さ。翻って、ミスはなかったけれどもっともっとレベルアップが求められる自分の技術。そして今更ながら思い出す、「自分の強みは何か」というトレーナーさんの問い、などなど。
黒川千秋の言う通りだった。踏み出して、小さくともやり遂げることで、また見えることが表出するのだ。それは些細なステップであっても同様なのかもしれない。
「また一つ、素敵な表情を見せるようになったね」
ライブ後の楽屋でプロデューサーから投げかけられた一言は事実を述べたにすぎなかったのかもしれない。だけど今日のライラにはとても届く言葉で。はにかんで見せつつ、ありがとうございますですよ、とライラは返した。
「あれ、ライラ一人なの?」
ホール裏口。ライブの撤収作業があらかた済み、参加者も皆それぞれ帰路へとなったところ。声を掛けてきたのは今日のセンターを担っていた事務所の売れっ子、双葉杏だった。
「はいですー。プロデューサー殿はまだここで打ち合わせだそうです。ライラさんはお先に失礼しますです、と」
送っていけなくてごめん、と詫びられたがライラは気にするつもりは一切ない。むしろ自分のことをまた次の企画に際して売り出すため頑張ってくれていることを知っている。感謝でございますよーとお礼を述べるばかりだった。
「そっかぁ。杏も一人なんだよね。一緒に帰る?」
「よろしいのですか?」
お邪魔でないならお願いしますです、とライラは語った。
杏は杏で、本人も担当プロデューサーも忙しく、今日もプロデューサーが別案件に飛んで行ったので一人で返されることになった。ちょうど今からタクシーをつかまえるところだったのだ。
「一緒に乗るといいよ」
「ありがとうございますです」
* * * * *
「ありがとうございました!」
喝采の中、みんなで一斉にファンへ挨拶。祝日のホールで開催されたミニライブは満員御礼、滞りなく無事閉幕となった。今回はライラもミスすることなく歌い終え、踊り終えることができた。舞台袖にはけてホッと一息。タオルを持って現れたプロデューサーとハイタッチを交わす。
「いえーい、でございますよ」
どこか間の抜けたライラのトーンと、それに丁寧に反応するプロデューサーの関係は傍目から見ていても暖かい雰囲気だった。
ライラも手応えを実感するとともに、いろんな感情が混ざり合う自分に少しだけ驚いていた。目の前をことをミスなく終えられたという安堵感。周囲のみんなからの暖かな言葉とそれが実感できることの嬉しさ。万事順調に終えられたことによる楽屋のおおらかな空気。中心を担うアイドルのレベルの高さ。翻って、ミスはなかったけれどもっともっとレベルアップが求められる自分の技術。そして今更ながら思い出す、「自分の強みは何か」というトレーナーさんの問い、などなど。
黒川千秋の言う通りだった。踏み出して、小さくともやり遂げることで、また見えることが表出するのだ。それは些細なステップであっても同様なのかもしれない。
「また一つ、素敵な表情を見せるようになったね」
ライブ後の楽屋でプロデューサーから投げかけられた一言は事実を述べたにすぎなかったのかもしれない。だけど今日のライラにはとても届く言葉で。はにかんで見せつつ、ありがとうございますですよ、とライラは返した。
「あれ、ライラ一人なの?」
ホール裏口。ライブの撤収作業があらかた済み、参加者も皆それぞれ帰路へとなったところ。声を掛けてきたのは今日のセンターを担っていた事務所の売れっ子、双葉杏だった。
「はいですー。プロデューサー殿はまだここで打ち合わせだそうです。ライラさんはお先に失礼しますです、と」
送っていけなくてごめん、と詫びられたがライラは気にするつもりは一切ない。むしろ自分のことをまた次の企画に際して売り出すため頑張ってくれていることを知っている。感謝でございますよーとお礼を述べるばかりだった。
「そっかぁ。杏も一人なんだよね。一緒に帰る?」
「よろしいのですか?」
お邪魔でないならお願いしますです、とライラは語った。
杏は杏で、本人も担当プロデューサーも忙しく、今日もプロデューサーが別案件に飛んで行ったので一人で返されることになった。ちょうど今からタクシーをつかまえるところだったのだ。
「一緒に乗るといいよ」
「ありがとうございますです」
26:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2020/11/08(日) 09:19:38.36 :FQVp12gN0
「ライラ、今日の動きよかったね」
「本当でございますか?」
「うん。頑張ってたのがよくわかったし、ミスもなかった……よね? たぶんファンも観ていて楽しかったと思うよ」
「えへへ、そう言って頂けると嬉しいですねー」
移動のタクシー内。今日の振り返りがてら、杏が少しずつ話を切り出した。ライラも満足感があったせいか、積極的に言葉を返す。
「でもやっぱりアンズさんを見ているとスゴかったです。ライラさんも自分では頑張れたと思っていますが、……でも、もっともっとうまくなりたいです」
気づくことは自分に対してだけじゃない。周囲を見ても学びはたくさんあった。何より、センターの杏は本当に動きにムダがなくて、速いのに丁寧で、そしてかわいかった。技量差はきっと自分が思っているより遥かにあるんだろう、とライラは感じていた。
「そりゃまた、意識の高いことで」
窓の外に視線を逃す杏。真面目な話は性分じゃない、とは以前も語っていたけれど。
「……ライラはちょっと前まで、なんか調子いまひとつかなって思っていたんだけどさ。そっちは解決したの?」
リハの頃から見る限りでは、ちゃんと前を向けるようになってたよね。視線を合わせないまま、杏がそうつぶやいた。
「そう、ですね」
一瞬ためらった後、ライラがゆっくり、だけど自信を持って口を開いた。
「何がカイゼンして何がカイケツしたかは、まだわからないですが。でも少しずつ頑張れていますです」
「そっか」
優しい笑顔を見せるライラ。視線を戻した杏もそれを見て、少し安心したような表情になった。
そこからしばし他愛ない雑談へと変わった。ライラと杏は事務所内でも挨拶や軽い会話こそすれ、ゆっくりお互いのことを話す機会は今までなかった。もちろん出自や現在の活動の概要くらいは把握しているけれど。質問は意外にも、ライラから投げかけることの方が多かった。
ライラから見て杏は確かな実力のある先輩であり、しかしあまり前向きな言葉を発したりはしないことが印象的な人だった。けれどきちんと練習もするし、結果にもつなげる人だった。ムダなことを嫌い、最短距離を走ることに長けているようだった。
わたくしは寄り道ばかりでございますからねー、と自戒的に言葉を発したライラだったが、杏はその言葉を聞き逃さず拾った。
「ライラはあんまりそういうこと気にしたりしないでさ……なんというか、好きなこととか楽しいことを追いかけていってほしいな」
それに、そういうとこもライラの魅力なんだよ。今の自分を否定しないでね、と。
「ライラさん、今の人生も、ここでの毎日もとっても楽しいでございますよ?」
「それならいいんだけど」
ライラがゆっくりと言葉を紡ぐ。
「故郷を去るまでも素敵でした。でも、今だってとっても幸せでございますよ。この先とか将来とか、どうしてなっているかわからないですけれど。でもそれも人生でございますねー」
毎日発見がありますし、毎日小さな幸せがありますです。それだけでライラさんは幸せでございます。そう彼女は続けた。
「そっか」
んー……、と適切な言葉を探して天を仰ぐ杏。しばらくしてライラの方に向き直った。
「ライラはさ、たらればってわかるかな」
「おいしいやつですか」
「それはたぶんニラレバ」
パラレルって言った方がいいかもしれない。杏は説明を続けた。
人生にはいろんな選択肢があって、もしこちらを選んでいなければ……という道はいっぱいあるハズなの。っていうか分岐があるからこそ人は考えちゃうんだけどね。でもどうやったってその分岐点にも別ルートにも戻れるわけじゃないし、選び直せないじゃん。だったら悩んでも仕方ないよねみたいな。
意味はわかるものの、杏がこの話をする意図がいまいち察することができないライラ。頷きつつ続きを待った。
「杏もなんでアイドルやってるかなんて、いろんな巡り合わせの結果だからとしか言い様がないんだよね。他の生き方だってあったかもしれない。でも幸い、いや幸いなのかな? まぁいいや、とりあえず杏は今の生き方は嫌いじゃなくてさ」
「アンズさん、いろんな人にお慕いされておりますもんねー」
ライラの記憶にもそんな光景が目に浮かぶ。怠惰な発言もしばしばな杏だが、そんな彼女を慕う者は少なくないし、事務所で見る彼女の周りはいつも賑やかだ。担当プロデューサー、諸星きらり、前川みく、緒方智絵里、三村かな子、荒木比奈、などなど。それはきっと、彼女の素敵な部分をちゃんとみんなわかっているから。
「……どうかなぁ。でも、感謝はしてる。少しだけね」
「ふふ。素敵でございますよ」
照れくさそうに杏が反応して見せた。ライラも笑みをこぼす。
「話を戻すけど」
「はいです」
逸れてきた話題を仕切り直し、杏は続けた。
「人生のあり方をいろいろ、それこそきっと杏より苛烈に生きてきたライラがさ、今この場で小さく留まってほしくはないなぁって思うんだよ。ライラは幸せを感じているのかもしれないけど、それはそれとして、どうにかしなきゃいけないことはあるわけでしょ」
「……はい、です」
現実に引き戻すような一言に、胃のあたりが少しキュッと摘まれたような感覚に陥ったライラ。
「お互い、今この瞬間がずっととはいかないもんね」
時の流れは環境を変化させる。万事不変とはいかないし、出会いもあれば別れもある。それはライラもよく理解していたはずだった。だが彼女は最近ずっと、この幸せな毎日が失われなければいいなとばかり思っていたことに、ようやく気がついた。
「物語が終わらなければ幸福なんだとしても、時計の針は進めるべきだと思うんだ」
みんな、生きているんだから。
それは杏なりの、精一杯のメッセージだった。
「ライラ、今日の動きよかったね」
「本当でございますか?」
「うん。頑張ってたのがよくわかったし、ミスもなかった……よね? たぶんファンも観ていて楽しかったと思うよ」
「えへへ、そう言って頂けると嬉しいですねー」
移動のタクシー内。今日の振り返りがてら、杏が少しずつ話を切り出した。ライラも満足感があったせいか、積極的に言葉を返す。
「でもやっぱりアンズさんを見ているとスゴかったです。ライラさんも自分では頑張れたと思っていますが、……でも、もっともっとうまくなりたいです」
気づくことは自分に対してだけじゃない。周囲を見ても学びはたくさんあった。何より、センターの杏は本当に動きにムダがなくて、速いのに丁寧で、そしてかわいかった。技量差はきっと自分が思っているより遥かにあるんだろう、とライラは感じていた。
「そりゃまた、意識の高いことで」
窓の外に視線を逃す杏。真面目な話は性分じゃない、とは以前も語っていたけれど。
「……ライラはちょっと前まで、なんか調子いまひとつかなって思っていたんだけどさ。そっちは解決したの?」
リハの頃から見る限りでは、ちゃんと前を向けるようになってたよね。視線を合わせないまま、杏がそうつぶやいた。
「そう、ですね」
一瞬ためらった後、ライラがゆっくり、だけど自信を持って口を開いた。
「何がカイゼンして何がカイケツしたかは、まだわからないですが。でも少しずつ頑張れていますです」
「そっか」
優しい笑顔を見せるライラ。視線を戻した杏もそれを見て、少し安心したような表情になった。
そこからしばし他愛ない雑談へと変わった。ライラと杏は事務所内でも挨拶や軽い会話こそすれ、ゆっくりお互いのことを話す機会は今までなかった。もちろん出自や現在の活動の概要くらいは把握しているけれど。質問は意外にも、ライラから投げかけることの方が多かった。
ライラから見て杏は確かな実力のある先輩であり、しかしあまり前向きな言葉を発したりはしないことが印象的な人だった。けれどきちんと練習もするし、結果にもつなげる人だった。ムダなことを嫌い、最短距離を走ることに長けているようだった。
わたくしは寄り道ばかりでございますからねー、と自戒的に言葉を発したライラだったが、杏はその言葉を聞き逃さず拾った。
「ライラはあんまりそういうこと気にしたりしないでさ……なんというか、好きなこととか楽しいことを追いかけていってほしいな」
それに、そういうとこもライラの魅力なんだよ。今の自分を否定しないでね、と。
「ライラさん、今の人生も、ここでの毎日もとっても楽しいでございますよ?」
「それならいいんだけど」
ライラがゆっくりと言葉を紡ぐ。
「故郷を去るまでも素敵でした。でも、今だってとっても幸せでございますよ。この先とか将来とか、どうしてなっているかわからないですけれど。でもそれも人生でございますねー」
毎日発見がありますし、毎日小さな幸せがありますです。それだけでライラさんは幸せでございます。そう彼女は続けた。
「そっか」
んー……、と適切な言葉を探して天を仰ぐ杏。しばらくしてライラの方に向き直った。
「ライラはさ、たらればってわかるかな」
「おいしいやつですか」
「それはたぶんニラレバ」
パラレルって言った方がいいかもしれない。杏は説明を続けた。
人生にはいろんな選択肢があって、もしこちらを選んでいなければ……という道はいっぱいあるハズなの。っていうか分岐があるからこそ人は考えちゃうんだけどね。でもどうやったってその分岐点にも別ルートにも戻れるわけじゃないし、選び直せないじゃん。だったら悩んでも仕方ないよねみたいな。
意味はわかるものの、杏がこの話をする意図がいまいち察することができないライラ。頷きつつ続きを待った。
「杏もなんでアイドルやってるかなんて、いろんな巡り合わせの結果だからとしか言い様がないんだよね。他の生き方だってあったかもしれない。でも幸い、いや幸いなのかな? まぁいいや、とりあえず杏は今の生き方は嫌いじゃなくてさ」
「アンズさん、いろんな人にお慕いされておりますもんねー」
ライラの記憶にもそんな光景が目に浮かぶ。怠惰な発言もしばしばな杏だが、そんな彼女を慕う者は少なくないし、事務所で見る彼女の周りはいつも賑やかだ。担当プロデューサー、諸星きらり、前川みく、緒方智絵里、三村かな子、荒木比奈、などなど。それはきっと、彼女の素敵な部分をちゃんとみんなわかっているから。
「……どうかなぁ。でも、感謝はしてる。少しだけね」
「ふふ。素敵でございますよ」
照れくさそうに杏が反応して見せた。ライラも笑みをこぼす。
「話を戻すけど」
「はいです」
逸れてきた話題を仕切り直し、杏は続けた。
「人生のあり方をいろいろ、それこそきっと杏より苛烈に生きてきたライラがさ、今この場で小さく留まってほしくはないなぁって思うんだよ。ライラは幸せを感じているのかもしれないけど、それはそれとして、どうにかしなきゃいけないことはあるわけでしょ」
「……はい、です」
現実に引き戻すような一言に、胃のあたりが少しキュッと摘まれたような感覚に陥ったライラ。
「お互い、今この瞬間がずっととはいかないもんね」
時の流れは環境を変化させる。万事不変とはいかないし、出会いもあれば別れもある。それはライラもよく理解していたはずだった。だが彼女は最近ずっと、この幸せな毎日が失われなければいいなとばかり思っていたことに、ようやく気がついた。
「物語が終わらなければ幸福なんだとしても、時計の針は進めるべきだと思うんだ」
みんな、生きているんだから。
それは杏なりの、精一杯のメッセージだった。
27:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2020/11/08(日) 09:20:09.00 :FQVp12gN0
「あ、ごめん。難しく考えないで」
うつむくライラに杏がフォローを入れる。それはいいことなんだよ、と。
「杏からしたらさ、ライラは本当にたくさんのことを背負って生きてきたわけで、そこは尊敬なんだよ。すごいなって。でもそんな数奇な運命を辿って今ここにいるならさ、今だからこそできる向き合い方ってきっとあるはずだから」
「今だからこそ、ですか」
杏は続ける。
「なんというかね。物事に、深刻な態度で、神経すり減らしながら向き合うことだけがいいなんて話おかしいと思う。ライラは今何ができる? 歌も歌える、ダンスだってできる。多言語でコミュニケーションも取れるし、ファンだっている。そのどれもが、ライラっていう存在の表現なんだよ」
ライラの今を。そしてこれからを。それを見せてあげることだって立派な会話だよ。そう語る杏はどこか恥ずかしげだったが、今度はきちんとライラの方を向いていた。
タクシーが事務所前に到着し、ここで二人は解散となった。ライラはもっともっと話していたかったけど、今日はここまで、と杏がお開きを言い渡した。
「それじゃまたね。お疲れ様」
「はい、またねでございます。お疲れ様でございましたー」
ぺこり、と一礼。
また会いたくなる「またね」だと、ライラは思った。
「あ、ごめん。難しく考えないで」
うつむくライラに杏がフォローを入れる。それはいいことなんだよ、と。
「杏からしたらさ、ライラは本当にたくさんのことを背負って生きてきたわけで、そこは尊敬なんだよ。すごいなって。でもそんな数奇な運命を辿って今ここにいるならさ、今だからこそできる向き合い方ってきっとあるはずだから」
「今だからこそ、ですか」
杏は続ける。
「なんというかね。物事に、深刻な態度で、神経すり減らしながら向き合うことだけがいいなんて話おかしいと思う。ライラは今何ができる? 歌も歌える、ダンスだってできる。多言語でコミュニケーションも取れるし、ファンだっている。そのどれもが、ライラっていう存在の表現なんだよ」
ライラの今を。そしてこれからを。それを見せてあげることだって立派な会話だよ。そう語る杏はどこか恥ずかしげだったが、今度はきちんとライラの方を向いていた。
タクシーが事務所前に到着し、ここで二人は解散となった。ライラはもっともっと話していたかったけど、今日はここまで、と杏がお開きを言い渡した。
「それじゃまたね。お疲れ様」
「はい、またねでございます。お疲れ様でございましたー」
ぺこり、と一礼。
また会いたくなる「またね」だと、ライラは思った。
28:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2020/11/08(日) 09:20:42.43 :FQVp12gN0
* * * * *
夜、ライラのもとにプロデューサーから電話があった。
「ライブ後にゆっくり話せていなかったからね」
そう言って今日のフォローに入る彼。感じることも考えることも、振り返るなら早いうちがいいよね、とはプロデューサーがいつも言っていること。ライラはプロデューサーのこの言葉が好きだし、この時間も好きだった。
しばし二人で話をした。ダンスのこと、歌のこと。立ち振る舞い、周囲のアイドルのこと。あの子が素敵だった、あの子が参考になった、などなど。そして双葉杏のこと。
「双葉さんがそんなことを、ね」
「はい。とても素敵な方でした」
ライラは改めて思う。ここに来て、ここに生きていること。その恩義に報いる意味でも、アイドル活動で役割を担えるようになりたい。ステージに立って歌って踊って、きらめきをファンに届けること。それがプロデューサーや、スタッフのみんなや、アイドルのみんなへの恩返しになると思っているから。それはそうなんだけど、それだけではないのだ。千夏や、千秋や、杏の存在がなくてはライラは今この瞬間にこの感情になっていなかったはず。それはつまり、ライラが誰かに影響を与える存在になることだってあるのだ。もちろんそれはもっと先のことかもしれないけれど。そしてそれもまた、役割を担うことかもしれない。
「プロデューサー殿」
「うん?」
「ライラさんも、もっともっと、を大切にしていきたいですね」
きっとできるよ。焦らなくていい。でもその気持ちは大事だし、大好きを見つけていこうね。そうプロデューサーは返した。
「好きはもう、いっぱいありますですよ」
大好きもありますですよ、と続けたい気持ちはあった。だけどそれは控えた。今は、まだ。そしてそれは面と向かって、きっと。
「そうだ。明日また事務所で時間取れるかな」
話が一段落したところで、プロデューサーが切り出した。
「少しまた、相談したいことがあるから」
世の中、好調な話ばかりではない。
そうだ、自分には背負っている問題がある。それとも向き合っていかねばならない。だけどきっとなんとかなると思う。今日のような自分なら。そしてみんながいれば。ライラはそう思った。
* * * * *
夜、ライラのもとにプロデューサーから電話があった。
「ライブ後にゆっくり話せていなかったからね」
そう言って今日のフォローに入る彼。感じることも考えることも、振り返るなら早いうちがいいよね、とはプロデューサーがいつも言っていること。ライラはプロデューサーのこの言葉が好きだし、この時間も好きだった。
しばし二人で話をした。ダンスのこと、歌のこと。立ち振る舞い、周囲のアイドルのこと。あの子が素敵だった、あの子が参考になった、などなど。そして双葉杏のこと。
「双葉さんがそんなことを、ね」
「はい。とても素敵な方でした」
ライラは改めて思う。ここに来て、ここに生きていること。その恩義に報いる意味でも、アイドル活動で役割を担えるようになりたい。ステージに立って歌って踊って、きらめきをファンに届けること。それがプロデューサーや、スタッフのみんなや、アイドルのみんなへの恩返しになると思っているから。それはそうなんだけど、それだけではないのだ。千夏や、千秋や、杏の存在がなくてはライラは今この瞬間にこの感情になっていなかったはず。それはつまり、ライラが誰かに影響を与える存在になることだってあるのだ。もちろんそれはもっと先のことかもしれないけれど。そしてそれもまた、役割を担うことかもしれない。
「プロデューサー殿」
「うん?」
「ライラさんも、もっともっと、を大切にしていきたいですね」
きっとできるよ。焦らなくていい。でもその気持ちは大事だし、大好きを見つけていこうね。そうプロデューサーは返した。
「好きはもう、いっぱいありますですよ」
大好きもありますですよ、と続けたい気持ちはあった。だけどそれは控えた。今は、まだ。そしてそれは面と向かって、きっと。
「そうだ。明日また事務所で時間取れるかな」
話が一段落したところで、プロデューサーが切り出した。
「少しまた、相談したいことがあるから」
世の中、好調な話ばかりではない。
そうだ、自分には背負っている問題がある。それとも向き合っていかねばならない。だけどきっとなんとかなると思う。今日のような自分なら。そしてみんながいれば。ライラはそう思った。
29:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2020/11/08(日) 09:21:58.03 :FQVp12gN0
Ⅴ ステップ・アゲイン
物語が終わらなければ幸福なんだとしても、時計の針は進めるべきだと思うんだ。
(双葉杏/アイドル)
「……つまり、そういった場を作るのは難しいと」
「そうなりますね。他の方法を考えるしか」
別日、事務所。応接室で向かい合うエージェント、プロデューサー、そしてライラの三人。後ろには少し離れて、ライラのメイドも立ち控えている。
エージェントからの連絡により、再度議論の機会を持ったプロデューサーたち。幾らかの方策が提示されたのだが、なかなかうまく話は進まない。もっとも、そう容易い話でないのは誰の目にも明らかではあるけれど。
「まず擦り合わせるべきはお父様に今、ライラ様の『何を』『どこまで』お伝えすることが大事か、ということです」
そしてそれにはお父様の昨今の事情の共有とともに、ライラ様が今できることの把握が必要になります。だからこそ、私の知る情報も、プロデューサー様の認識されている情報も必要になります。エージェントのこうした説明から今日の会話は始まった。
彼は変わらず丁寧さに溢れた立ち回りだった。そして直近のライラ父の状況を説きつつ、こういうアプローチはどうでしょうか、あるいはこういうのは、と案を幾らか示してみせた。そこにプロデューサーが可能なこと、問題点、代案などを意見しつつ返す。隣に座るライラの様子も伺いつつ。
「しかし、今の活躍ぶりをお見せすることが効果的かとは思うのですが」
「とはいえ活動から何かを判断されるというのであれば、ただ見せるだけというのは逆に危険が伴うのではないでしょうか」
プロデューサーが指摘する。アイドルカルチャーというのはある種独特なものです。芸術の振興がどれだけあったとしても、歌や踊りそのものの技術論や高尚な文化論に掛かるところで価値を見てしまわれるのであれば、極東のアイドルのそれは理解しづらいところがあるのではないでしょうか、と。
しばらく様々な案が行き来を繰り返していた。両者とも穏やかなトーンではありつつも、なんとか光明を見出したい、そう思って必死に頭を捻っていた。
ライラももちろん一緒に参加していたし意見を交わしていたのだが、いかんせん二人には思索の早さで及ばない。できることとできないことの判断を一緒におこなうのがやっとだった。それでもついていきたい。だってこれは、自分のことなのだから。
しかし、彼女の表情に焦りが見え始めた頃に、プロデューサーが小さな声でそっと「大丈夫」と言って笑顔を見せた。緊張感がふっ、と緩んだ気がした。彼は何事もなかったように話を続けたが、それは結果的にとても大事なフォローになったといえる。
ライラは改めて、隣で話すプロデューサーの姿に目を奪われていた。エージェントからの様々な提案をきちんと受け止めつつ、仔細なポイントにまで目を光らせ、意見を返し、無理なことは無理とはっきり伝える。可能な限り争うことなく、なんとかライラの故国との妥結点を模索し続けていた。
「……ライラ?」
見入ってしまっていたライラに気づいたプロデューサーが声を掛ける。あ、いえ、なんでもございませんですよ、と慌てて反応する彼女の姿に少し違和感を覚えつつも話を戻す。
「……では、バックステージ的な要素はどうでしょう」
エージェントの提案がまた一つ。練習風景や舞台裏の空気感など「過程」を見せたうえで、ステージ上の姿に帰結するようにするのはどうか、と。
「……それなら意味もあるかもしれませんね」
あるいは、日常の情報も織り交ぜつつの方がいいかもしれません。そうプロデューサーは返答した。
「彼女はここに来て、さまざまな人とふれあい、感じ、様々な学びを得てきたと思います。それはアイドル活動に限った話ではありません」
それを示すことは何より、日本でしっかりと生きているというメッセージでもありますから。彼の説明に、エージェントも頷いた。
プロデューサーがライラの方へ向き直る。どう思う? という表情なのが彼女にも見て取れた。ようやく目の前の二人の意見が方向を見つけつつあったのはわかる。だが。
「……すみませんです、えっと、……少し考えさせて、くださいませんか」
ライラの反応は芳しくなかった。
Ⅴ ステップ・アゲイン
物語が終わらなければ幸福なんだとしても、時計の針は進めるべきだと思うんだ。
(双葉杏/アイドル)
「……つまり、そういった場を作るのは難しいと」
「そうなりますね。他の方法を考えるしか」
別日、事務所。応接室で向かい合うエージェント、プロデューサー、そしてライラの三人。後ろには少し離れて、ライラのメイドも立ち控えている。
エージェントからの連絡により、再度議論の機会を持ったプロデューサーたち。幾らかの方策が提示されたのだが、なかなかうまく話は進まない。もっとも、そう容易い話でないのは誰の目にも明らかではあるけれど。
「まず擦り合わせるべきはお父様に今、ライラ様の『何を』『どこまで』お伝えすることが大事か、ということです」
そしてそれにはお父様の昨今の事情の共有とともに、ライラ様が今できることの把握が必要になります。だからこそ、私の知る情報も、プロデューサー様の認識されている情報も必要になります。エージェントのこうした説明から今日の会話は始まった。
彼は変わらず丁寧さに溢れた立ち回りだった。そして直近のライラ父の状況を説きつつ、こういうアプローチはどうでしょうか、あるいはこういうのは、と案を幾らか示してみせた。そこにプロデューサーが可能なこと、問題点、代案などを意見しつつ返す。隣に座るライラの様子も伺いつつ。
「しかし、今の活躍ぶりをお見せすることが効果的かとは思うのですが」
「とはいえ活動から何かを判断されるというのであれば、ただ見せるだけというのは逆に危険が伴うのではないでしょうか」
プロデューサーが指摘する。アイドルカルチャーというのはある種独特なものです。芸術の振興がどれだけあったとしても、歌や踊りそのものの技術論や高尚な文化論に掛かるところで価値を見てしまわれるのであれば、極東のアイドルのそれは理解しづらいところがあるのではないでしょうか、と。
しばらく様々な案が行き来を繰り返していた。両者とも穏やかなトーンではありつつも、なんとか光明を見出したい、そう思って必死に頭を捻っていた。
ライラももちろん一緒に参加していたし意見を交わしていたのだが、いかんせん二人には思索の早さで及ばない。できることとできないことの判断を一緒におこなうのがやっとだった。それでもついていきたい。だってこれは、自分のことなのだから。
しかし、彼女の表情に焦りが見え始めた頃に、プロデューサーが小さな声でそっと「大丈夫」と言って笑顔を見せた。緊張感がふっ、と緩んだ気がした。彼は何事もなかったように話を続けたが、それは結果的にとても大事なフォローになったといえる。
ライラは改めて、隣で話すプロデューサーの姿に目を奪われていた。エージェントからの様々な提案をきちんと受け止めつつ、仔細なポイントにまで目を光らせ、意見を返し、無理なことは無理とはっきり伝える。可能な限り争うことなく、なんとかライラの故国との妥結点を模索し続けていた。
「……ライラ?」
見入ってしまっていたライラに気づいたプロデューサーが声を掛ける。あ、いえ、なんでもございませんですよ、と慌てて反応する彼女の姿に少し違和感を覚えつつも話を戻す。
「……では、バックステージ的な要素はどうでしょう」
エージェントの提案がまた一つ。練習風景や舞台裏の空気感など「過程」を見せたうえで、ステージ上の姿に帰結するようにするのはどうか、と。
「……それなら意味もあるかもしれませんね」
あるいは、日常の情報も織り交ぜつつの方がいいかもしれません。そうプロデューサーは返答した。
「彼女はここに来て、さまざまな人とふれあい、感じ、様々な学びを得てきたと思います。それはアイドル活動に限った話ではありません」
それを示すことは何より、日本でしっかりと生きているというメッセージでもありますから。彼の説明に、エージェントも頷いた。
プロデューサーがライラの方へ向き直る。どう思う? という表情なのが彼女にも見て取れた。ようやく目の前の二人の意見が方向を見つけつつあったのはわかる。だが。
「……すみませんです、えっと、……少し考えさせて、くださいませんか」
ライラの反応は芳しくなかった。
30:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2020/11/08(日) 09:23:06.91 :FQVp12gN0
* * * * *
「……つまり、過程を見せるのはルール違反じゃないかと思った、ということかしら」
同日午後、事務所ビル併設のカフェテリア。ライラとプロデューサー、そして相川千夏が卓を囲んでのひとときとなった。
エージェントとの会話はあの後もしばし続いたものの、肝心のライラ自身が少し判断を保留していることもあり、方策の結論は出なかった。もとより急ぐつもりはない、とはエージェントの言葉だが。
そんな状況だったこともあり、プロデューサーは午後の空き時間を待って、ゆっくりライラと話をすることに決めた。相川千夏も呼んで。
「私がいてもいいの?」
「千夏さんだからいいんですよ」
雑な理屈を振りかざしながら千夏を連れゆくプロデューサー。あきれた、と言いつつもきちんと話は聞いてくれるし、なんだかんだ受け答えに積極的だ。そういうところをプロデューサーも理解しているし、信頼があった。
改めてひとしきり話を聞いて、千夏の感想がそれだった。まさにライラはそこで引っかかっていた。コーヒーのカップがそっと置かれた。
「プロデューサーはどう思うの?」
隣を見遣る千夏。ライラの意見は確かに一理あるし、本人の思いは大切にしたいところだ。だからこそ。
「もう少しライラの言葉が聞きたい、かな」
親御さんがそれを良く思わないだろうと考えるなら、そこは相談し直す意味もあるから。そう返しつつ、反応を伺うプロデューサー。
そうでございますねー……、とライラがゆっくりと話を補足する。
父親がいつだって結果を求める人であること。そうして信頼を築いてきた人であること。故郷を離れて少なからず時間が経っていて、見せるならばやはり相応の「形」である必要が求められるように思っていることなど。言葉足らずな表現もありながら、しかしそれは偽らざる彼女の考えだった。
なるほど、と二人がそれぞれに反応する。
「ご両親のアイドルに対するイメージはどうなのかしら」
「きちんと魅力が伝わっているとは考えづらいでしょうし、微妙かもしれませんね」
ああだこうだと二人が言葉を交わす。ライラにとって二人の存在は改めて頼もしく、暖かなものとして映っている。
策を案じてくれること。最後まできちんと聞いてくれること。エトセトラ、エトセトラ。自分のためにこれだけしてくれることが嬉しくて、だからこそ、自分も向き合わなくてはならない、という気持ちがライラにもある。
ぺこり、と小さくお辞儀を一つして、彼女は再び言葉を続けた。
「ありがとうございますです。……ですが、これはわたくしの感じたことにすぎませんです。プロデューサー殿、チナツさん。どうしたらよいでしょうか、のアドバイスを頂けますか。そして、進めて頂けますか」
そう紡ぐ彼女の瞳は、複雑な気持ちを隠せずにいた。だが同時に、決意にも似た何かを帯びているようでもあった。
疑念は抱きつつも、判断できるほどの自信がない。だけど言えることを言わないのは、当事者としてどうなのか。自分のことだからこそ。そんな気持ちが綯い交ぜになっていたことがわかった。千夏にも、プロデューサーにも。
「丁寧な説明ありがとう、ライラ。しかもそこまで言えるなんて」
プロデューサーが彼女をそっと撫でた。優しい、いつもの彼の手だ。ライラはこの手がとても好きだ。
そんな二人を微笑ましく見ながら、千夏も口を開いた。
「……もう一本のライブ、いつだったかしら」
来月頭ですね、というプロデューサーの説明に、そう、ならちょうどいいかもしれないわね、と続ける千夏。
「ライラ。それまでに一つ、見せたいものがあるわ」
やっぱり納得して前に進んでほしいから。そう彼女は呟いた。どこか得意げな雰囲気を伴いつつ。
* * * * *
「……つまり、過程を見せるのはルール違反じゃないかと思った、ということかしら」
同日午後、事務所ビル併設のカフェテリア。ライラとプロデューサー、そして相川千夏が卓を囲んでのひとときとなった。
エージェントとの会話はあの後もしばし続いたものの、肝心のライラ自身が少し判断を保留していることもあり、方策の結論は出なかった。もとより急ぐつもりはない、とはエージェントの言葉だが。
そんな状況だったこともあり、プロデューサーは午後の空き時間を待って、ゆっくりライラと話をすることに決めた。相川千夏も呼んで。
「私がいてもいいの?」
「千夏さんだからいいんですよ」
雑な理屈を振りかざしながら千夏を連れゆくプロデューサー。あきれた、と言いつつもきちんと話は聞いてくれるし、なんだかんだ受け答えに積極的だ。そういうところをプロデューサーも理解しているし、信頼があった。
改めてひとしきり話を聞いて、千夏の感想がそれだった。まさにライラはそこで引っかかっていた。コーヒーのカップがそっと置かれた。
「プロデューサーはどう思うの?」
隣を見遣る千夏。ライラの意見は確かに一理あるし、本人の思いは大切にしたいところだ。だからこそ。
「もう少しライラの言葉が聞きたい、かな」
親御さんがそれを良く思わないだろうと考えるなら、そこは相談し直す意味もあるから。そう返しつつ、反応を伺うプロデューサー。
そうでございますねー……、とライラがゆっくりと話を補足する。
父親がいつだって結果を求める人であること。そうして信頼を築いてきた人であること。故郷を離れて少なからず時間が経っていて、見せるならばやはり相応の「形」である必要が求められるように思っていることなど。言葉足らずな表現もありながら、しかしそれは偽らざる彼女の考えだった。
なるほど、と二人がそれぞれに反応する。
「ご両親のアイドルに対するイメージはどうなのかしら」
「きちんと魅力が伝わっているとは考えづらいでしょうし、微妙かもしれませんね」
ああだこうだと二人が言葉を交わす。ライラにとって二人の存在は改めて頼もしく、暖かなものとして映っている。
策を案じてくれること。最後まできちんと聞いてくれること。エトセトラ、エトセトラ。自分のためにこれだけしてくれることが嬉しくて、だからこそ、自分も向き合わなくてはならない、という気持ちがライラにもある。
ぺこり、と小さくお辞儀を一つして、彼女は再び言葉を続けた。
「ありがとうございますです。……ですが、これはわたくしの感じたことにすぎませんです。プロデューサー殿、チナツさん。どうしたらよいでしょうか、のアドバイスを頂けますか。そして、進めて頂けますか」
そう紡ぐ彼女の瞳は、複雑な気持ちを隠せずにいた。だが同時に、決意にも似た何かを帯びているようでもあった。
疑念は抱きつつも、判断できるほどの自信がない。だけど言えることを言わないのは、当事者としてどうなのか。自分のことだからこそ。そんな気持ちが綯い交ぜになっていたことがわかった。千夏にも、プロデューサーにも。
「丁寧な説明ありがとう、ライラ。しかもそこまで言えるなんて」
プロデューサーが彼女をそっと撫でた。優しい、いつもの彼の手だ。ライラはこの手がとても好きだ。
そんな二人を微笑ましく見ながら、千夏も口を開いた。
「……もう一本のライブ、いつだったかしら」
来月頭ですね、というプロデューサーの説明に、そう、ならちょうどいいかもしれないわね、と続ける千夏。
「ライラ。それまでに一つ、見せたいものがあるわ」
やっぱり納得して前に進んでほしいから。そう彼女は呟いた。どこか得意げな雰囲気を伴いつつ。
31:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2020/11/08(日) 09:23:48.80 :FQVp12gN0
* * * * *
飛行機雲の長い長い筋跡が空を真っ二つに切り裂いていた昼下がり。その線はさながら海を二分したとされる聖人の奇跡譚のよう。そんな大海原の幻視を覚えるほどに広がる快晴の空が、彼方の稜線まで続いていた。
八月某日、東京。今日の空は、きっと高い。
まだまだ夏真っ盛りなのに「残暑」とは……? などと思うライラをよそに、連日の猛暑はとどまるところを知らない様子。命綱ともいえるアイスクリームを口にしつつ、晶葉とともにアスファルトを歩き行く姿が印象的。
さりとて、いつまでもふらふらとしているわけにはいかない。
大通りの向こうに見えるホール。今日はそこで相川千夏のライブがあるのだ。
「ありがとう、来てくれて」
開演前の楽屋にご挨拶。千夏は優しい笑顔で二人を迎えてくれた。
「楽しみにしておりますですよー」
「私も誘ってくれてありがとう。しっかり応援するぞ!」
盛り上がる準備は万端、と言わんばかりの謎のユニットポーズをキメる二人。昨日練習したんだと晶葉から説明を受け、思わず吹き出す千夏。
「嬉しいわ。雰囲気的に、そういう感じかはわからないけれど……」
それはそう。なんせ今日の題目は「バラード・セレクション」なのだから。
「おー、キラキラのライトは振らないでございますか」
「あまり振らないわね、今日のようなライブでは」
「まぁなんだ、場の空気くらいは理解するつもりだから大丈夫だ」
それに、純粋に楽しみだから、と晶葉。
彼女もまた、ここ最近の成長が著しい。それは日々のアイドル活動、仲間との交流、お仕事の現場、そして趣味の研究……と刺激的な毎日を過ごしているからに他ならない。けれど一番の要素は、彼女がその全てをちゃんと楽しめているからだろう、と千夏は思っている。
晶葉自身は、やっぱり周囲の存在が大きいと感じていた。それは担当プロデューサーであり、ライラであり、そして千夏たちのことである。だからこそ、この瞬間すべてが愛おしいのだ。
「じゃあそろそろ、準備に入るから」
千夏は二人のもとを離れ、スタッフの輪の中へ。彼女の隣には資料を見せつつ説明を添えるプロデューサーの姿があった。
ライラはその姿にしばし見惚れた。そして我に帰って首を振る。
……いま、二人の何を見て「いいな」と思ったんだろう。
何かこう、大切なことが少し見えてきたような気がしたのだけど。その言語化はまだ、難しい。
* * * * *
飛行機雲の長い長い筋跡が空を真っ二つに切り裂いていた昼下がり。その線はさながら海を二分したとされる聖人の奇跡譚のよう。そんな大海原の幻視を覚えるほどに広がる快晴の空が、彼方の稜線まで続いていた。
八月某日、東京。今日の空は、きっと高い。
まだまだ夏真っ盛りなのに「残暑」とは……? などと思うライラをよそに、連日の猛暑はとどまるところを知らない様子。命綱ともいえるアイスクリームを口にしつつ、晶葉とともにアスファルトを歩き行く姿が印象的。
さりとて、いつまでもふらふらとしているわけにはいかない。
大通りの向こうに見えるホール。今日はそこで相川千夏のライブがあるのだ。
「ありがとう、来てくれて」
開演前の楽屋にご挨拶。千夏は優しい笑顔で二人を迎えてくれた。
「楽しみにしておりますですよー」
「私も誘ってくれてありがとう。しっかり応援するぞ!」
盛り上がる準備は万端、と言わんばかりの謎のユニットポーズをキメる二人。昨日練習したんだと晶葉から説明を受け、思わず吹き出す千夏。
「嬉しいわ。雰囲気的に、そういう感じかはわからないけれど……」
それはそう。なんせ今日の題目は「バラード・セレクション」なのだから。
「おー、キラキラのライトは振らないでございますか」
「あまり振らないわね、今日のようなライブでは」
「まぁなんだ、場の空気くらいは理解するつもりだから大丈夫だ」
それに、純粋に楽しみだから、と晶葉。
彼女もまた、ここ最近の成長が著しい。それは日々のアイドル活動、仲間との交流、お仕事の現場、そして趣味の研究……と刺激的な毎日を過ごしているからに他ならない。けれど一番の要素は、彼女がその全てをちゃんと楽しめているからだろう、と千夏は思っている。
晶葉自身は、やっぱり周囲の存在が大きいと感じていた。それは担当プロデューサーであり、ライラであり、そして千夏たちのことである。だからこそ、この瞬間すべてが愛おしいのだ。
「じゃあそろそろ、準備に入るから」
千夏は二人のもとを離れ、スタッフの輪の中へ。彼女の隣には資料を見せつつ説明を添えるプロデューサーの姿があった。
ライラはその姿にしばし見惚れた。そして我に帰って首を振る。
……いま、二人の何を見て「いいな」と思ったんだろう。
何かこう、大切なことが少し見えてきたような気がしたのだけど。その言語化はまだ、難しい。
32:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2020/11/08(日) 09:25:05.84 :FQVp12gN0
ライブはたおやかに、しかし確かな熱を帯びて始まった。
先日の千秋のライブとは対照的に、やや小さめのハコでのライブ。しかしここは音響的にも評判がよく、またオーディエンス全体を見渡しやすい造りであることも含め、千夏は気に入っていた。
相川千夏はここ一年ほど、己の更なる表現を求め、いろいろ新しいことに取り組んでいた。まだまだ試行錯誤だし日々勉強ばかりと彼女は語るが、その評価は少しずつ高まっている。
柔らかだけど、芯のある歌声。
千秋のような壮大で苛烈なものではなく、繊細で綺麗で、そして心が和らぐ美しさがそこにあった。
「ありがとうございます」
数曲を経て、拍手に包まれつつホールを改めて見渡す千夏。
皆の視線が暖かい。音の反響もイメージ通り。スポットライトがまぶしい。
今日も掴めている感じがした。少し安心する。
ライラと晶葉は招待席だから、あのライトの光の近くかしら。
さすがにここからでは見えないけれど、楽しんでいてくれたら嬉しい。
そんなことを思いながら、彼女は視線をゆっくりと足元にまで戻す。舞台袖にはスタッフも、そしてプロデューサーもいる。きっとしっかり見てくれているんだって信じている。でも安易にそちらを振り向くのは御法度だ。前を向いて、ファンと向き合って私はここに立つ。そうした意識を今一度、強く持って。
デビューして間もない頃にプロデューサーが何気なく述べた言葉を、千夏は今も心に留めていた。
「いつか……、シャンソン・ド・サンチマンタルとか、あるいはシャルムとか、そういうのを歌いこなす相川さんになっても、素敵かもしれませんね」
「アイドルなのに?」
「いろんな魅力があっていいと思うんですよ」
もちろんそれが全てじゃないし、今練習しているような楽曲も大切にしてほしいですけどね。雑然と語りつつも可能性を否定しない彼の節回しは、どこか心地よかった。
最近の取り組みも、今日のセットリストも、いろんな巡り合わせと努力の果てのもの。決して一つに起因することじゃないけれど。でもあの言葉は、私にとって大切なもの。それを知ってるのは私だけだけど、なんて。
少しだけ笑みをこぼしつつ、深呼吸をひとつ。マイクを寄せて、千夏は次の曲に入った。
私はここにいる。そう、噛み締めながら。
ライブはたおやかに、しかし確かな熱を帯びて始まった。
先日の千秋のライブとは対照的に、やや小さめのハコでのライブ。しかしここは音響的にも評判がよく、またオーディエンス全体を見渡しやすい造りであることも含め、千夏は気に入っていた。
相川千夏はここ一年ほど、己の更なる表現を求め、いろいろ新しいことに取り組んでいた。まだまだ試行錯誤だし日々勉強ばかりと彼女は語るが、その評価は少しずつ高まっている。
柔らかだけど、芯のある歌声。
千秋のような壮大で苛烈なものではなく、繊細で綺麗で、そして心が和らぐ美しさがそこにあった。
「ありがとうございます」
数曲を経て、拍手に包まれつつホールを改めて見渡す千夏。
皆の視線が暖かい。音の反響もイメージ通り。スポットライトがまぶしい。
今日も掴めている感じがした。少し安心する。
ライラと晶葉は招待席だから、あのライトの光の近くかしら。
さすがにここからでは見えないけれど、楽しんでいてくれたら嬉しい。
そんなことを思いながら、彼女は視線をゆっくりと足元にまで戻す。舞台袖にはスタッフも、そしてプロデューサーもいる。きっとしっかり見てくれているんだって信じている。でも安易にそちらを振り向くのは御法度だ。前を向いて、ファンと向き合って私はここに立つ。そうした意識を今一度、強く持って。
デビューして間もない頃にプロデューサーが何気なく述べた言葉を、千夏は今も心に留めていた。
「いつか……、シャンソン・ド・サンチマンタルとか、あるいはシャルムとか、そういうのを歌いこなす相川さんになっても、素敵かもしれませんね」
「アイドルなのに?」
「いろんな魅力があっていいと思うんですよ」
もちろんそれが全てじゃないし、今練習しているような楽曲も大切にしてほしいですけどね。雑然と語りつつも可能性を否定しない彼の節回しは、どこか心地よかった。
最近の取り組みも、今日のセットリストも、いろんな巡り合わせと努力の果てのもの。決して一つに起因することじゃないけれど。でもあの言葉は、私にとって大切なもの。それを知ってるのは私だけだけど、なんて。
少しだけ笑みをこぼしつつ、深呼吸をひとつ。マイクを寄せて、千夏は次の曲に入った。
私はここにいる。そう、噛み締めながら。
33:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2020/11/08(日) 09:25:40.31 :FQVp12gN0
「少しだけ、お話をさせてください」
ライブ終盤、曲間に千夏が珍しく尺を取って語りを始めた。
最近の身の回りのこと、環境の変化、変わらずいてくれる人の存在。慕ってくれる後輩のこと。
手応えがあるのはやはり嬉しいという。ファンからのレスポンス、スタッフやバックバンドからの評価。巷での知名度。そして新たなお仕事の需要の声。それは絶えず新たな取り組みや挑戦をしているからこそ、尚更感じることであると。
「様々なことに挑戦させて頂いて。興味あることを追求させて頂いて。それに少なからず評価や反応を頂けて。私は恵まれているな、と感じることが多いです。本当にありがとうございます」
裏ではいつもヘトヘトだし、歯を食いしばって練習をしているし、汗も涙もいっぱいなんですけど。そう言って苦笑いを見せる。会場が柔らかな空気に包まれていた。千夏がこうした「イメージの裏側」にも通じるところを話すことは珍しい。ましてファンの前で。
「たまにはいいかな、なんて」
うまくいかないことも込みで、私は今を、そして自分を肯定したい。そしてできるなら、もっともっと進んでいきたいから。そう話す彼女。
「眠い朝も憂鬱な夜も、きっと誰にだってあるから」
小さな声でC'est la vie. と続けた。それが人生だから、と。
「そういう私も含め……好いてもらえたら。そして、歌をまた聴いてくださったら嬉しいです♪」
ふっと視線を逸らし、照れを隠しながら一礼する千夏。そんな姿にファンから歓声があがる。
らしくない物言いだった。でもそれだけ、その言葉を介してでも伝えたいメッセージがあったんだ、とライラは感じた。そしてそれは紛れもなく、アイドル相川千夏の真価そのものでもあったのだと。
「……きっと、相川千夏という物語があるってことなんだな」
隣にいた晶葉がぼそり、とつぶやいた。千夏という物語。その存在すべてが彼女を彩るものだと。だからこそ普段見えないことも語る意味があると。だからこそ今のMCがあったのだと。
最後の曲もしとやかに、美しく歌いあげられた。
ライラは聴き入っていた。千夏の綴るそのすべてが、ライラにも返ってくる言葉のようだったから。ずっとお世話になっていて、慕っていて、頼もしく思っている存在の彼女。そんな彼女から、あたかもメッセージを贈られているようで。
示さなくてはいけない、わけではない。
けれど、示すからこそ理解してもらえたり、愛してもらえたりすることもあるのだ、と。
エージェントとの打ち合わせを思い出すライラ。
ステージだけでなく、舞台裏や日々の様子も見せる話。仮に実現したとして、自身の姿は、努力は、立ち振る舞いは、はたして認めてもらえるだろうか。そんなことをずっと考えていた。あたかも今の自分の肯定否定のように。その如何はわからない。
けれど、故郷を離れたこと。今こうして生きていること。数奇な出会いや人生があったこと。それは厳然たる事実として「なくなったり」はしないのだ。たとえこの先、故郷に帰ることになったとしても、あるいはこのままここで生きるのだとしても。いずれにしても、自分の歴史はなかったことにはならないのだ。
アイドルとしてのライラを示すこと。
それは今ここで生きる自分を語ることでもあるのだ。
「少しだけ、お話をさせてください」
ライブ終盤、曲間に千夏が珍しく尺を取って語りを始めた。
最近の身の回りのこと、環境の変化、変わらずいてくれる人の存在。慕ってくれる後輩のこと。
手応えがあるのはやはり嬉しいという。ファンからのレスポンス、スタッフやバックバンドからの評価。巷での知名度。そして新たなお仕事の需要の声。それは絶えず新たな取り組みや挑戦をしているからこそ、尚更感じることであると。
「様々なことに挑戦させて頂いて。興味あることを追求させて頂いて。それに少なからず評価や反応を頂けて。私は恵まれているな、と感じることが多いです。本当にありがとうございます」
裏ではいつもヘトヘトだし、歯を食いしばって練習をしているし、汗も涙もいっぱいなんですけど。そう言って苦笑いを見せる。会場が柔らかな空気に包まれていた。千夏がこうした「イメージの裏側」にも通じるところを話すことは珍しい。ましてファンの前で。
「たまにはいいかな、なんて」
うまくいかないことも込みで、私は今を、そして自分を肯定したい。そしてできるなら、もっともっと進んでいきたいから。そう話す彼女。
「眠い朝も憂鬱な夜も、きっと誰にだってあるから」
小さな声でC'est la vie. と続けた。それが人生だから、と。
「そういう私も含め……好いてもらえたら。そして、歌をまた聴いてくださったら嬉しいです♪」
ふっと視線を逸らし、照れを隠しながら一礼する千夏。そんな姿にファンから歓声があがる。
らしくない物言いだった。でもそれだけ、その言葉を介してでも伝えたいメッセージがあったんだ、とライラは感じた。そしてそれは紛れもなく、アイドル相川千夏の真価そのものでもあったのだと。
「……きっと、相川千夏という物語があるってことなんだな」
隣にいた晶葉がぼそり、とつぶやいた。千夏という物語。その存在すべてが彼女を彩るものだと。だからこそ普段見えないことも語る意味があると。だからこそ今のMCがあったのだと。
最後の曲もしとやかに、美しく歌いあげられた。
ライラは聴き入っていた。千夏の綴るそのすべてが、ライラにも返ってくる言葉のようだったから。ずっとお世話になっていて、慕っていて、頼もしく思っている存在の彼女。そんな彼女から、あたかもメッセージを贈られているようで。
示さなくてはいけない、わけではない。
けれど、示すからこそ理解してもらえたり、愛してもらえたりすることもあるのだ、と。
エージェントとの打ち合わせを思い出すライラ。
ステージだけでなく、舞台裏や日々の様子も見せる話。仮に実現したとして、自身の姿は、努力は、立ち振る舞いは、はたして認めてもらえるだろうか。そんなことをずっと考えていた。あたかも今の自分の肯定否定のように。その如何はわからない。
けれど、故郷を離れたこと。今こうして生きていること。数奇な出会いや人生があったこと。それは厳然たる事実として「なくなったり」はしないのだ。たとえこの先、故郷に帰ることになったとしても、あるいはこのままここで生きるのだとしても。いずれにしても、自分の歴史はなかったことにはならないのだ。
アイドルとしてのライラを示すこと。
それは今ここで生きる自分を語ることでもあるのだ。
34:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2020/11/08(日) 09:26:14.66 :FQVp12gN0
「すごかったな」
「本当ですねー」
夕方の駅前。ライブを終えて帰路につく二人。
千夏に声を掛けたかったものの、閉幕後の慌ただしさの中でうまく話すチャンスがなかった。また後日改めて気持ちをちゃんと返そう。いつもにも増して、たくさん頂いたから。そう思いながらライラは晶葉とともに歩いていた。今日の演目の感想を述べ合いつつ。
「……ところで、ライラ」
「? はいです」
晶葉がもどかしそうにしながら視線を寄せる。
「身内のことは……大丈夫なのか?」
心配そうに、そして戸惑いつつ問いかける晶葉。いつになく、そっと触れるような語りだった。
「や、聞くべきことでないなら、言わなくていいんだがな」
「あーいえ、そんなことはないですよ」
ただそちらはまだまだですけれど、とライラは笑ってみせた。
「そう……そうか」
歯切れが悪かった。
ライラが何かお家のことでバタバタしている、故国からエージェントが来た、ということは晶葉の耳にも入っていた。ただ具体的なことには一切絡めていないし、それゆえに気安く触れていいものなのかわからなかったから。
センシティブなことでもあるからな……と気づかう彼女は歳よりも大人びた聡明な女性だった。
本当はもっと関わりたい気持ちもあった。それは正義感でも好奇心でもなく、ただ純粋に友達だから。本音を言えば、たくさんの人と関わって成長するライラを見るうち、自分もその一端でありたいなと思うようにもなっていた。けれど、余計なことを述べるのは違う。船頭多くして船山に登る。見守ることだって大切だ。およそ十四歳らしからぬ利発さを伺わせる晶葉だが、それゆえに迷うことだって戸惑うことだって、損をすることだってある。
「軽はずみに立ち入らないようにはするけど、……聞いていいことなら聞くから、なんでも話してくれよ」
友達だからな、と晶葉。
どこか不器用な彼女らしい、だけど愛に溢れた言葉だった。
ありがとうございますですよ、としっかり礼を述べるライラ。
みんな優しくて、暖かくて、そして素敵で。
自分は今ここにいる。みんなと共に。改めてそう感じながら。
素敵で、綺麗で、眩しい日々。
素敵な仲間。お慕いする人。
そこで生きるわたくし。
今自分に必要なのは、それをきちんと認識して、言葉にすることなのだ。
そんな考えを噛み締めながら、電車に揺られた。
駅を降りたところで晶葉と別れ、ひとり家路につく。千夏の歌声を思い出しながら。言葉を思い返しながら。そして、今日という日の素敵を噛み締めながら。
ふいに物陰から声を掛けられた。ちょうどアパートが見えてきた頃だった。
「すごかったな」
「本当ですねー」
夕方の駅前。ライブを終えて帰路につく二人。
千夏に声を掛けたかったものの、閉幕後の慌ただしさの中でうまく話すチャンスがなかった。また後日改めて気持ちをちゃんと返そう。いつもにも増して、たくさん頂いたから。そう思いながらライラは晶葉とともに歩いていた。今日の演目の感想を述べ合いつつ。
「……ところで、ライラ」
「? はいです」
晶葉がもどかしそうにしながら視線を寄せる。
「身内のことは……大丈夫なのか?」
心配そうに、そして戸惑いつつ問いかける晶葉。いつになく、そっと触れるような語りだった。
「や、聞くべきことでないなら、言わなくていいんだがな」
「あーいえ、そんなことはないですよ」
ただそちらはまだまだですけれど、とライラは笑ってみせた。
「そう……そうか」
歯切れが悪かった。
ライラが何かお家のことでバタバタしている、故国からエージェントが来た、ということは晶葉の耳にも入っていた。ただ具体的なことには一切絡めていないし、それゆえに気安く触れていいものなのかわからなかったから。
センシティブなことでもあるからな……と気づかう彼女は歳よりも大人びた聡明な女性だった。
本当はもっと関わりたい気持ちもあった。それは正義感でも好奇心でもなく、ただ純粋に友達だから。本音を言えば、たくさんの人と関わって成長するライラを見るうち、自分もその一端でありたいなと思うようにもなっていた。けれど、余計なことを述べるのは違う。船頭多くして船山に登る。見守ることだって大切だ。およそ十四歳らしからぬ利発さを伺わせる晶葉だが、それゆえに迷うことだって戸惑うことだって、損をすることだってある。
「軽はずみに立ち入らないようにはするけど、……聞いていいことなら聞くから、なんでも話してくれよ」
友達だからな、と晶葉。
どこか不器用な彼女らしい、だけど愛に溢れた言葉だった。
ありがとうございますですよ、としっかり礼を述べるライラ。
みんな優しくて、暖かくて、そして素敵で。
自分は今ここにいる。みんなと共に。改めてそう感じながら。
素敵で、綺麗で、眩しい日々。
素敵な仲間。お慕いする人。
そこで生きるわたくし。
今自分に必要なのは、それをきちんと認識して、言葉にすることなのだ。
そんな考えを噛み締めながら、電車に揺られた。
駅を降りたところで晶葉と別れ、ひとり家路につく。千夏の歌声を思い出しながら。言葉を思い返しながら。そして、今日という日の素敵を噛み締めながら。
ふいに物陰から声を掛けられた。ちょうどアパートが見えてきた頃だった。
35:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2020/11/08(日) 09:28:25.12 :FQVp12gN0
Ⅵ イッツ・ソー・イージー
世界はいつだって美しくて雄大で、汚くて儚くて、そしてやっぱり素晴らしい。
(ヘレン/アイドル)
「夜分に失礼致します」
声の主はエージェントだった。まだ日が落ちてほどなくとはいえ、あまり人通りの多くない路地裏である。不審者でないことを示すためか、街灯の下で表情を見せようとする彼。
「おお、こんばんはでございますね」
ペコリと一礼。
ライラの中で彼を警戒する気持ちがなくなったわけではない。それでも、協力的な姿に対し幾らか信頼を置くようになっていた。もっとも、状況どうあれ挨拶はきちんとするのが彼女だし、それがらしさでもあったのだけど。
「少しお話をできればと思いまして。僭越ながらここで待たせて頂きました」
ちょうど自身も、故郷への発信についていろいろ思っていたところだった。わたくしも、と言いかけたが、プロデューサーたちのいないところで彼と接触するのがいいのかなという気持ちもよぎり、言葉をためらった。そんな空気を察してか、手短に済ませますから、とエージェント。ライラ様のお気持ちを今一度伺わせて頂きたくて、と。
「気持ち、でございますか」
「はい」
そうして、端的に質問を寄越した。
「ライラ様ご自身は、いつか故郷に帰るおつもりでいらっしゃいますか」
それと、帰りたいと思っていらっしゃいますか、と。
宵の刻、家からほどなくの距離にある小さな公園は、昼間とは違う佇まいを見せてくれる。夕焼けとともに長く伸びる影がいつもなら帰宅の合図で、この時間帯にここにいるのは珍しい。少し赤みがかった月がきらめくその下で、そっとブランコに腰を降ろしていた。すぐそばで話に応じるエージェント。
彼は本当に長話をするつもりはなかったようで、先の質問にしても答えは後日で構わないと言った。ただ、考えるようにしておいてほしいと。しかしライラが彼を呼び止めた。
《何か状況に変化がございましたか》
いえ、あいにく何も、と彼。
《国の方で動きがあればそれはもちろんご報告しますが……当面はないと見ていいでしょう。そこは安心してください。それよりも大切なのはライラ様が、そしてこちらの皆様が、どう動かれるかですよ。だから質問に来たのです》
そうして、先の問いかけに戻った。
《こちらの皆様としてはライラ様が急に国に帰られるのは望ましくないでしょう。しかし故国にはやっぱり戻ってきてほしいと願う方も少なくない》
そっとうなずくライラ。意味はわかる。
《一方でライラ様の気持ちを汲み、連れ戻すべきではないと思っている方は故国にもいるでしょう。あるいはもっと泥臭い諸般の事情込みで、戻られるのを望んでいない者もいるかもしれません》
ぐっ、と飲み込むように受け止めたライラ。それはそうだ。こんなドタバタをやって迷惑をかけている自分を快く思わない者も少なくないハズだ。いっそ、いなければいいのにと思う者もいるかもしれない。それは自身の立ち回りによるところもあれば、社会的な地位や権利に伴うことだってあるかもしれない。父くらいの権力者の周りとあれば、それは不思議ではない。ひょっとしたら、結婚の話を進められていた相手やその親族方とかも、今となってはそうかもしれない ―― などと。真相はわからないけれど。
《人間関係とは悲喜交々、いろいろあります。よい関係ばかりではないでしょう。それは日本でも、そしてドバイでもそうです。だからどちらが、ということはありません。そのうえでもう一度、よく考えてください。ライラ様、あなたは故郷に帰りたい気持ちはございますか。あるいは、帰らざるをえないものだと思っていらっしゃいますか》
《……わたくしは》
わたくしは、帰るわけにはいきません。少なくとも今は。ライラはそっと、しかし確かにそう答えた。
《それはなぜですか?》
《わたくしは、……わたくしはこちらでたくさんの方にお世話になりました。たくさんのことを教えて頂きました。今もそうです。わたくしはそんな毎日が好きですし、宝物ですし、……そしてみなさまにまだ、恩返しが何もできていません》
それはほんの少しの語りにすぎない。だがライラにとっては、自分の気持ちをきちんと述べることができたという喜びがあった。
だが。
《ふむ。少し残念な答えですね》
エージェントかの望むところには届かなかったようだ。
《……それはなぜですか》
《恩返し。素敵な言葉ですね。ですがそれを言うなら、故郷の皆様の中にだって恩返しすべき方はいらっしゃるでしょう。……義務感のように恩返しなどと語るのはあまり好ましくありません》
使命から逃れこの東洋に来て、そしてここでまた新たな使命感に囚われるがゆえに離れ得ないというのならば、それはあまりに残念な返答ですと。
それは端的で、そして核心を突いた説明だった。
《もっとライラ様の言葉を聞かせてください》
うつむくライラ。うまく話せたと思ったのだけど、まだまだ自分は未熟だ。
Ⅵ イッツ・ソー・イージー
世界はいつだって美しくて雄大で、汚くて儚くて、そしてやっぱり素晴らしい。
(ヘレン/アイドル)
「夜分に失礼致します」
声の主はエージェントだった。まだ日が落ちてほどなくとはいえ、あまり人通りの多くない路地裏である。不審者でないことを示すためか、街灯の下で表情を見せようとする彼。
「おお、こんばんはでございますね」
ペコリと一礼。
ライラの中で彼を警戒する気持ちがなくなったわけではない。それでも、協力的な姿に対し幾らか信頼を置くようになっていた。もっとも、状況どうあれ挨拶はきちんとするのが彼女だし、それがらしさでもあったのだけど。
「少しお話をできればと思いまして。僭越ながらここで待たせて頂きました」
ちょうど自身も、故郷への発信についていろいろ思っていたところだった。わたくしも、と言いかけたが、プロデューサーたちのいないところで彼と接触するのがいいのかなという気持ちもよぎり、言葉をためらった。そんな空気を察してか、手短に済ませますから、とエージェント。ライラ様のお気持ちを今一度伺わせて頂きたくて、と。
「気持ち、でございますか」
「はい」
そうして、端的に質問を寄越した。
「ライラ様ご自身は、いつか故郷に帰るおつもりでいらっしゃいますか」
それと、帰りたいと思っていらっしゃいますか、と。
宵の刻、家からほどなくの距離にある小さな公園は、昼間とは違う佇まいを見せてくれる。夕焼けとともに長く伸びる影がいつもなら帰宅の合図で、この時間帯にここにいるのは珍しい。少し赤みがかった月がきらめくその下で、そっとブランコに腰を降ろしていた。すぐそばで話に応じるエージェント。
彼は本当に長話をするつもりはなかったようで、先の質問にしても答えは後日で構わないと言った。ただ、考えるようにしておいてほしいと。しかしライラが彼を呼び止めた。
《何か状況に変化がございましたか》
いえ、あいにく何も、と彼。
《国の方で動きがあればそれはもちろんご報告しますが……当面はないと見ていいでしょう。そこは安心してください。それよりも大切なのはライラ様が、そしてこちらの皆様が、どう動かれるかですよ。だから質問に来たのです》
そうして、先の問いかけに戻った。
《こちらの皆様としてはライラ様が急に国に帰られるのは望ましくないでしょう。しかし故国にはやっぱり戻ってきてほしいと願う方も少なくない》
そっとうなずくライラ。意味はわかる。
《一方でライラ様の気持ちを汲み、連れ戻すべきではないと思っている方は故国にもいるでしょう。あるいはもっと泥臭い諸般の事情込みで、戻られるのを望んでいない者もいるかもしれません》
ぐっ、と飲み込むように受け止めたライラ。それはそうだ。こんなドタバタをやって迷惑をかけている自分を快く思わない者も少なくないハズだ。いっそ、いなければいいのにと思う者もいるかもしれない。それは自身の立ち回りによるところもあれば、社会的な地位や権利に伴うことだってあるかもしれない。父くらいの権力者の周りとあれば、それは不思議ではない。ひょっとしたら、結婚の話を進められていた相手やその親族方とかも、今となってはそうかもしれない ―― などと。真相はわからないけれど。
《人間関係とは悲喜交々、いろいろあります。よい関係ばかりではないでしょう。それは日本でも、そしてドバイでもそうです。だからどちらが、ということはありません。そのうえでもう一度、よく考えてください。ライラ様、あなたは故郷に帰りたい気持ちはございますか。あるいは、帰らざるをえないものだと思っていらっしゃいますか》
《……わたくしは》
わたくしは、帰るわけにはいきません。少なくとも今は。ライラはそっと、しかし確かにそう答えた。
《それはなぜですか?》
《わたくしは、……わたくしはこちらでたくさんの方にお世話になりました。たくさんのことを教えて頂きました。今もそうです。わたくしはそんな毎日が好きですし、宝物ですし、……そしてみなさまにまだ、恩返しが何もできていません》
それはほんの少しの語りにすぎない。だがライラにとっては、自分の気持ちをきちんと述べることができたという喜びがあった。
だが。
《ふむ。少し残念な答えですね》
エージェントかの望むところには届かなかったようだ。
《……それはなぜですか》
《恩返し。素敵な言葉ですね。ですがそれを言うなら、故郷の皆様の中にだって恩返しすべき方はいらっしゃるでしょう。……義務感のように恩返しなどと語るのはあまり好ましくありません》
使命から逃れこの東洋に来て、そしてここでまた新たな使命感に囚われるがゆえに離れ得ないというのならば、それはあまりに残念な返答ですと。
それは端的で、そして核心を突いた説明だった。
《もっとライラ様の言葉を聞かせてください》
うつむくライラ。うまく話せたと思ったのだけど、まだまだ自分は未熟だ。
36:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2020/11/08(日) 09:29:11.65 :FQVp12gN0
《そこまでにしなさい》
背後から見知った声が割り入ってきた。冷静に、しかし多分に怒気をはらんだ声。メイドだった。
《私や事務所のプロデューサー様を介さず、しかもこんな夜に。ライラ様ご本人に直接アプローチするとは随分と礼儀知らずになったものですね》
《それも必要なことでしたので》
意に介す様子もないエージェント。お世辞にも話が通じる空気ではない。
《私はこれで失礼します。ライラ様、よくお考えになってください。そしてまた、皆様揃ってのところでお話を》
エージェントは一礼をしてその場をあとにした。その姿を苦々しく睨み付けていたメイドだったが我に帰り、ライラを気づかった。
「申し訳ありません、到着に時間がかかりました」
「いえ、大丈夫でございますよー。それに」
特に何かあったわけではございませんですから。ライラはそう説明した。
「……どんな話をしていたか、お伺いしてもよろしいですか」
「はいです。それはお家に戻ってゆっくり」
心配を隠せないメイドに笑みを返す。偽らざる本音だ。そして、話せることはきちんと話しておいた方がいい。プロデューサーたちにも明日報告しよう。
「わたくしの言葉、とは。どういう意味でございますかね」
「……?」
ぼんやりと仰ぎ見る月はまだ大きかった。存在が大きい、というのはすごいことだなとライラは考えていた。
エージェントもメイドも、千夏もプロデューサーも、みんな大人だ。思うところがあれば早速行動に移せたり、連絡がなくとも即座に駆けつけたり。自身の披露の場で伝えたいことを伝えたり、仕事の領域を越えて親身になってくれたり。
それは皆とてもすごいことだし、大人だし、人として素敵なんだろうな、とライラは感じていた。
「大人になるということは尊いでございますね」
「……ライラ様?」
立派な人にはなれなくてもよい。けれど、向き合える大人には早くなりたい。そう思った。
「エージェント夜を往く、なんてダジャレにしてもひどい」
翌日昼。柄にもなく不満げな様子を隠さない千夏が印象的だった。
ライラは昨日あったことをプロデューサーと相川千夏に説明した。あのエージェントはまだ信用ならないところがあるかも、と千夏が苦い表情を見せた。ひとえにそれはライラを想ってのことなのだけど。
「まあ、初めて来た時だって突然だったし……」
プロデューサーは意外にも冷静だった。もちろん昨日の行動含め、共有させて貰いたかったところだけど、と言葉を継ぎつつ。
「どうするの、今後」
「……もう一度、話す場を設けようと思う」
ただしそれは、こちらも段取りがある程度できてからがいい。千夏の問いかけに彼はそう語った。何か、思うところがありそう。それは千夏にも、そしてそばにいたライラにも感じられることだった。
「ライラ」
彼が改めて視線を寄越す。
「は、はいです」
「時間を作ろう。準備するよ、次のライブの」
《そこまでにしなさい》
背後から見知った声が割り入ってきた。冷静に、しかし多分に怒気をはらんだ声。メイドだった。
《私や事務所のプロデューサー様を介さず、しかもこんな夜に。ライラ様ご本人に直接アプローチするとは随分と礼儀知らずになったものですね》
《それも必要なことでしたので》
意に介す様子もないエージェント。お世辞にも話が通じる空気ではない。
《私はこれで失礼します。ライラ様、よくお考えになってください。そしてまた、皆様揃ってのところでお話を》
エージェントは一礼をしてその場をあとにした。その姿を苦々しく睨み付けていたメイドだったが我に帰り、ライラを気づかった。
「申し訳ありません、到着に時間がかかりました」
「いえ、大丈夫でございますよー。それに」
特に何かあったわけではございませんですから。ライラはそう説明した。
「……どんな話をしていたか、お伺いしてもよろしいですか」
「はいです。それはお家に戻ってゆっくり」
心配を隠せないメイドに笑みを返す。偽らざる本音だ。そして、話せることはきちんと話しておいた方がいい。プロデューサーたちにも明日報告しよう。
「わたくしの言葉、とは。どういう意味でございますかね」
「……?」
ぼんやりと仰ぎ見る月はまだ大きかった。存在が大きい、というのはすごいことだなとライラは考えていた。
エージェントもメイドも、千夏もプロデューサーも、みんな大人だ。思うところがあれば早速行動に移せたり、連絡がなくとも即座に駆けつけたり。自身の披露の場で伝えたいことを伝えたり、仕事の領域を越えて親身になってくれたり。
それは皆とてもすごいことだし、大人だし、人として素敵なんだろうな、とライラは感じていた。
「大人になるということは尊いでございますね」
「……ライラ様?」
立派な人にはなれなくてもよい。けれど、向き合える大人には早くなりたい。そう思った。
「エージェント夜を往く、なんてダジャレにしてもひどい」
翌日昼。柄にもなく不満げな様子を隠さない千夏が印象的だった。
ライラは昨日あったことをプロデューサーと相川千夏に説明した。あのエージェントはまだ信用ならないところがあるかも、と千夏が苦い表情を見せた。ひとえにそれはライラを想ってのことなのだけど。
「まあ、初めて来た時だって突然だったし……」
プロデューサーは意外にも冷静だった。もちろん昨日の行動含め、共有させて貰いたかったところだけど、と言葉を継ぎつつ。
「どうするの、今後」
「……もう一度、話す場を設けようと思う」
ただしそれは、こちらも段取りがある程度できてからがいい。千夏の問いかけに彼はそう語った。何か、思うところがありそう。それは千夏にも、そしてそばにいたライラにも感じられることだった。
「ライラ」
彼が改めて視線を寄越す。
「は、はいです」
「時間を作ろう。準備するよ、次のライブの」
37:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2020/11/08(日) 09:29:50.98 :FQVp12gN0
* * * * *
「アピール、でございますか」
「そう」
翌日のレッスン後、改めて机を囲む二人。話題は当然ライブのことだ。ただ今度のものは直近の二回とは少し異なる、というプロデューサーの説明から始まった。
幾つかポイントはあるけれど、何より大きいのは全体演目終了後のこと。ここで参加メンバーの各人の時間にも尺が取れるとのことで、皆それぞれ二、三分程度の自己アピールを考えておくように、とのことだった。
事務所主催によるライブ。大きな別イベントに沿っているわけでもなく、また別事務所と一緒でもないので、プログラムの構成にある程度融通が利く。だからこそ、事務所としては若手アイドルを宣伝するチャンスにしたいし、各人としても売り出しどころといえる。
別に名乗るだけでも、軽く身の上を語ってみるだけでもいい。でもアピールできることがあればしたほうがいいし、少しでもファンの印象に残してほしい。だからみんな少し考えてほしい、とのことだ。もちろん設営の時間はないし、その場ですぐできることに限るけれど。
「やっぱり何か、ご披露したほうがよろしいですかねー」
「無理にとは言わないけど、でも」
やっぱりせっかくのチャンスだし、ライラさんですと言うだけなのはもったいないと思うよ、とプロデューサーは説明した。それはそうだろう。彼女メインのライブではないとはいえ、ライラももう少なからず知名度はあるし、ファンだってついている。彼女に期待して来ているファンだっているかもしれないのだ。それに、そうでない人にも知ってもらえる機会でもある。
「ダンスや歌をしてみせる人、特技を披露する人、ちょっとクセのあるキャラを出す人とか、いろいろ考えられるね」
「でもライラさん、特にみなさんに披露できるスゴ技は持っておりませんですねー」
「まぁ、あまり堅く考えなくていいよ。せっかくだし何かやりたいこと、披露したいことはないかというのを考えていこう。まだ時間はあるから」
とはいえ期日は迫っている。何がいいだろう。ライラもしばし考えを広げてみたが、結局その場では浮かばなかった。
「考えておきますです」
* * * * *
「アピール、でございますか」
「そう」
翌日のレッスン後、改めて机を囲む二人。話題は当然ライブのことだ。ただ今度のものは直近の二回とは少し異なる、というプロデューサーの説明から始まった。
幾つかポイントはあるけれど、何より大きいのは全体演目終了後のこと。ここで参加メンバーの各人の時間にも尺が取れるとのことで、皆それぞれ二、三分程度の自己アピールを考えておくように、とのことだった。
事務所主催によるライブ。大きな別イベントに沿っているわけでもなく、また別事務所と一緒でもないので、プログラムの構成にある程度融通が利く。だからこそ、事務所としては若手アイドルを宣伝するチャンスにしたいし、各人としても売り出しどころといえる。
別に名乗るだけでも、軽く身の上を語ってみるだけでもいい。でもアピールできることがあればしたほうがいいし、少しでもファンの印象に残してほしい。だからみんな少し考えてほしい、とのことだ。もちろん設営の時間はないし、その場ですぐできることに限るけれど。
「やっぱり何か、ご披露したほうがよろしいですかねー」
「無理にとは言わないけど、でも」
やっぱりせっかくのチャンスだし、ライラさんですと言うだけなのはもったいないと思うよ、とプロデューサーは説明した。それはそうだろう。彼女メインのライブではないとはいえ、ライラももう少なからず知名度はあるし、ファンだってついている。彼女に期待して来ているファンだっているかもしれないのだ。それに、そうでない人にも知ってもらえる機会でもある。
「ダンスや歌をしてみせる人、特技を披露する人、ちょっとクセのあるキャラを出す人とか、いろいろ考えられるね」
「でもライラさん、特にみなさんに披露できるスゴ技は持っておりませんですねー」
「まぁ、あまり堅く考えなくていいよ。せっかくだし何かやりたいこと、披露したいことはないかというのを考えていこう。まだ時間はあるから」
とはいえ期日は迫っている。何がいいだろう。ライラもしばし考えを広げてみたが、結局その場では浮かばなかった。
「考えておきますです」
38:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2020/11/08(日) 09:30:45.67 :FQVp12gN0
「♪ ♪ ♪」
「はいっ、オッケーです。とても綺麗ですよ。今の感覚を大切にしてください!」
「はいです。ありがとうございますです」
ようやくライラに笑みがこぼれる。ライブ曲に集中的に取り組んでいるここ最近。ようやく光明が差したようだった。
「このへんの音、地の声そのままは厳しそうですかね?」
そう指摘を受けたのは数日前だった。何度か繰り返す中で、曲の一番高い音をしっかり出し切れず、変なところで息継ぎをしてしまったり、そこだけか細い声になってしまったりを繰り返していたことがやはり引っかかっていたのだ。トレーナーも、彼女自身も。
今日もいろいろ試行錯誤していたところで、「もっと全体的に柔らかい歌い方をしてみましょうか」とトレーナーから指示をもらった。他の出演予定のメンバーのように、明るくて快活で、ダンスに負けない元気な声を出さなくては、と頑張っていたところだったのだけど、その意識が却ってぎこちなさに繋がっていたのかもしれない。
「曲の頭からもう一度、言葉を噛み締めるように、そっと触れるように。丁寧に、そして滑らかに」
無理に声を張ろうとしないで。それよりも音をしっかり取ることを大切に。トレーナーのアドバイスを噛み締めつつ、もう一度歌い方を改めて、声を綴る。
「♪ ♪ ♪ 〜 ♪ ♪」
「あ、いいですね。もう少し繰り返してみましょう」
他にも取り組みたいことはあったけれど、トレーナーの英断もあって今日はここに費やすことになった。今日のうちに掴んでしまいたいと感じていたライラにとっても、大切な時間だった。
「お疲れ様。とっても綺麗だし、素敵だったよ」
休憩時、ドリンクを渡されるとともにプロデューサーから言葉をもらう。今日は冒頭から見学してくれている彼。歌い方を変えてみるという件も即座に把握してくれたし、肯定をくれた。
それと、時々カメラを回していたのを知っている。
以前から話していたとおり、やはりいろんな姿を記録として残して、それを示していこうということになった。練習風景にカメラが入ること自体は珍しくないものの、ライラは初めてのことだった。なるべく自然体で、と言われたけれども、やっぱり気にしてしまうもの。できるならうまく映りたいな、という意識も出てしまう。そんな中での今日の歌声のこと。内心焦りもあったライラだけれど、プロデューサーは優しい笑顔でこちらを見てくれていた。
ひとまず及第点にまでは至ったようで、胸を撫で下ろすライラ。
うまく決まるとライラさんの綺麗な声がしっかりと映えますよ。発見ですね、と笑みを見せるトレーナー。暖かな空気。
そうだといいな。いや、そういうもの、かもしれないけれど。
「あの、他のみなさんに比べてライラさんの声はやっぱり弱いかもなのですが、それは大丈夫でございますか?」
カメラを向けられていないタイミングを確認したうえで、少しだけよぎった不安をそっと言葉にしてみるライラ。
自分だけうまくいかないのは申し訳ないし、できることなら頑張って合わせられるようにした方がいいのでは……。そんな話を切り出すライラを、トレーナーは制止した。
「弱いということはないですよ。ライラさんはもともと通る声ですし、歌い方を変えただけです。届かないなんてことはありませんから」
「……ありがとうございますですよ。ちょっとだけ、安心しましたです」
深呼吸をひとつ。
「歌声だって大切な個性ですよ。アイドルに求められるのは、教科書の通りに歌いきることばかりではありません」
人とのちがいは、必ずしも技術差ということにはならないですから。トレーナーは話を続けた。
「たとえば黒川さんや西川さんなら、もっと高いキーでも地声でのびやかに歌いこなすかもしれません。私もそう促したと思います。でも相川さんならちがうでしょう。東郷さんや伊集院さんもそうかもしれません」
ライラの記憶に千夏のこの間のライブが蘇る。繊細で、綺麗で。だけど力強さも確かにあった。ああいう歌い方もあるのだ。
「ライラにはライラの魅力があるからね」
彼女の言葉に続けるように、プロデューサーも言葉を紡ぐ。
「それは立ち振る舞いにも、ダンスにも、歌声にも。もちろん周囲と合わせるべきときもあるけど……今は、らしさも大切にしていってほしい」
視線が重なる。
一息おいて、はいですと快活に返すライラ。己の未熟さのようなものをまた実感し反芻しそうなところだったのだけど、今日はそうはならなかった。
「まだまだ繰り返しますよ。今日のうちに身体に染み込ませていきましょう♪」
そう意気込む青木トレーナーの言葉は、どこか心地よかった。
「形になってきてるね。すごく素敵だよ」
「ありがとうございますですよー。えへへ、嬉しいです♪」
同日お昼。事務所の休憩スペースで、プロデューサーと一緒にお弁当を食べつつ打ち合わせのライラ。打ち合わせと言っても、二人でライブに向けてあれやこれやと話す程度なのだけど。
「メインの流れはこの調子なら問題ないと思う。コツコツ繰り返して精度をあげるだけだね。予定表確認しながら、僕もなるべく見学に行けるようにはするからね」
あとはアピールタイムの件かな、とプロデューサー。二人でいくつか案を出しつつ、でもまだ絞れていない状態だった。
「……ライラさん、すこし考えていることがあるのですが」
「うん」
相槌を打ちつつも決して急がせない彼。とはいえ、その「考えていること」に対する期待は少なくない。
「明日か明後日、またお昼こうして一緒に食べられると思うんだけど、ライラはどう?」
「あ、はいです。大丈夫でございますよー」
「じゃあその時にでも、また話してほしいな」
待つのは大丈夫だけど、そうはいっても、日は少しずつ近づいている。いつまでも、とはいかない。
「わかりましたです」
きちんと伝えられるだろうか。わからない。でもきちんと向き合って、きちんと何かを発することは、大人の証だ。
「トレーナーさんからも気づかうメッセージは来ているけど、心配はいらない。少しずつ、ね」
「そうなのですね」
「いつだってマメだし、気配りのできる人だからね」
心配性なだけかもしれないけど、と補足する彼。笑い合う。
まるで関係ないことではあるけど、そうした信頼あるやりとりを普段からしている二人、という事実が少しうらやましいような、そんな気持ちを覚えていたライラ。
「……プロデューサー殿、優しいですからね」
「ん?」
「ふふ、なんでもないですよー」
わたくしもそうならよいですね、なんて。
「♪ ♪ ♪」
「はいっ、オッケーです。とても綺麗ですよ。今の感覚を大切にしてください!」
「はいです。ありがとうございますです」
ようやくライラに笑みがこぼれる。ライブ曲に集中的に取り組んでいるここ最近。ようやく光明が差したようだった。
「このへんの音、地の声そのままは厳しそうですかね?」
そう指摘を受けたのは数日前だった。何度か繰り返す中で、曲の一番高い音をしっかり出し切れず、変なところで息継ぎをしてしまったり、そこだけか細い声になってしまったりを繰り返していたことがやはり引っかかっていたのだ。トレーナーも、彼女自身も。
今日もいろいろ試行錯誤していたところで、「もっと全体的に柔らかい歌い方をしてみましょうか」とトレーナーから指示をもらった。他の出演予定のメンバーのように、明るくて快活で、ダンスに負けない元気な声を出さなくては、と頑張っていたところだったのだけど、その意識が却ってぎこちなさに繋がっていたのかもしれない。
「曲の頭からもう一度、言葉を噛み締めるように、そっと触れるように。丁寧に、そして滑らかに」
無理に声を張ろうとしないで。それよりも音をしっかり取ることを大切に。トレーナーのアドバイスを噛み締めつつ、もう一度歌い方を改めて、声を綴る。
「♪ ♪ ♪ 〜 ♪ ♪」
「あ、いいですね。もう少し繰り返してみましょう」
他にも取り組みたいことはあったけれど、トレーナーの英断もあって今日はここに費やすことになった。今日のうちに掴んでしまいたいと感じていたライラにとっても、大切な時間だった。
「お疲れ様。とっても綺麗だし、素敵だったよ」
休憩時、ドリンクを渡されるとともにプロデューサーから言葉をもらう。今日は冒頭から見学してくれている彼。歌い方を変えてみるという件も即座に把握してくれたし、肯定をくれた。
それと、時々カメラを回していたのを知っている。
以前から話していたとおり、やはりいろんな姿を記録として残して、それを示していこうということになった。練習風景にカメラが入ること自体は珍しくないものの、ライラは初めてのことだった。なるべく自然体で、と言われたけれども、やっぱり気にしてしまうもの。できるならうまく映りたいな、という意識も出てしまう。そんな中での今日の歌声のこと。内心焦りもあったライラだけれど、プロデューサーは優しい笑顔でこちらを見てくれていた。
ひとまず及第点にまでは至ったようで、胸を撫で下ろすライラ。
うまく決まるとライラさんの綺麗な声がしっかりと映えますよ。発見ですね、と笑みを見せるトレーナー。暖かな空気。
そうだといいな。いや、そういうもの、かもしれないけれど。
「あの、他のみなさんに比べてライラさんの声はやっぱり弱いかもなのですが、それは大丈夫でございますか?」
カメラを向けられていないタイミングを確認したうえで、少しだけよぎった不安をそっと言葉にしてみるライラ。
自分だけうまくいかないのは申し訳ないし、できることなら頑張って合わせられるようにした方がいいのでは……。そんな話を切り出すライラを、トレーナーは制止した。
「弱いということはないですよ。ライラさんはもともと通る声ですし、歌い方を変えただけです。届かないなんてことはありませんから」
「……ありがとうございますですよ。ちょっとだけ、安心しましたです」
深呼吸をひとつ。
「歌声だって大切な個性ですよ。アイドルに求められるのは、教科書の通りに歌いきることばかりではありません」
人とのちがいは、必ずしも技術差ということにはならないですから。トレーナーは話を続けた。
「たとえば黒川さんや西川さんなら、もっと高いキーでも地声でのびやかに歌いこなすかもしれません。私もそう促したと思います。でも相川さんならちがうでしょう。東郷さんや伊集院さんもそうかもしれません」
ライラの記憶に千夏のこの間のライブが蘇る。繊細で、綺麗で。だけど力強さも確かにあった。ああいう歌い方もあるのだ。
「ライラにはライラの魅力があるからね」
彼女の言葉に続けるように、プロデューサーも言葉を紡ぐ。
「それは立ち振る舞いにも、ダンスにも、歌声にも。もちろん周囲と合わせるべきときもあるけど……今は、らしさも大切にしていってほしい」
視線が重なる。
一息おいて、はいですと快活に返すライラ。己の未熟さのようなものをまた実感し反芻しそうなところだったのだけど、今日はそうはならなかった。
「まだまだ繰り返しますよ。今日のうちに身体に染み込ませていきましょう♪」
そう意気込む青木トレーナーの言葉は、どこか心地よかった。
「形になってきてるね。すごく素敵だよ」
「ありがとうございますですよー。えへへ、嬉しいです♪」
同日お昼。事務所の休憩スペースで、プロデューサーと一緒にお弁当を食べつつ打ち合わせのライラ。打ち合わせと言っても、二人でライブに向けてあれやこれやと話す程度なのだけど。
「メインの流れはこの調子なら問題ないと思う。コツコツ繰り返して精度をあげるだけだね。予定表確認しながら、僕もなるべく見学に行けるようにはするからね」
あとはアピールタイムの件かな、とプロデューサー。二人でいくつか案を出しつつ、でもまだ絞れていない状態だった。
「……ライラさん、すこし考えていることがあるのですが」
「うん」
相槌を打ちつつも決して急がせない彼。とはいえ、その「考えていること」に対する期待は少なくない。
「明日か明後日、またお昼こうして一緒に食べられると思うんだけど、ライラはどう?」
「あ、はいです。大丈夫でございますよー」
「じゃあその時にでも、また話してほしいな」
待つのは大丈夫だけど、そうはいっても、日は少しずつ近づいている。いつまでも、とはいかない。
「わかりましたです」
きちんと伝えられるだろうか。わからない。でもきちんと向き合って、きちんと何かを発することは、大人の証だ。
「トレーナーさんからも気づかうメッセージは来ているけど、心配はいらない。少しずつ、ね」
「そうなのですね」
「いつだってマメだし、気配りのできる人だからね」
心配性なだけかもしれないけど、と補足する彼。笑い合う。
まるで関係ないことではあるけど、そうした信頼あるやりとりを普段からしている二人、という事実が少しうらやましいような、そんな気持ちを覚えていたライラ。
「……プロデューサー殿、優しいですからね」
「ん?」
「ふふ、なんでもないですよー」
わたくしもそうならよいですね、なんて。
39:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2020/11/08(日) 09:31:45.14 :FQVp12gN0
Ⅶ フロム・ミー・トゥー・ユー
そして私たちは魔法にかかる。いつだって、信じて立つそのステージで。
(渋谷凛/アイドル)
「一息どうかしら」
同日午後。書類と格闘を続けていた彼のもとにコーヒーがそっと寄せられた。千夏だった。砂糖とミルクもひとつずつ。
「ありがとうございます。……あ、僕は」
「ブラックばっかり飲まないの。たまには甘いのもいいわよ?」
「あはは、わかりました」
いただきますね、と屈託のない笑みを見せるその姿に、千夏もわざとらしく会釈を返す。
「あれからライラと何か話してる?」
それなりには、と彼。進行していること、もう少しかかりそうなこと。まだまだ準備が必要だ。とはいえライラは、いい状態になりつつあると語る。
「私から見ても、よくなってると思うわ。技術も、気持ちも」
「でしょう」
大切なのはきっとここからですけどね、というプロデューサーの語りは間違いのないものだ。だけど言葉に比せず、彼は落ち着いていた。
「自信あり、なのかしら?」
「どうでしょうね」
でも期待したくなるくらいではありますし、それに僕も。
「僕も頑張っています」
だからこそ、いい感じですよ。そう語る彼はどこか勇ましい。
「……ほんとうに、ライラの運命に寄り添ってあげているのね」
「僕にできることなんて限られていますけどね」
でもそれが運命なら光栄ですよ。そう言ってのける彼は泥臭くて、凛々しくて。
「……」
「相川さん?」
そして少しだけ、遠くて切ない。彼女の瞳に映る景色は存外複雑だった。
「……一段落したら、どこかデートにでも連れて行ってあげたらどうかしら」
「急にどうしたんですか」
「プロデュースも大事だけど、乙女心も汲んであげないと。ライラだって年頃の女の子なんだから。放っておいたら悲しむかもしれないわよ?」
「いやいや、ライラに限ってそんな」
トボけた笑みを見せるプロデューサー。しばし視線を合わせたものの、千夏はため息とともに、わざとらしくそっぽを向いてしまった。
「そういうところ、本当に」
ズルイんだから、と彼女。こういう時だけ期待に応えない彼は相変わらずだけど、それでもいろいろ思うところがあるのも確かで。とっさに出た言葉はきっと心からのもの。
Ⅶ フロム・ミー・トゥー・ユー
そして私たちは魔法にかかる。いつだって、信じて立つそのステージで。
(渋谷凛/アイドル)
「一息どうかしら」
同日午後。書類と格闘を続けていた彼のもとにコーヒーがそっと寄せられた。千夏だった。砂糖とミルクもひとつずつ。
「ありがとうございます。……あ、僕は」
「ブラックばっかり飲まないの。たまには甘いのもいいわよ?」
「あはは、わかりました」
いただきますね、と屈託のない笑みを見せるその姿に、千夏もわざとらしく会釈を返す。
「あれからライラと何か話してる?」
それなりには、と彼。進行していること、もう少しかかりそうなこと。まだまだ準備が必要だ。とはいえライラは、いい状態になりつつあると語る。
「私から見ても、よくなってると思うわ。技術も、気持ちも」
「でしょう」
大切なのはきっとここからですけどね、というプロデューサーの語りは間違いのないものだ。だけど言葉に比せず、彼は落ち着いていた。
「自信あり、なのかしら?」
「どうでしょうね」
でも期待したくなるくらいではありますし、それに僕も。
「僕も頑張っています」
だからこそ、いい感じですよ。そう語る彼はどこか勇ましい。
「……ほんとうに、ライラの運命に寄り添ってあげているのね」
「僕にできることなんて限られていますけどね」
でもそれが運命なら光栄ですよ。そう言ってのける彼は泥臭くて、凛々しくて。
「……」
「相川さん?」
そして少しだけ、遠くて切ない。彼女の瞳に映る景色は存外複雑だった。
「……一段落したら、どこかデートにでも連れて行ってあげたらどうかしら」
「急にどうしたんですか」
「プロデュースも大事だけど、乙女心も汲んであげないと。ライラだって年頃の女の子なんだから。放っておいたら悲しむかもしれないわよ?」
「いやいや、ライラに限ってそんな」
トボけた笑みを見せるプロデューサー。しばし視線を合わせたものの、千夏はため息とともに、わざとらしくそっぽを向いてしまった。
「そういうところ、本当に」
ズルイんだから、と彼女。こういう時だけ期待に応えない彼は相変わらずだけど、それでもいろいろ思うところがあるのも確かで。とっさに出た言葉はきっと心からのもの。
40:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2020/11/08(日) 09:32:41.22 :FQVp12gN0
* * * * *
同時刻、事務所屋上。
猛暑も今日はひとやすみ。どんよりした空を眺めながら、風を頬に受ける。
少し思考を整理したいと思い、息抜きに屋上へ来てみたライラ。思いを巡らせる。
刺激の多い、そして学びの多い最近の日々。感謝の気持ちも、毎日が楽しいという気持ちも溢れている。だからこそ、自身の問題にも向き合わねばならない。
故郷の家族に見せることになるだろう映像は、今度のライブと、そしてその前後の舞台裏などになるかもしれない。だとしたら自己アピールの時間も大事になる。故郷に届くことも意識したメッセージなどがよいだろうか。いっそアラビア語で挨拶はどうだろう。でもそれは日本のファンに失礼だろうか。
「強みを探す」というトレーナーさんの言葉を思い返すライラ。あの話が出た時はどう考えたっけ……そうだ、日本をもっと知っていけたら、学んでいけたら、と思ったのだった。アラブ出身という色味を出すことは確かにキャラクターとしてはアリなのだろう。だけど自身としては、日本を学んでいく姿勢を大切にしたい。それは今なお思うこと。
「……」
沈黙を破るように、やや音の高い口笛がどこからともなくぴゅうっ、とひとつ。続けて声がした。
「あいにくの曇り空ね。でも、太陽が出ていなくとも、月は出るのかしら……ね?」
振り返ると、事務所でイチバン曇り空が似合わない存在がそこにいた。
「ヘレンよ!」
名乗らずともわかる。でも名乗る。ポーズも取る。それがヘレンだった。
なるほど、太陽はそこにあった。
ヘレンはその後、しばらくライラの相談に乗ってくれた。考え事かしら、気にすることが多いのは成長の証ね。でも話せることは話した方が楽にもなるわよ、と彼女。そうしてライラが語る身の上のこと、今度のライブで何をするか考えていることなどに相槌をうちつつ、しっかりと聞いてくれた。
「悩みどころね。仮にその案で進めるとして、間に合いそう?」
「……それは、はい。自信はまだありませんですが、でも、きっと」
なんとかしたい。それはライラ自身が切に願うことでもあるから。
「いい答えね」
いつも通り快活な言葉が返ってくるかと思いきや、ヘレンはらしくなく丁寧だった。
「考えながら前に進むあなたは素敵よ。きっと成功すると信じているわ」
「おおー、ありがとうございますですよー」
ぺこり、と一礼。笑みを交わす。
「でもねライラ、それにはきっとメッセージ以上のものが求められるわ」
「以上、でございますか」
「そう。私たちは、あなたの情動をまだまだ見ていない」
ヘレンは続けた。情動。すなわち揺さぶられるような、魂のおもむくままに走る姿。
「……激しさが必要、ということでございますかね?」
「それもそうだけど、それほどに強い想いで今ここにいるんだというアピールが欲しいわね」
理由はなんだっていい。でも今、自らの選択の先にここにいること、情熱を賭するに値する日々なんだということ、そしてこれからもいろんなことに向き立っていくんだということ。それを冷静さではなく、情熱的な表現で伝えてほしい、と。
「……なかなか難しいですねー」
「フフッ、確かにそうね。でも ――」
一呼吸置いて、ヘレンは続けた。
《伝えるって、そういうことよ》
「!? ……え、あ」
思わず目を見開いたライラ。
《綺麗な歌声に磨きがかかっているようね。それはとっても素敵なこと。でも、だからこそ。己の感情すべてを使って訴えかけてほしい》
納得できるものを届けるのではなく、止まらない想いの中にある今を示すの。ヘレンはそう続けた。
いや、内容もそうなのだけど。
《……ヘレンさん、アラビア語ができるのですか》
《多少はね》
謙遜して見せたが、ある程度こなれた様子の節回し。本当に以前からものにしていた人のようだ。その事実に驚きと、どこか喜びを感じてやまないライラ。
《何故って? そう、私はヘレンだから》
そう答える彼女はいつも通りで、雄大で、美しかった。
* * * * *
同時刻、事務所屋上。
猛暑も今日はひとやすみ。どんよりした空を眺めながら、風を頬に受ける。
少し思考を整理したいと思い、息抜きに屋上へ来てみたライラ。思いを巡らせる。
刺激の多い、そして学びの多い最近の日々。感謝の気持ちも、毎日が楽しいという気持ちも溢れている。だからこそ、自身の問題にも向き合わねばならない。
故郷の家族に見せることになるだろう映像は、今度のライブと、そしてその前後の舞台裏などになるかもしれない。だとしたら自己アピールの時間も大事になる。故郷に届くことも意識したメッセージなどがよいだろうか。いっそアラビア語で挨拶はどうだろう。でもそれは日本のファンに失礼だろうか。
「強みを探す」というトレーナーさんの言葉を思い返すライラ。あの話が出た時はどう考えたっけ……そうだ、日本をもっと知っていけたら、学んでいけたら、と思ったのだった。アラブ出身という色味を出すことは確かにキャラクターとしてはアリなのだろう。だけど自身としては、日本を学んでいく姿勢を大切にしたい。それは今なお思うこと。
「……」
沈黙を破るように、やや音の高い口笛がどこからともなくぴゅうっ、とひとつ。続けて声がした。
「あいにくの曇り空ね。でも、太陽が出ていなくとも、月は出るのかしら……ね?」
振り返ると、事務所でイチバン曇り空が似合わない存在がそこにいた。
「ヘレンよ!」
名乗らずともわかる。でも名乗る。ポーズも取る。それがヘレンだった。
なるほど、太陽はそこにあった。
ヘレンはその後、しばらくライラの相談に乗ってくれた。考え事かしら、気にすることが多いのは成長の証ね。でも話せることは話した方が楽にもなるわよ、と彼女。そうしてライラが語る身の上のこと、今度のライブで何をするか考えていることなどに相槌をうちつつ、しっかりと聞いてくれた。
「悩みどころね。仮にその案で進めるとして、間に合いそう?」
「……それは、はい。自信はまだありませんですが、でも、きっと」
なんとかしたい。それはライラ自身が切に願うことでもあるから。
「いい答えね」
いつも通り快活な言葉が返ってくるかと思いきや、ヘレンはらしくなく丁寧だった。
「考えながら前に進むあなたは素敵よ。きっと成功すると信じているわ」
「おおー、ありがとうございますですよー」
ぺこり、と一礼。笑みを交わす。
「でもねライラ、それにはきっとメッセージ以上のものが求められるわ」
「以上、でございますか」
「そう。私たちは、あなたの情動をまだまだ見ていない」
ヘレンは続けた。情動。すなわち揺さぶられるような、魂のおもむくままに走る姿。
「……激しさが必要、ということでございますかね?」
「それもそうだけど、それほどに強い想いで今ここにいるんだというアピールが欲しいわね」
理由はなんだっていい。でも今、自らの選択の先にここにいること、情熱を賭するに値する日々なんだということ、そしてこれからもいろんなことに向き立っていくんだということ。それを冷静さではなく、情熱的な表現で伝えてほしい、と。
「……なかなか難しいですねー」
「フフッ、確かにそうね。でも ――」
一呼吸置いて、ヘレンは続けた。
《伝えるって、そういうことよ》
「!? ……え、あ」
思わず目を見開いたライラ。
《綺麗な歌声に磨きがかかっているようね。それはとっても素敵なこと。でも、だからこそ。己の感情すべてを使って訴えかけてほしい》
納得できるものを届けるのではなく、止まらない想いの中にある今を示すの。ヘレンはそう続けた。
いや、内容もそうなのだけど。
《……ヘレンさん、アラビア語ができるのですか》
《多少はね》
謙遜して見せたが、ある程度こなれた様子の節回し。本当に以前からものにしていた人のようだ。その事実に驚きと、どこか喜びを感じてやまないライラ。
《何故って? そう、私はヘレンだから》
そう答える彼女はいつも通りで、雄大で、美しかった。
41:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2020/11/08(日) 09:33:28.98 :FQVp12gN0
《あなたはきっと今、ひとつの分岐点にいる。だからこそ慎重になるのはわかる。でもきっと、これを乗り越えたらまた次の、それを越えたらまたその次の分岐点は現れるし、ヤマ場は何度でもやってくるわ》
経験していけばわかること。人生は挑戦の連続だから、と。
《だから、悩みすぎないで。そして抱えすぎないで。完成度の高い答えを出そうとばかりしないで、今出せるものをどんどん周囲に見せて。そして磨かれながら、アプローチを続けてほしい》
含蓄のある言葉が続いた。みんながいるから、と。
それは本当にそうだとライラも思っている。助けられて、支えられて。わたくしも誰かにとってそういう人であれますように。
《ありがとうございます》
それは心からの言葉だ。
《彼は何か語っている?》
《プロデューサー殿、ですか?》
もちろんよ、と彼女。
《貴方のことを信じてやまない、いま貴方を誰よりも信じている人》
そう説明され少し恥ずかしがるライラ。逆はともかく、その自信はまだない。……そうであったら、という期待が心にあることは確かだけれど。でも真実のところはわからない。
《もっともっと頼ることね。相談でも、なんでも。あのプロデューサーは意外に頼もしい人よ》
背中を押してくれるヘレンの言葉は、どれもライラにとって暖かい。
だけど。
《……ヘレンさん、プロデューサー殿は意外ではなく、とても頼もしくて、とても素敵な方ですよ》
思わぬ強い返しに、笑みをこぼすヘレン。
《フフ。いい表情ね》
風が吹き抜ける。
《ライラはプロデューサーに、一個人として、恋愛感情として、好きの気持ちはあるのかしら?》
《……えっと》
核心に触れる問いだった。いや、似たような話は何度となくあったかもしれないけれど。
改めて彼女の表情を伺う。茶化すような雰囲気はない。いや、ヘレンに限って言えば、そもそも茶化すなどということはないのだけれど。
《ひとつだけ教えてあげる。好きの定義は人それぞれ。愛しく思うこと、感謝の気持ちでいっぱいになること、よき理解者であること、運命共同体であること、あるいは ―― あるいはただ純粋に、ドキドキが止まらなくなること、なんてのもね》
言葉にしなくちゃいけないわけじゃない。だけど、言葉にしたことで再認識できることも、こみあげる気持ちも、運命と向き合う意識も生まれてくると思うから。そうヘレンは語った。
《…………》
沈黙は戸惑いの証。答えに迷っているからではなく、一つの明確な意思を言葉にすることへの、戸惑い。
きっと、今すぐに返答しなくとも、それを咎める彼女ではないだろう。けれど、そんな自分ではいたくない。そうライラは思った。
空を仰ぎ見る。深呼吸を一つ。
《はい。きっと……きっときっと、一人のわたくしとして、恋愛の気持ちとして、プロデューサー殿は大好きですね》
ヘレンに向き直り、ライラはしっかりと答えてみせた。
担当のプロデューサーとして慕っていること。ここまで連れてきてくれたことへの感謝でいっぱいということ。そして、そういう意味の好きとは、もう少しだけ異なる気持ち。
《よろしい。そう返せるのはあなたがちゃんと考えてここにいる、そういうことだから。そして止まらぬ想いがそこにもあると意識できているから》
その気持ちを忘れないでね。ヘレンはそう語った。ライラはそっとうなずいた。少し頬を赤らめている自覚があるのか、照れるようにうつむいた。
《あなたに足りないのは意思でも度量でも、ましてや好奇心でもないわ。きっとどれもちゃんとあるから。足りないのはきっと「叫び」よ》
《叫び、ですか》
《そう。渇望が、切なる願望が、もっともっと聞こえてほしい。それこそがあなたのあなたたる所以なのだから》
《わたくしに、それがありますかね?》
《あるわ。ないわけないでしょう》
なぜってあなたは、あのライラなのよ。
大仰な身振りをしてみせるヘレン。
《あの?》
《そう、あのライラ。己として生きたいという渇望を胸に、故郷を離れてここまで来たのよ。大冒険を越えてここにいるのよ。生きたい。これがあなたの叫びの一つ。それはとても尊いこと。……ではその先は? それこそがあなたに今、求められている姿かもしれないわね》
全ての人に物語は存在するのだから。あなたにも、そして、私にも。
ポージングの意味はわからなかったけれど、綴られるヘレンの言葉はさすがだった。
《世界はいつだって美しくて雄大で、汚くて儚くて、そしてやっぱり素晴らしい》
だから走りましょう。私もここにいるから、と。
ライラは改めて実感した。前を向く人が見せる輝きは、やっぱり心を打つものだ。
「アイドルって素敵でしょう?」
そう言って笑みを見せるヘレンはキラキラしていた。
「私がアラビア語を話すのは、きっとこれが最後ね」
「なぜでございますか?」
「これから先、あなたとまた本音を語り合う時が来たとしても、もう日本語でも大丈夫だろうから」
今、いい顔してるわよ、ライラ。
そう語り、サムズアップをしながらその場をあとにするヘレン。背中がまぶしかった。
「ありがとうございますですよー、ヘレンさん」
去りゆく太陽に向かって今一度ライラがぺこり、と丁寧な一礼をした。
《あなたはきっと今、ひとつの分岐点にいる。だからこそ慎重になるのはわかる。でもきっと、これを乗り越えたらまた次の、それを越えたらまたその次の分岐点は現れるし、ヤマ場は何度でもやってくるわ》
経験していけばわかること。人生は挑戦の連続だから、と。
《だから、悩みすぎないで。そして抱えすぎないで。完成度の高い答えを出そうとばかりしないで、今出せるものをどんどん周囲に見せて。そして磨かれながら、アプローチを続けてほしい》
含蓄のある言葉が続いた。みんながいるから、と。
それは本当にそうだとライラも思っている。助けられて、支えられて。わたくしも誰かにとってそういう人であれますように。
《ありがとうございます》
それは心からの言葉だ。
《彼は何か語っている?》
《プロデューサー殿、ですか?》
もちろんよ、と彼女。
《貴方のことを信じてやまない、いま貴方を誰よりも信じている人》
そう説明され少し恥ずかしがるライラ。逆はともかく、その自信はまだない。……そうであったら、という期待が心にあることは確かだけれど。でも真実のところはわからない。
《もっともっと頼ることね。相談でも、なんでも。あのプロデューサーは意外に頼もしい人よ》
背中を押してくれるヘレンの言葉は、どれもライラにとって暖かい。
だけど。
《……ヘレンさん、プロデューサー殿は意外ではなく、とても頼もしくて、とても素敵な方ですよ》
思わぬ強い返しに、笑みをこぼすヘレン。
《フフ。いい表情ね》
風が吹き抜ける。
《ライラはプロデューサーに、一個人として、恋愛感情として、好きの気持ちはあるのかしら?》
《……えっと》
核心に触れる問いだった。いや、似たような話は何度となくあったかもしれないけれど。
改めて彼女の表情を伺う。茶化すような雰囲気はない。いや、ヘレンに限って言えば、そもそも茶化すなどということはないのだけれど。
《ひとつだけ教えてあげる。好きの定義は人それぞれ。愛しく思うこと、感謝の気持ちでいっぱいになること、よき理解者であること、運命共同体であること、あるいは ―― あるいはただ純粋に、ドキドキが止まらなくなること、なんてのもね》
言葉にしなくちゃいけないわけじゃない。だけど、言葉にしたことで再認識できることも、こみあげる気持ちも、運命と向き合う意識も生まれてくると思うから。そうヘレンは語った。
《…………》
沈黙は戸惑いの証。答えに迷っているからではなく、一つの明確な意思を言葉にすることへの、戸惑い。
きっと、今すぐに返答しなくとも、それを咎める彼女ではないだろう。けれど、そんな自分ではいたくない。そうライラは思った。
空を仰ぎ見る。深呼吸を一つ。
《はい。きっと……きっときっと、一人のわたくしとして、恋愛の気持ちとして、プロデューサー殿は大好きですね》
ヘレンに向き直り、ライラはしっかりと答えてみせた。
担当のプロデューサーとして慕っていること。ここまで連れてきてくれたことへの感謝でいっぱいということ。そして、そういう意味の好きとは、もう少しだけ異なる気持ち。
《よろしい。そう返せるのはあなたがちゃんと考えてここにいる、そういうことだから。そして止まらぬ想いがそこにもあると意識できているから》
その気持ちを忘れないでね。ヘレンはそう語った。ライラはそっとうなずいた。少し頬を赤らめている自覚があるのか、照れるようにうつむいた。
《あなたに足りないのは意思でも度量でも、ましてや好奇心でもないわ。きっとどれもちゃんとあるから。足りないのはきっと「叫び」よ》
《叫び、ですか》
《そう。渇望が、切なる願望が、もっともっと聞こえてほしい。それこそがあなたのあなたたる所以なのだから》
《わたくしに、それがありますかね?》
《あるわ。ないわけないでしょう》
なぜってあなたは、あのライラなのよ。
大仰な身振りをしてみせるヘレン。
《あの?》
《そう、あのライラ。己として生きたいという渇望を胸に、故郷を離れてここまで来たのよ。大冒険を越えてここにいるのよ。生きたい。これがあなたの叫びの一つ。それはとても尊いこと。……ではその先は? それこそがあなたに今、求められている姿かもしれないわね》
全ての人に物語は存在するのだから。あなたにも、そして、私にも。
ポージングの意味はわからなかったけれど、綴られるヘレンの言葉はさすがだった。
《世界はいつだって美しくて雄大で、汚くて儚くて、そしてやっぱり素晴らしい》
だから走りましょう。私もここにいるから、と。
ライラは改めて実感した。前を向く人が見せる輝きは、やっぱり心を打つものだ。
「アイドルって素敵でしょう?」
そう言って笑みを見せるヘレンはキラキラしていた。
「私がアラビア語を話すのは、きっとこれが最後ね」
「なぜでございますか?」
「これから先、あなたとまた本音を語り合う時が来たとしても、もう日本語でも大丈夫だろうから」
今、いい顔してるわよ、ライラ。
そう語り、サムズアップをしながらその場をあとにするヘレン。背中がまぶしかった。
「ありがとうございますですよー、ヘレンさん」
去りゆく太陽に向かって今一度ライラがぺこり、と丁寧な一礼をした。
42:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2020/11/08(日) 09:34:24.98 :FQVp12gN0
* * * * *
「失礼しますですよー」
「……ん、あれ? 帰らなかったの?」
同日夜。レッスンを終え、しばらくみんなで雑談をして過ごしていたライラ。解散となって再び、事務所へ戻ってきた。
スタッフも既に退勤している人が多く、やや広めの部屋はどこか物静かで。そこに一人、黙々と作業を続けていたのが誰あろう、彼女のプロデューサーである。
「はい。プロデューサー殿がまだいらっしゃるかなと思いまして。お疲れ様でございますよー」
ご相談の続きができたら……と、覗き込むようにしてプロデューサーの様子を伺う。
「少し、整頓できた感じかな」
「はいです」
机周りを少し片付けつつ、隣席を促すプロデューサー。様子を伺いつつ、ライラがそっと腰を下ろした。いざ彼とこうして向かい合うと、ヘレンと話したことが思い起こされて少し気恥ずかしくなる。
「……えへへ」
「?」
なんでもないですよと一言挟み、本題に入る。
「古い歌を、ご披露できましたらと思いまして」
* * * * *
「……拝承しました、ってさ」
隣で首を傾げるライラに「OKってことだよ」と補足するプロデューサー。相変わらずあの人は難しい日本語を知ってるね、と首をすくめる仕草を見せた。そして二人で笑いあった。
「これでエージェントさんにも了解を取り付けたし、あとは……頑張るだけだね」
「ありがとうございますですよ」
改めて、丁寧な一礼。こういうことを今なお疎かにしないのがライラらしいところ。どういたしまして、という彼の言葉に顔を起こし、ほっと一息。
今度のライブのこと。それに向けて準備していること。そして、そのために協力してほしいこと。説明のためにもエージェントと話す機会を持とうと早速連絡をしたら、そのまま通信を介してのやり取りになった。
「このまま済ませてしまいましょう。当該のライブも近いと伺っております。時間を取って話すことも本来は大事ですが、それよりもプロデューサー様はライラ様のそばにいてあげてください。そして、彼女の習熟度や練度を少しでも高めることに努めて頂けたら、と」
ここにきてライブへの傾注を促す言葉が返ってきた。無論望ましいことだが、急にどうしたのだろう、と訝しむ気持ちもなくはない。とはいえ協力的な姿勢は助かるところでもあるので、端的に、そして真摯に、意向と用件を伝えるプロデューサー。その様子を隣で少し不安げに見ているライラだったが、「大丈夫」という彼の言葉がまた、彼女を少し落ち着かせてくれた。
エージェントは提案に対して二、三の確認こそすれ、異を唱えることはなかった。
「では、ライブまでの日々含め、どうぞよろしくお願い致します」
挨拶を交わし、通信を切る。多少は釘を刺されたりするかと予想していたプロデューサーだったが、そうはならなかったことにひとまず安堵した。大きく息を吐く。
「コーヒー、要りますですか?」
席を立ち給湯室へ向かおうとするライラ。
「ありがとう、でも大丈夫。それにもう時間も遅いし、そろそろ帰る支度をしよう」
「あ、でも……」
「話の続きは帰りながら、ね」
あまり遅くなるとメイドさんも心配するだろうし。そう言われ、ライラも了解した。
* * * * *
「失礼しますですよー」
「……ん、あれ? 帰らなかったの?」
同日夜。レッスンを終え、しばらくみんなで雑談をして過ごしていたライラ。解散となって再び、事務所へ戻ってきた。
スタッフも既に退勤している人が多く、やや広めの部屋はどこか物静かで。そこに一人、黙々と作業を続けていたのが誰あろう、彼女のプロデューサーである。
「はい。プロデューサー殿がまだいらっしゃるかなと思いまして。お疲れ様でございますよー」
ご相談の続きができたら……と、覗き込むようにしてプロデューサーの様子を伺う。
「少し、整頓できた感じかな」
「はいです」
机周りを少し片付けつつ、隣席を促すプロデューサー。様子を伺いつつ、ライラがそっと腰を下ろした。いざ彼とこうして向かい合うと、ヘレンと話したことが思い起こされて少し気恥ずかしくなる。
「……えへへ」
「?」
なんでもないですよと一言挟み、本題に入る。
「古い歌を、ご披露できましたらと思いまして」
* * * * *
「……拝承しました、ってさ」
隣で首を傾げるライラに「OKってことだよ」と補足するプロデューサー。相変わらずあの人は難しい日本語を知ってるね、と首をすくめる仕草を見せた。そして二人で笑いあった。
「これでエージェントさんにも了解を取り付けたし、あとは……頑張るだけだね」
「ありがとうございますですよ」
改めて、丁寧な一礼。こういうことを今なお疎かにしないのがライラらしいところ。どういたしまして、という彼の言葉に顔を起こし、ほっと一息。
今度のライブのこと。それに向けて準備していること。そして、そのために協力してほしいこと。説明のためにもエージェントと話す機会を持とうと早速連絡をしたら、そのまま通信を介してのやり取りになった。
「このまま済ませてしまいましょう。当該のライブも近いと伺っております。時間を取って話すことも本来は大事ですが、それよりもプロデューサー様はライラ様のそばにいてあげてください。そして、彼女の習熟度や練度を少しでも高めることに努めて頂けたら、と」
ここにきてライブへの傾注を促す言葉が返ってきた。無論望ましいことだが、急にどうしたのだろう、と訝しむ気持ちもなくはない。とはいえ協力的な姿勢は助かるところでもあるので、端的に、そして真摯に、意向と用件を伝えるプロデューサー。その様子を隣で少し不安げに見ているライラだったが、「大丈夫」という彼の言葉がまた、彼女を少し落ち着かせてくれた。
エージェントは提案に対して二、三の確認こそすれ、異を唱えることはなかった。
「では、ライブまでの日々含め、どうぞよろしくお願い致します」
挨拶を交わし、通信を切る。多少は釘を刺されたりするかと予想していたプロデューサーだったが、そうはならなかったことにひとまず安堵した。大きく息を吐く。
「コーヒー、要りますですか?」
席を立ち給湯室へ向かおうとするライラ。
「ありがとう、でも大丈夫。それにもう時間も遅いし、そろそろ帰る支度をしよう」
「あ、でも……」
「話の続きは帰りながら、ね」
あまり遅くなるとメイドさんも心配するだろうし。そう言われ、ライラも了解した。
43:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2020/11/08(日) 09:36:06.73 :FQVp12gN0
「何はともあれ、内容が決まったこと、エージェントにも話ができたことはよかった」
「そうでございますねー」
帰り道、車中。今日の振り返りをしつつ、話題はさっきの続きへ。
「何か、相談ごとがあったのかな」
「そう……ですね」
ライラはしばし虚空を眺め、改めて思いを紡いでみせた。
「プロデューサー殿、わたくしの……ライラさんの強みは何だと思いますか?」
少し沈黙があった。プロデューサーは返答の言葉を探しているようだった。
ライラが補足する。自身で考えてみることも、トライしてみることも、反省することも大事だということはわかります。けれど同じくらい、プロデューサー殿の言葉も大切なのです、と。
「何かあればいつでも相談を、でございます……よね?」
「……その通りだね」
いつも自分が言ってるフレーズを返されて、思わず笑みをこぼすプロデューサー。運転中で視線が重なることはないけれど。でも今、隣に座る彼女との信頼の距離はとても近いように感じられたから。そしてそれは彼女の熱意と努力によって導かれたものだから。それを今一度、噛み締めていた。
「………………」
「ゆっくりでいいですよ? ……えへへ♪」
イタズラっぽく返すライラ。まるでいつもの逆のようで、それがどこかおかしくて。それはプロデューサーもまた同様で。ゆるい空気が流れる。
「……ライラはね、いつだって物語の広がりを感じさせてくれるんだ」
少しだけの沈黙を挟み、おもむろに彼からのレスポンス。興味深げに聞くライラ。彼は続ける。
「そういう魅力ってあるんだと思う。これまでの人生があって、今この瞬間があって。経験していること、感じること、考えていること。いろんなそれを、ゆっくりと、でも確かに、自分の言葉で綴ろうとするライラはいつだって綺麗で、繊細で。みんなに優しかったり、実は情熱的だったり。意外と頑固だったり、案外ぼんやりしていたり。うまくいくことも、いかないこともあるのはわかる。でもそれ全てがライラの魅力だし、ひいてはライラという一人の少女の物語そのものなんだと思う。それが言動から感じられるのって、すごいことなんだよ」
「物語、でございますか」
「そうだね」
丁寧に返されるメッセージに過分なまでの褒めをもらい、どこか気恥ずかしさを覚えるライラ。けれどそれはお世辞じゃないし、それにアイドルにとって大事なことでもあるんだよ、と補足を受ける。
「アイドルに必要な要素って何だと思う? なんて古臭い問いはもはや意味をなす時代じゃない。いろんなタイプがいていいし、いろんな可能性があるから。でも少なくとも、誰かにとって魅力と感じるものがないと、物語は始まらないんだよね。ファンからしたら、ライラにはきっとそれがたくさん詰まっている。だから好きでいてくれるんだ」
芯の強さや凛とした美しさがある黒川さん。優しさと柔らかさで皆を包み込む相川さん。いろんな輝きがある。人のぶんだけそれはある。
「ライラは綺麗で、おおらかで、自由で、……少しだけ儚げで」
「……」
「もう一歩近くで、寄り添いたくなるような」
そんな魅力がある、と。
「ライラはまだ日本語が上手じゃないと思っているかもしれないけど、でもライラが選んで綴る言葉には、誰にもない輝きがあるよ」
たくさん知っていること。まだまだ知らないこと。知らないという事実に寄り添えること。ちゃんと質問できること。話をできること。
「ぜんぶぜんぶ、ライラさんの素敵なところだね」
だからえーっと、と続く言葉に詰まる彼。どうやら話がズレてきていたことにようやく気づいた様子。ごめん、あまり質問に対する答えになっていなかったもね、と苦笑いしつつ頬を掻く。
そんな彼を見ていたライラだったが、ふいに視線を外に移した。
涙がこぼれそうになったのを、見せたくなかったから。
自分が綴る言葉を良さと思ってもらえたこと。その言葉の背景にある感性を、ひいては自身の生き様を褒めてもらえたこと。そしてそれらを「物語」と評してくれたこと。
それは人とのおしゃべりを好む彼女にとって、日々に大切さを見出している彼女にとって、そして逃避行のような旅を経て今を生きる彼女にとって、他のどんな褒め言葉よりも強い肯定のメッセージであり、本当に本当に救われる気持ちになるようなものだった。ましてプロデューサーから、ということも含めて。
「……ありがとうございますですよ」
「……ライラ?」
素早く目元をぬぐい、何事もなかったように振る舞って見せる彼女。なんでもないですよー、それよりも、お言葉、とってもとっても嬉しいです。そうして笑顔を見せる。
彼はそれ以上詮索してくる様子はなかった。それが彼のいいところでもあるし、少しだけ困ったところでもある。
「何はともあれ、内容が決まったこと、エージェントにも話ができたことはよかった」
「そうでございますねー」
帰り道、車中。今日の振り返りをしつつ、話題はさっきの続きへ。
「何か、相談ごとがあったのかな」
「そう……ですね」
ライラはしばし虚空を眺め、改めて思いを紡いでみせた。
「プロデューサー殿、わたくしの……ライラさんの強みは何だと思いますか?」
少し沈黙があった。プロデューサーは返答の言葉を探しているようだった。
ライラが補足する。自身で考えてみることも、トライしてみることも、反省することも大事だということはわかります。けれど同じくらい、プロデューサー殿の言葉も大切なのです、と。
「何かあればいつでも相談を、でございます……よね?」
「……その通りだね」
いつも自分が言ってるフレーズを返されて、思わず笑みをこぼすプロデューサー。運転中で視線が重なることはないけれど。でも今、隣に座る彼女との信頼の距離はとても近いように感じられたから。そしてそれは彼女の熱意と努力によって導かれたものだから。それを今一度、噛み締めていた。
「………………」
「ゆっくりでいいですよ? ……えへへ♪」
イタズラっぽく返すライラ。まるでいつもの逆のようで、それがどこかおかしくて。それはプロデューサーもまた同様で。ゆるい空気が流れる。
「……ライラはね、いつだって物語の広がりを感じさせてくれるんだ」
少しだけの沈黙を挟み、おもむろに彼からのレスポンス。興味深げに聞くライラ。彼は続ける。
「そういう魅力ってあるんだと思う。これまでの人生があって、今この瞬間があって。経験していること、感じること、考えていること。いろんなそれを、ゆっくりと、でも確かに、自分の言葉で綴ろうとするライラはいつだって綺麗で、繊細で。みんなに優しかったり、実は情熱的だったり。意外と頑固だったり、案外ぼんやりしていたり。うまくいくことも、いかないこともあるのはわかる。でもそれ全てがライラの魅力だし、ひいてはライラという一人の少女の物語そのものなんだと思う。それが言動から感じられるのって、すごいことなんだよ」
「物語、でございますか」
「そうだね」
丁寧に返されるメッセージに過分なまでの褒めをもらい、どこか気恥ずかしさを覚えるライラ。けれどそれはお世辞じゃないし、それにアイドルにとって大事なことでもあるんだよ、と補足を受ける。
「アイドルに必要な要素って何だと思う? なんて古臭い問いはもはや意味をなす時代じゃない。いろんなタイプがいていいし、いろんな可能性があるから。でも少なくとも、誰かにとって魅力と感じるものがないと、物語は始まらないんだよね。ファンからしたら、ライラにはきっとそれがたくさん詰まっている。だから好きでいてくれるんだ」
芯の強さや凛とした美しさがある黒川さん。優しさと柔らかさで皆を包み込む相川さん。いろんな輝きがある。人のぶんだけそれはある。
「ライラは綺麗で、おおらかで、自由で、……少しだけ儚げで」
「……」
「もう一歩近くで、寄り添いたくなるような」
そんな魅力がある、と。
「ライラはまだ日本語が上手じゃないと思っているかもしれないけど、でもライラが選んで綴る言葉には、誰にもない輝きがあるよ」
たくさん知っていること。まだまだ知らないこと。知らないという事実に寄り添えること。ちゃんと質問できること。話をできること。
「ぜんぶぜんぶ、ライラさんの素敵なところだね」
だからえーっと、と続く言葉に詰まる彼。どうやら話がズレてきていたことにようやく気づいた様子。ごめん、あまり質問に対する答えになっていなかったもね、と苦笑いしつつ頬を掻く。
そんな彼を見ていたライラだったが、ふいに視線を外に移した。
涙がこぼれそうになったのを、見せたくなかったから。
自分が綴る言葉を良さと思ってもらえたこと。その言葉の背景にある感性を、ひいては自身の生き様を褒めてもらえたこと。そしてそれらを「物語」と評してくれたこと。
それは人とのおしゃべりを好む彼女にとって、日々に大切さを見出している彼女にとって、そして逃避行のような旅を経て今を生きる彼女にとって、他のどんな褒め言葉よりも強い肯定のメッセージであり、本当に本当に救われる気持ちになるようなものだった。ましてプロデューサーから、ということも含めて。
「……ありがとうございますですよ」
「……ライラ?」
素早く目元をぬぐい、何事もなかったように振る舞って見せる彼女。なんでもないですよー、それよりも、お言葉、とってもとっても嬉しいです。そうして笑顔を見せる。
彼はそれ以上詮索してくる様子はなかった。それが彼のいいところでもあるし、少しだけ困ったところでもある。
44:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2020/11/08(日) 09:37:07.67 :FQVp12gN0
「実は新しい企画が立ち上がっていて」
ライラが落ち着いたのを見計って、プロデューサーが切り出した。事務所のアイドルから数人が選抜され、みんなでいろんな未体験のものにチャレンジしてみる企画が不定期で行われている。その次回枠にライラを推薦していたら、話が通ったとのこと。
「たぶん、楽器に挑戦してみる機会になると思う」
この企画はその都度のスポンサーや取材先のさじ加減で内容も規模も大幅に変わるため、毎度色合いがかなり異なるものになる。そして、プロデューサーが彼女を推した今回の企画が「ロックバンドにチャレンジする」というもの。
「おおー。わたくしロックバンドは初めてでございますねー」
「なら、なおのこと楽しみだね。初めは不慣れでもいいよ。でも少しずつ学んで、みんなとコミュニケーションを取って、成長していく。その過程が企画の肝だから」
キッカケがないと触れ得ないものこそ、こうした企画に乗じて学んでいってほしい。それはアイドルの役得なことでもあるから。プロデューサーはそう説明した。
「はいです♪」
わたくし、もっともっと成長できるよう頑張りますですよ、とライラは笑った。
近日中に他のメンバーの正式発表も教えてもらえるとのこと。
「どなたでしょうねー。楽しみでございます」
それにしても。目下のライブの準備が佳境なのに、次の話も動いているんだなと改めて実感するライラ。とっても楽しみだけど、どこか不思議な感覚でもあった。彼にそれを話すと、それはそうだろうね、と返された。
「でも、きっとそういうものさ。今度のライブがライラにとって大切なもので、いろいろメッセージを抱えているのは間違いないけれど。でもそれを過ぎたってライラはアイドルを続けていくんだし、お仕事だって取ってくる。活動を続けるってことは、こうした一生懸命の瞬間が続いていくことだと思うよ」
そしてそれは生きていくことそのものだってきっとそう。彼はそう続けた。
「十六歳とは思えないくらい、たくさんの経験をしてきたんだと思う。でももっともっと、素敵なことがこれからもきっと待ってる。そんなライラを見ていたい。だから ――」
ちらり、と視線を寄せる。
「一緒に頑張ろうね」
彼なりの、まっすぐなメッセージだった。
直球では述べなかったものの、誰よりも彼女に物語を感じ、誰よりも彼女のきらめきを信じている。それが彼であり、彼にもその自負があった。だからこそ、伝えなくてはならないことも、伝えたいこともある。
いろんなことが一斉に舞い込んできた状態のライラは少し混乱気味になっていた。だけど本当に本当に、大切で素敵で、手放してはいけないもの。それが今、たくさんここにあるということははっきりと認識できたし、それがライラにはうれしかった。そしてちゃんと、気持ちが昂るということも。
彼女の返答は、今日何度目かの「ありがとうございますですよ」だった。もっともっと語りたいけれど。もっともっとお返事がしたいけれど。でも多くは語れそうもない。ドキドキで破裂しそうな自分がいるから。
プロデューサーは少しだけ笑みを見せ、あとは黙って車を走らせた。
千夏が彼を「ズルイ」と形容したことがあるけれど、それはこういうところのことなのかも、などとライラは思った。不思議と笑みがこぼれた。
実は彼もまた、この瞬間に感じ入ることはたくさんあった。
ここにきてライラが力強く、たくましい言葉を綴るようになっていること。ライブに向けてきちんと調子を上げてきていること。さっきの質問にしてもそう。大切なことをこぼさないようになってきている、それは間違いのないこと。
いちプロデューサーが、彼女の人生そのものに過度に踏み入るのは果たしてよいことなのか。それは何度も自問した。でも、止まらない時の流れもあれば、止まらない情動もある。それも事実。
彼女をアイドル活動に導いたのは自分なのだ。それは遥か東洋の島国に巡りついた彼女の数奇な運命の一端であり、同時にまだまだ道の途中でもある。ここが最善かはわからない。でも、ここで紡ぐ物語を形にしなければ、彼女にはもっと望まない運命が待っているかもしれないのだ。少なくとも、今できることをしっかり積み重ねていくこと。それが何より大切で。だからこそ、彼女の内面にも、眼前の諸問題にも、一緒に向き合っていく必要がある。
ならば、手離してなるものか。運命に向き合え。これがライラなのだから。寄り添うべき担当アイドル、ライラなのだから。そう心でつぶやいた。
「……プロデューサー殿は」
「ん?」
「運命の出会いを、信じますですか?」
ライラがそっと口を開いた。それは遥か昔、どこかの物語のはじまりにあったような問いかけ。
意味するところはなんだろう。
透き通るようなその瞳の奥に、見据えられていることは。
「………………どうかな。自信はないよ。でも」
信じたいな。できることなら。
少し言葉に迷いつつも、彼はそう語って返した。
夜は、更けてゆく。
「実は新しい企画が立ち上がっていて」
ライラが落ち着いたのを見計って、プロデューサーが切り出した。事務所のアイドルから数人が選抜され、みんなでいろんな未体験のものにチャレンジしてみる企画が不定期で行われている。その次回枠にライラを推薦していたら、話が通ったとのこと。
「たぶん、楽器に挑戦してみる機会になると思う」
この企画はその都度のスポンサーや取材先のさじ加減で内容も規模も大幅に変わるため、毎度色合いがかなり異なるものになる。そして、プロデューサーが彼女を推した今回の企画が「ロックバンドにチャレンジする」というもの。
「おおー。わたくしロックバンドは初めてでございますねー」
「なら、なおのこと楽しみだね。初めは不慣れでもいいよ。でも少しずつ学んで、みんなとコミュニケーションを取って、成長していく。その過程が企画の肝だから」
キッカケがないと触れ得ないものこそ、こうした企画に乗じて学んでいってほしい。それはアイドルの役得なことでもあるから。プロデューサーはそう説明した。
「はいです♪」
わたくし、もっともっと成長できるよう頑張りますですよ、とライラは笑った。
近日中に他のメンバーの正式発表も教えてもらえるとのこと。
「どなたでしょうねー。楽しみでございます」
それにしても。目下のライブの準備が佳境なのに、次の話も動いているんだなと改めて実感するライラ。とっても楽しみだけど、どこか不思議な感覚でもあった。彼にそれを話すと、それはそうだろうね、と返された。
「でも、きっとそういうものさ。今度のライブがライラにとって大切なもので、いろいろメッセージを抱えているのは間違いないけれど。でもそれを過ぎたってライラはアイドルを続けていくんだし、お仕事だって取ってくる。活動を続けるってことは、こうした一生懸命の瞬間が続いていくことだと思うよ」
そしてそれは生きていくことそのものだってきっとそう。彼はそう続けた。
「十六歳とは思えないくらい、たくさんの経験をしてきたんだと思う。でももっともっと、素敵なことがこれからもきっと待ってる。そんなライラを見ていたい。だから ――」
ちらり、と視線を寄せる。
「一緒に頑張ろうね」
彼なりの、まっすぐなメッセージだった。
直球では述べなかったものの、誰よりも彼女に物語を感じ、誰よりも彼女のきらめきを信じている。それが彼であり、彼にもその自負があった。だからこそ、伝えなくてはならないことも、伝えたいこともある。
いろんなことが一斉に舞い込んできた状態のライラは少し混乱気味になっていた。だけど本当に本当に、大切で素敵で、手放してはいけないもの。それが今、たくさんここにあるということははっきりと認識できたし、それがライラにはうれしかった。そしてちゃんと、気持ちが昂るということも。
彼女の返答は、今日何度目かの「ありがとうございますですよ」だった。もっともっと語りたいけれど。もっともっとお返事がしたいけれど。でも多くは語れそうもない。ドキドキで破裂しそうな自分がいるから。
プロデューサーは少しだけ笑みを見せ、あとは黙って車を走らせた。
千夏が彼を「ズルイ」と形容したことがあるけれど、それはこういうところのことなのかも、などとライラは思った。不思議と笑みがこぼれた。
実は彼もまた、この瞬間に感じ入ることはたくさんあった。
ここにきてライラが力強く、たくましい言葉を綴るようになっていること。ライブに向けてきちんと調子を上げてきていること。さっきの質問にしてもそう。大切なことをこぼさないようになってきている、それは間違いのないこと。
いちプロデューサーが、彼女の人生そのものに過度に踏み入るのは果たしてよいことなのか。それは何度も自問した。でも、止まらない時の流れもあれば、止まらない情動もある。それも事実。
彼女をアイドル活動に導いたのは自分なのだ。それは遥か東洋の島国に巡りついた彼女の数奇な運命の一端であり、同時にまだまだ道の途中でもある。ここが最善かはわからない。でも、ここで紡ぐ物語を形にしなければ、彼女にはもっと望まない運命が待っているかもしれないのだ。少なくとも、今できることをしっかり積み重ねていくこと。それが何より大切で。だからこそ、彼女の内面にも、眼前の諸問題にも、一緒に向き合っていく必要がある。
ならば、手離してなるものか。運命に向き合え。これがライラなのだから。寄り添うべき担当アイドル、ライラなのだから。そう心でつぶやいた。
「……プロデューサー殿は」
「ん?」
「運命の出会いを、信じますですか?」
ライラがそっと口を開いた。それは遥か昔、どこかの物語のはじまりにあったような問いかけ。
意味するところはなんだろう。
透き通るようなその瞳の奥に、見据えられていることは。
「………………どうかな。自信はないよ。でも」
信じたいな。できることなら。
少し言葉に迷いつつも、彼はそう語って返した。
夜は、更けてゆく。
45:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2020/11/08(日) 09:37:53.20 :FQVp12gN0
Ⅷ ナッシング・ライク・ザ・サン
聞いていいことなら聞くから、なんでも話してくれよ。友達だからな。
(池袋晶葉/アイドル)
「ライラ、もう少しマイクを寄せた方がいいかも」
「え、あ、はいです」
ライブ前日。リハは滞りなく進行していた。全体の流れを振り返る途中、ライラに声を掛けたのは明日のステージを牽引する事務所のエース、渋谷凛だった。
「……このくらい、でございますか」
「うん、そうだね。声もしっかり拾えるし」
そのくらい近づけた方がいいよ。それでも別にハウらないでしょ。そう説明する凛。
「ありがとうございますです、ライラさん声がちょっと弱いですからねー」
先日のレッスンを思い出すライラ。無理して乱暴な歌い方になるのではなく、声の綺麗さを大切に。そう説明を受けての今。だからこそ、マイクの位置ひとつ、立ち位置ひとつにも工夫がいるのだな、と。
「そんなことないよ。ライラの声はしっかりわかる」
私や、周りのみんなのところならね。凛が語る。
「でも、私たちはその声を、会場全体のファンに届けなきゃいけない。だから、少しでも良い形にすることを考えなきゃ。それだけの話だよ」
声量がどうとか、得意不得意とか、今は気にしなくていいからね、という凛のフォローに心が暖かくなる。だけどそれは、舞台に立ち続けている人ならではの本質を突いた言葉でもある。
今できることは、明日に備えて整えることだけ。だからこそ。
「一緒に、しっかり届けようね」
何事もなかったようにセンターの位置に戻る彼女。事務所の売れっ子であり、多忙な日々を送る彼女だが、ひとつひとつの仕事を蔑ろにしない。スタッフの信頼も厚い。周囲のことをよく見ている。今もそう。
「はい、です」
誰に返答するでもなく、彼女の背中を見つつ、ライラはつぶやいた。
お疲れ様でした、の声が飛び交うリハ後のステージ。最終確認を済ませ、解散となる。ライラも荷物を片付け、スタッフと話をしている渋谷凛のそばへ。様子を伺っていると、向こうもライラに気づいた様子。
「お疲れ様。どうかした?」
「あ、いえ、お疲れ様でございますです。いえ、ごあいさつだけ」
「ふふっ、律儀なんだね。ありがとう。明日はよろしくね」
明日のステージ。メインは言わずもがな渋谷凛その人である。多方面で活躍するようになった今となっては、彼女のステージがこうした小さなハコで見られるのは貴重だし、明日の集客は彼女人気に依るところが少なからずある。そしてそれを一緒に盛り立てるのがライラたちだ。けれど。
「そんなにかしこまらないで。ライラたちだってメインなんだからね」
全員にアピールの時間が設けられている明日のステージ。それはみんなで作るもの。彼女はその意識を忘れないし、参加者みんなにそう伝えていた。渋谷凛というアイドルもかつて、同様の場で背中を押してもらえたところから踏み出したように。
「ライラは、届けたいメッセージはある?」
「メッセージ、でございますか?」
「うん」
凛の問いかけに一瞬戸惑うライラ。しかし。
「……うまく伝えられるかはまだわかりませんですが、気持ちは、ありますです」
噛み締めるように話すライラ。ゆっくりと、でも確かに。
「いいね、その返答」
笑みをこぼす凛。
「私たちは魅せる側。届ける側。でも、私たちも魔法にかかるんだよ。いつだって、信じて立つそのステージでね」
輝きの向こう側を探しにいこうね。彼女は少しだけ得意げに、そうつぶやいた。
Ⅷ ナッシング・ライク・ザ・サン
聞いていいことなら聞くから、なんでも話してくれよ。友達だからな。
(池袋晶葉/アイドル)
「ライラ、もう少しマイクを寄せた方がいいかも」
「え、あ、はいです」
ライブ前日。リハは滞りなく進行していた。全体の流れを振り返る途中、ライラに声を掛けたのは明日のステージを牽引する事務所のエース、渋谷凛だった。
「……このくらい、でございますか」
「うん、そうだね。声もしっかり拾えるし」
そのくらい近づけた方がいいよ。それでも別にハウらないでしょ。そう説明する凛。
「ありがとうございますです、ライラさん声がちょっと弱いですからねー」
先日のレッスンを思い出すライラ。無理して乱暴な歌い方になるのではなく、声の綺麗さを大切に。そう説明を受けての今。だからこそ、マイクの位置ひとつ、立ち位置ひとつにも工夫がいるのだな、と。
「そんなことないよ。ライラの声はしっかりわかる」
私や、周りのみんなのところならね。凛が語る。
「でも、私たちはその声を、会場全体のファンに届けなきゃいけない。だから、少しでも良い形にすることを考えなきゃ。それだけの話だよ」
声量がどうとか、得意不得意とか、今は気にしなくていいからね、という凛のフォローに心が暖かくなる。だけどそれは、舞台に立ち続けている人ならではの本質を突いた言葉でもある。
今できることは、明日に備えて整えることだけ。だからこそ。
「一緒に、しっかり届けようね」
何事もなかったようにセンターの位置に戻る彼女。事務所の売れっ子であり、多忙な日々を送る彼女だが、ひとつひとつの仕事を蔑ろにしない。スタッフの信頼も厚い。周囲のことをよく見ている。今もそう。
「はい、です」
誰に返答するでもなく、彼女の背中を見つつ、ライラはつぶやいた。
お疲れ様でした、の声が飛び交うリハ後のステージ。最終確認を済ませ、解散となる。ライラも荷物を片付け、スタッフと話をしている渋谷凛のそばへ。様子を伺っていると、向こうもライラに気づいた様子。
「お疲れ様。どうかした?」
「あ、いえ、お疲れ様でございますです。いえ、ごあいさつだけ」
「ふふっ、律儀なんだね。ありがとう。明日はよろしくね」
明日のステージ。メインは言わずもがな渋谷凛その人である。多方面で活躍するようになった今となっては、彼女のステージがこうした小さなハコで見られるのは貴重だし、明日の集客は彼女人気に依るところが少なからずある。そしてそれを一緒に盛り立てるのがライラたちだ。けれど。
「そんなにかしこまらないで。ライラたちだってメインなんだからね」
全員にアピールの時間が設けられている明日のステージ。それはみんなで作るもの。彼女はその意識を忘れないし、参加者みんなにそう伝えていた。渋谷凛というアイドルもかつて、同様の場で背中を押してもらえたところから踏み出したように。
「ライラは、届けたいメッセージはある?」
「メッセージ、でございますか?」
「うん」
凛の問いかけに一瞬戸惑うライラ。しかし。
「……うまく伝えられるかはまだわかりませんですが、気持ちは、ありますです」
噛み締めるように話すライラ。ゆっくりと、でも確かに。
「いいね、その返答」
笑みをこぼす凛。
「私たちは魅せる側。届ける側。でも、私たちも魔法にかかるんだよ。いつだって、信じて立つそのステージでね」
輝きの向こう側を探しにいこうね。彼女は少しだけ得意げに、そうつぶやいた。
46:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2020/11/08(日) 09:38:39.62 :FQVp12gN0
* * * * *
「お疲れ様でございますよー」
「あら、いらっしゃい」
同日夕方、レッスンルーム。
ひとり残って自主練をしている相川千夏のもとを訪れたライラ。
「リハもあったんだし、早めに帰って休んだ方がいいんじゃない?」
それとも何か、あったかしら。そう不思議がる千夏に対して、首を振るライラ。
「いえ、前日ですから……ですからこそ、チナツさんのダンスが見られたらいいな、と思いまして」
やっぱり今一度、確認しておきたいのはその姿、その佇まい。それは明日の内容と同じくらい、ライラが大切にしていることだから。
「……まったくもう」
思わず苦笑いの千夏。
「どうかしましたですか?」
「ううん、なんでもないわ」
どうして自分を取り巻く人間は、こんなにも懸命で、苛烈で、魅力的な人ばかりなのだろう、などと思いながら。
目下練習中の動きを振り返る千夏。繊細で、それでいて情熱的なその姿。ライラは見入っていた。求められることも得意とすることも、きっと自分とはちがう。でも、大切なものはきっと通じている。そう感じながら。
「よし、と」
一連の流れが終わったところでポーズをきめる千夏。ライラが拍手で迎えた。
「ずいぶんと余裕があるのね?」
ストレッチをしつつ雑談を交わす。前日で、リハも終えて。もう少し緊張感に包まれているかと思ったら、どこか緩やかな空気を纏っていたライラの姿を千夏は少しだけ、意外に思っていた。
「そう……でしょうか? えへへ」
あまりそういったプレッシャーはない様子のないライラ。とはいえ内心、いろいろ今日までのことがこみあげて来ているのは確かだった。だからこそ彼女に会いにきたわけで。
「チナツさんに会えてよかったでございますよー」
「ご期待に沿えたなら何より、ね」
いつも通りであろうとする、ライラなりの立ち回りだった様子。そう思うと、千夏としても微笑ましさを感じるけれど。
でも、それだけではなくて。
「……チナツさん」
「どうかした?」
「わたくし、やっとスタート地点に立てたのかもしれませんですねー」
まるで千夏に報告しておかなくてはならないことだから、とでもいうように。
「……アイドルの?」
「いえ、『スキ』の、でございます♪」
唐突に綴られる言葉に、驚きを隠せない千夏。
それが意図するところはどこまでなのかわからない。けれど、それを言えるライラの成長にこそ、紛れもない今がある。千夏はそう思った。
「…………まいったわね」
「いえいえ、まいらないでくださいませー」
大袈裟に息を吐いて見せる千夏の言葉を、ライラが遮る。
わたくしはチナツさんに教わってこそ、今ここにいるのですから。そう話す彼女は凛々しかった。
「ありがとう。素敵になったわね、ライラ」
笑い合った。
「チナツさんとの特訓の成果、明日、お見せできたらなと思いますです」
「光栄ね。楽しみにしてるわ」
光栄、という言い回しを使った千夏。事情どうあれ、刺激と学びの真っ只中で成長を続けるライラは魅力的で、そのきらめきの一端にでも貢献できているなら誇らしい、と。
相川千夏の魅力もまた枚挙に遑がないが、年少者にも敬意を忘れないこと、子供も無闇に子供扱いしないこと ―― それはきっと、彼女の何より素敵なところ。
「まだまだこれからよ、私も」
深呼吸をひとつして、千夏はぽつりとつぶやいた。自身が立派な人だなどとは決して思わないけれど、積み重ねてきたことは確かにあって、信じていることだってたくさんある。それと同じくらい、向上心も、ちょっとした欲も。だからこそ。
「ライラの言動やきらめき、あるいはその勇気に、教えられることもたくさんあるわ」
「……もしそうなら、わたくしもコーエーでございます♪」
「お互い様、ね」
そう言って笑みを交わす。
「私のステージも、千秋のステージも、きっとそれぞれに自分の世界があったと思っているの。明日ライラがステージで見せてくれる『ライラの世界』、楽しみにしてるわね」
ウインクひとつ。心なしかご機嫌の千夏。うなずくライラ。
千夏のレッスンを経て。千秋のライブを体験して。
「千の夏を超えて。千の秋を超えて。そして ―― 千の夜を超える。それがあなた、ライラなのかしら。なんてね」
「千夜一夜にオモイをハセテ……で、ございますね♪」
小粋な言葉が交わされる。
夜は、更けててゆく。
* * * * *
「お疲れ様でございますよー」
「あら、いらっしゃい」
同日夕方、レッスンルーム。
ひとり残って自主練をしている相川千夏のもとを訪れたライラ。
「リハもあったんだし、早めに帰って休んだ方がいいんじゃない?」
それとも何か、あったかしら。そう不思議がる千夏に対して、首を振るライラ。
「いえ、前日ですから……ですからこそ、チナツさんのダンスが見られたらいいな、と思いまして」
やっぱり今一度、確認しておきたいのはその姿、その佇まい。それは明日の内容と同じくらい、ライラが大切にしていることだから。
「……まったくもう」
思わず苦笑いの千夏。
「どうかしましたですか?」
「ううん、なんでもないわ」
どうして自分を取り巻く人間は、こんなにも懸命で、苛烈で、魅力的な人ばかりなのだろう、などと思いながら。
目下練習中の動きを振り返る千夏。繊細で、それでいて情熱的なその姿。ライラは見入っていた。求められることも得意とすることも、きっと自分とはちがう。でも、大切なものはきっと通じている。そう感じながら。
「よし、と」
一連の流れが終わったところでポーズをきめる千夏。ライラが拍手で迎えた。
「ずいぶんと余裕があるのね?」
ストレッチをしつつ雑談を交わす。前日で、リハも終えて。もう少し緊張感に包まれているかと思ったら、どこか緩やかな空気を纏っていたライラの姿を千夏は少しだけ、意外に思っていた。
「そう……でしょうか? えへへ」
あまりそういったプレッシャーはない様子のないライラ。とはいえ内心、いろいろ今日までのことがこみあげて来ているのは確かだった。だからこそ彼女に会いにきたわけで。
「チナツさんに会えてよかったでございますよー」
「ご期待に沿えたなら何より、ね」
いつも通りであろうとする、ライラなりの立ち回りだった様子。そう思うと、千夏としても微笑ましさを感じるけれど。
でも、それだけではなくて。
「……チナツさん」
「どうかした?」
「わたくし、やっとスタート地点に立てたのかもしれませんですねー」
まるで千夏に報告しておかなくてはならないことだから、とでもいうように。
「……アイドルの?」
「いえ、『スキ』の、でございます♪」
唐突に綴られる言葉に、驚きを隠せない千夏。
それが意図するところはどこまでなのかわからない。けれど、それを言えるライラの成長にこそ、紛れもない今がある。千夏はそう思った。
「…………まいったわね」
「いえいえ、まいらないでくださいませー」
大袈裟に息を吐いて見せる千夏の言葉を、ライラが遮る。
わたくしはチナツさんに教わってこそ、今ここにいるのですから。そう話す彼女は凛々しかった。
「ありがとう。素敵になったわね、ライラ」
笑い合った。
「チナツさんとの特訓の成果、明日、お見せできたらなと思いますです」
「光栄ね。楽しみにしてるわ」
光栄、という言い回しを使った千夏。事情どうあれ、刺激と学びの真っ只中で成長を続けるライラは魅力的で、そのきらめきの一端にでも貢献できているなら誇らしい、と。
相川千夏の魅力もまた枚挙に遑がないが、年少者にも敬意を忘れないこと、子供も無闇に子供扱いしないこと ―― それはきっと、彼女の何より素敵なところ。
「まだまだこれからよ、私も」
深呼吸をひとつして、千夏はぽつりとつぶやいた。自身が立派な人だなどとは決して思わないけれど、積み重ねてきたことは確かにあって、信じていることだってたくさんある。それと同じくらい、向上心も、ちょっとした欲も。だからこそ。
「ライラの言動やきらめき、あるいはその勇気に、教えられることもたくさんあるわ」
「……もしそうなら、わたくしもコーエーでございます♪」
「お互い様、ね」
そう言って笑みを交わす。
「私のステージも、千秋のステージも、きっとそれぞれに自分の世界があったと思っているの。明日ライラがステージで見せてくれる『ライラの世界』、楽しみにしてるわね」
ウインクひとつ。心なしかご機嫌の千夏。うなずくライラ。
千夏のレッスンを経て。千秋のライブを体験して。
「千の夏を超えて。千の秋を超えて。そして ―― 千の夜を超える。それがあなた、ライラなのかしら。なんてね」
「千夜一夜にオモイをハセテ……で、ございますね♪」
小粋な言葉が交わされる。
夜は、更けててゆく。
47:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2020/11/08(日) 09:39:14.44 :FQVp12gN0
* * * * *
「プロデューサー殿、今日の夜はほとんど満月だそうでございますよ」
「お、そうなんだ。……ほとんど?」
「はいです♪」
ライブ当日、開場前の控え室。まだ慌ただしく準備が進む中だが、ライラは他のアイドルとともにメイクを終え、衣装にも袖を通し、用意は万全となった。
ダンスを振り返る者、歌詞を確認する者、無言で集中する者。皆それぞれに開幕までの時間を過ごす。そんな中、ライラはそっとプロデューサーに声を掛けた。
さっき偶然聞いたことでございます、綺麗だとよいですね、と補足する。スマホの天気アプリを開くと、確かに今夜は月齢十四・八。
ぽわっとした、いつものトーンの彼女だ。
「天気もいいし、きっと綺麗だよ」
「そうですかー。嬉しいですね」
殊の外落ち着いている様子。プロデューサーから見ても、なんだかとても頼もしい。だけどその瞳からは、いつも以上に真剣さが見てとれて。
「プロデューサー殿」
「うん?」
「今日のステージ、ちゃんとできたら」
「うん」
ライラは深呼吸をひとつ。
「そのときは……そのときは、暖かな抱擁で迎えてくださったら、嬉しいです」
いつになく情熱的で、だけど恥ずかしさもあるようで。近くに寄ってそっと、そっと。ささやくように届けられたライラの言葉に、驚くプロデューサー。
だけどそれは、今日に向けて頑張ってきた証でもあるし、今日を大切にする決意の現れでもある。それは彼にも伝わった。
視線が交差する。少しだけ戸惑いを見せつつも、そっとうなずいてみせる彼。
えへへ、と照れつつ笑みを寄せるライラ。
ああ、素敵だな。そうひとりごちるプロデューサー。純粋に、ただ純粋に、彼女の魅力を目の当たりにする。それはきっと彼女が今、ここにいるからなのだと実感する。
ごほん、とわざとらしく咳払いをひとつ。そして少しだけ彼女のそばに寄って。彼もまた、ささやくように言葉を返す。
「……みんなのライブ、みんなのステージ。でも同時に、ライラのためのステージでもあるからね。それはみんなも同じ。だから、遠慮はなしで。光り輝く舞台の上も、きっと綺麗な今宵の月も。自分のためだと思って、欲張ってみよう」
積極的にね。そんな言葉に背中を押され、ライラもまたゆっくりと、でも確かにうなずいた。彼のこういう語りが、ライラは大好きだ。
メッセージくださーい、と言って寄ってきた楽屋裏カメラに「おー。こんにちはですよー。ライラさんでございますー、頑張りますー」と丁寧なご挨拶とお辞儀。近い近い、とカメラさんに言われて立ち位置を直して、周囲からも笑いが起こって。和やかな空気がそこにあった。いつもと変わらぬ優しいライラの姿に、だけどしっかりと意思を感じる背中に、心なしかひときわ綺麗に見えるその横顔に、プロデューサーもドキドキが隠せなかった。
「……じゃあ、そろそろ行こうか」
「「「はいっ」」」
こちらへやってくるスタッフの様子に気づいた渋谷凛が、率先して声を掛けた。全員が間髪をいれず応じる。刹那、空気が研ぎ澄まされていくのを、その場にいる全員が感じ取った。
幕が開く。それは関わる全ての人にとっての、大切なひととき。
* * * * *
「プロデューサー殿、今日の夜はほとんど満月だそうでございますよ」
「お、そうなんだ。……ほとんど?」
「はいです♪」
ライブ当日、開場前の控え室。まだ慌ただしく準備が進む中だが、ライラは他のアイドルとともにメイクを終え、衣装にも袖を通し、用意は万全となった。
ダンスを振り返る者、歌詞を確認する者、無言で集中する者。皆それぞれに開幕までの時間を過ごす。そんな中、ライラはそっとプロデューサーに声を掛けた。
さっき偶然聞いたことでございます、綺麗だとよいですね、と補足する。スマホの天気アプリを開くと、確かに今夜は月齢十四・八。
ぽわっとした、いつものトーンの彼女だ。
「天気もいいし、きっと綺麗だよ」
「そうですかー。嬉しいですね」
殊の外落ち着いている様子。プロデューサーから見ても、なんだかとても頼もしい。だけどその瞳からは、いつも以上に真剣さが見てとれて。
「プロデューサー殿」
「うん?」
「今日のステージ、ちゃんとできたら」
「うん」
ライラは深呼吸をひとつ。
「そのときは……そのときは、暖かな抱擁で迎えてくださったら、嬉しいです」
いつになく情熱的で、だけど恥ずかしさもあるようで。近くに寄ってそっと、そっと。ささやくように届けられたライラの言葉に、驚くプロデューサー。
だけどそれは、今日に向けて頑張ってきた証でもあるし、今日を大切にする決意の現れでもある。それは彼にも伝わった。
視線が交差する。少しだけ戸惑いを見せつつも、そっとうなずいてみせる彼。
えへへ、と照れつつ笑みを寄せるライラ。
ああ、素敵だな。そうひとりごちるプロデューサー。純粋に、ただ純粋に、彼女の魅力を目の当たりにする。それはきっと彼女が今、ここにいるからなのだと実感する。
ごほん、とわざとらしく咳払いをひとつ。そして少しだけ彼女のそばに寄って。彼もまた、ささやくように言葉を返す。
「……みんなのライブ、みんなのステージ。でも同時に、ライラのためのステージでもあるからね。それはみんなも同じ。だから、遠慮はなしで。光り輝く舞台の上も、きっと綺麗な今宵の月も。自分のためだと思って、欲張ってみよう」
積極的にね。そんな言葉に背中を押され、ライラもまたゆっくりと、でも確かにうなずいた。彼のこういう語りが、ライラは大好きだ。
メッセージくださーい、と言って寄ってきた楽屋裏カメラに「おー。こんにちはですよー。ライラさんでございますー、頑張りますー」と丁寧なご挨拶とお辞儀。近い近い、とカメラさんに言われて立ち位置を直して、周囲からも笑いが起こって。和やかな空気がそこにあった。いつもと変わらぬ優しいライラの姿に、だけどしっかりと意思を感じる背中に、心なしかひときわ綺麗に見えるその横顔に、プロデューサーもドキドキが隠せなかった。
「……じゃあ、そろそろ行こうか」
「「「はいっ」」」
こちらへやってくるスタッフの様子に気づいた渋谷凛が、率先して声を掛けた。全員が間髪をいれず応じる。刹那、空気が研ぎ澄まされていくのを、その場にいる全員が感じ取った。
幕が開く。それは関わる全ての人にとっての、大切なひととき。
48:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2020/11/08(日) 09:40:31.07 :FQVp12gN0
Ⅸ ディス・イズ・イット
わたくしは、今、生きています。きらめきとともに。わたくしの意思とともに。
(ライラ/アイドル)
歓声と拍手、コールに包まれる会場。
開演直後からずっと、小さなホールは熱気に満ちていて。
ライラたちはこの空気に、この情熱に、応じるように歌い、踊り、きらめいてみせた。
「ありがとうございます」
センターを司る渋谷凛がマイクを取り、この熱気に応じる。
ライブは滞りなく、万事順調に進んだ。およそ一年半ぶりにこのホールに立った渋谷凛だったが、会場の距離感もステージの使い方も慣れたもの。歌もダンスも申し分なく、見事な凱旋ライブとなった。
ステージに立つ度に綺麗になると噂される渋谷凛。それは日進月歩の努力が形になっていることを、今なお進化を続けていることを、周囲もファンも知っているということ。
隙がない、といえば嘘になる。だけど彼女の立ち振る舞いはいつだって懸命で、可憐で、朗らかで、切なくて、柔らかくて、そして凛として、格好良い。
オーディエンスは知っている。一体感に包まれる彼女のステージを。その空気感を。渋谷凛が、極めて魅力的なアイドルであることを。
いつか辿り着けるその日まで、という印象的なフレーズを高らかに歌いあげ、ポーズを決めたばかりの彼女。彼女の駆けゆく物語はまだまだ、これからなのだ。
そんな彼女が思い出のステージで、今度は後進をプッシュするのだから、いろいろ感慨深いところもあって当然かもしれない。事実、今日この場をいちばん楽しみにしていたのは、渋谷凛本人だったといえる。
「それでは、今日一緒にこの場を盛り上げてくれたみんなの紹介に入りたいと思います」
端から順に紹介を受ける。マイクを渡され、名前を述べたり、今うちこんでいることを話したり、特技を披露したり。偶然にも順番が最後だったライラは、他の人の様子をそっと伺いつつ、言いたいことを反芻して、マイクを待った。
見てくださっていますか。いえ、後ほど、きっと見てくださいますでしょう。
どうか、あの頃のボタンの掛けちがいを、間違いだったと思いませんよう。
そしてわたくしの旅路を、行動を、どうか一蹴するにとどまりませんよう。
わたくしは、今、ここにいます。
わたくしは、今、生きています。
きらめきとともに。わたくしの意思とともに。
「―― では次が最後になります。ライラ、よろしく」
凛から促され、一歩前に出るライラ。
「こんにちはでございます。ライラと申しますですー。ドバイからやってまいりました」
何はともあれ、まずはいつもの挨拶。そしてしっかり一礼。いつものライラらしい姿に、ファンから応援の声があがる。ニコリ、とそちらに笑みを返す。
今は毎日レッスンに明け暮れていること。発見の連続であること。日々が楽しいこと。そうした説明を経て、彼女の話は本題へ。
「みなさんは、どんな『好き』を持っていらっしゃいますでしょうか」
その場の空気が、少し変わった。傾聴すべき雰囲気を察し、声援が少し落ち着く。
「ライラさんは、いろいろあって日本にきて、ご縁あってアイドルをさせて頂いております。まだまだ未熟で、ご迷惑ばかり。ですが、支えてくださるスタッフのみなさんやアイドルのみなさん、そして応援をくださるファンのみなさんなど、たくさんの方に暖かくして頂いております。ライラさん、とっても幸せ者でございますですね。……ライラさんを素敵だと言ってくださる方もいて。わたくしはこんな今が大好きですねー」
優しい拍手が起こる。それは嘘偽りのない、彼女の純粋な気持ち。
「きっとこれからも、いろいろなことがあるのだと思います。でも、だから、少しずつでも成長して、素敵になって、みなさんにもっともっと喜んで頂けるライラさんになれたら……と」
そう言って、深呼吸をひとつ。
「お返しの気持ちもいっぱいありますですが、ステージ上で、キラキラを届けること。それがアイドルの理想のひとつだと教えて頂きました。ですので……少しだけ、歌をお届け致します」
一拍間を置いて、そっと、しかし確かに、ライラはアラビア語の歌をそらんじはじめた。
遠い彼方の 煌めき見つめ
少女は歌う 高く高く
届かぬ声を もっと夢方へ
あけの明星 今いずこ
遠い彼方の 記憶を浮かべ
少女は舞い 少女は語る
想いも夢も 風に乗せて
はるかな故郷 今いずこ
ライラがアピールに選んだもの。一つは、故郷に伝わる古い詩だった。
Ⅸ ディス・イズ・イット
わたくしは、今、生きています。きらめきとともに。わたくしの意思とともに。
(ライラ/アイドル)
歓声と拍手、コールに包まれる会場。
開演直後からずっと、小さなホールは熱気に満ちていて。
ライラたちはこの空気に、この情熱に、応じるように歌い、踊り、きらめいてみせた。
「ありがとうございます」
センターを司る渋谷凛がマイクを取り、この熱気に応じる。
ライブは滞りなく、万事順調に進んだ。およそ一年半ぶりにこのホールに立った渋谷凛だったが、会場の距離感もステージの使い方も慣れたもの。歌もダンスも申し分なく、見事な凱旋ライブとなった。
ステージに立つ度に綺麗になると噂される渋谷凛。それは日進月歩の努力が形になっていることを、今なお進化を続けていることを、周囲もファンも知っているということ。
隙がない、といえば嘘になる。だけど彼女の立ち振る舞いはいつだって懸命で、可憐で、朗らかで、切なくて、柔らかくて、そして凛として、格好良い。
オーディエンスは知っている。一体感に包まれる彼女のステージを。その空気感を。渋谷凛が、極めて魅力的なアイドルであることを。
いつか辿り着けるその日まで、という印象的なフレーズを高らかに歌いあげ、ポーズを決めたばかりの彼女。彼女の駆けゆく物語はまだまだ、これからなのだ。
そんな彼女が思い出のステージで、今度は後進をプッシュするのだから、いろいろ感慨深いところもあって当然かもしれない。事実、今日この場をいちばん楽しみにしていたのは、渋谷凛本人だったといえる。
「それでは、今日一緒にこの場を盛り上げてくれたみんなの紹介に入りたいと思います」
端から順に紹介を受ける。マイクを渡され、名前を述べたり、今うちこんでいることを話したり、特技を披露したり。偶然にも順番が最後だったライラは、他の人の様子をそっと伺いつつ、言いたいことを反芻して、マイクを待った。
見てくださっていますか。いえ、後ほど、きっと見てくださいますでしょう。
どうか、あの頃のボタンの掛けちがいを、間違いだったと思いませんよう。
そしてわたくしの旅路を、行動を、どうか一蹴するにとどまりませんよう。
わたくしは、今、ここにいます。
わたくしは、今、生きています。
きらめきとともに。わたくしの意思とともに。
「―― では次が最後になります。ライラ、よろしく」
凛から促され、一歩前に出るライラ。
「こんにちはでございます。ライラと申しますですー。ドバイからやってまいりました」
何はともあれ、まずはいつもの挨拶。そしてしっかり一礼。いつものライラらしい姿に、ファンから応援の声があがる。ニコリ、とそちらに笑みを返す。
今は毎日レッスンに明け暮れていること。発見の連続であること。日々が楽しいこと。そうした説明を経て、彼女の話は本題へ。
「みなさんは、どんな『好き』を持っていらっしゃいますでしょうか」
その場の空気が、少し変わった。傾聴すべき雰囲気を察し、声援が少し落ち着く。
「ライラさんは、いろいろあって日本にきて、ご縁あってアイドルをさせて頂いております。まだまだ未熟で、ご迷惑ばかり。ですが、支えてくださるスタッフのみなさんやアイドルのみなさん、そして応援をくださるファンのみなさんなど、たくさんの方に暖かくして頂いております。ライラさん、とっても幸せ者でございますですね。……ライラさんを素敵だと言ってくださる方もいて。わたくしはこんな今が大好きですねー」
優しい拍手が起こる。それは嘘偽りのない、彼女の純粋な気持ち。
「きっとこれからも、いろいろなことがあるのだと思います。でも、だから、少しずつでも成長して、素敵になって、みなさんにもっともっと喜んで頂けるライラさんになれたら……と」
そう言って、深呼吸をひとつ。
「お返しの気持ちもいっぱいありますですが、ステージ上で、キラキラを届けること。それがアイドルの理想のひとつだと教えて頂きました。ですので……少しだけ、歌をお届け致します」
一拍間を置いて、そっと、しかし確かに、ライラはアラビア語の歌をそらんじはじめた。
遠い彼方の 煌めき見つめ
少女は歌う 高く高く
届かぬ声を もっと夢方へ
あけの明星 今いずこ
遠い彼方の 記憶を浮かべ
少女は舞い 少女は語る
想いも夢も 風に乗せて
はるかな故郷 今いずこ
ライラがアピールに選んだもの。一つは、故郷に伝わる古い詩だった。
49:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2020/11/08(日) 09:41:06.93 :FQVp12gN0
* * * * *
「四行連詩集、というのがあるんだね」
時戻って十日前、夜の事務所。
ライラがやりたいこととして、この話を持ち出した時のこと。
「はいです」
ライラは自分でも確認をするように、丁寧に説明を始めた。
四行詩、または四行連ともいうそれ。その名の通り四行を一句として綴られた詩のことを指す。洋の東西を問わず、詩の類は古くから各地に存在し、定型を変えたり時流を取り入れたりしつつも脈々と歴史を築いてきた。ライラの地元でも、それらは確かにあったとされている。
字数から韻律、必句や禁句など様々な制約や決まり事を含むものがある一方で、自由に綴ったものまでそのありようは様々だ。そして、ライラが知るものも当然ある。
「母がむかし、何度も口ずさんでくださいました」
ライラが知るそれは詩であり歌でもあった。すなわち、母が聞かせてくれたメロディがあったのだ。それが受け継がれた伝承的な音楽なのか、母が勝手につけたものなのかはわからない。しかし彼女の心には、確かに残っていた。
そんな記憶を辿るように、思い出にそっと触れるように。ライラはゆっくりと口ずさんだ。
説明のために軽く声に出してみただけだったけれど、プロデューサーの反応は好意的だった。
「優しい、素敵なメロディだね」
ライラにぴったりかもしれない。そう彼は続けた。そう思ってくれるなら嬉しい。
「……どうしてこの曲を?」
「これはライラさんのアピールの場であり、同時に、故郷のみなさまへの宣言の場でもあります」
彼の問いかけに、きちんと目を見て言葉を返すライラ。
* * * * *
「四行連詩集、というのがあるんだね」
時戻って十日前、夜の事務所。
ライラがやりたいこととして、この話を持ち出した時のこと。
「はいです」
ライラは自分でも確認をするように、丁寧に説明を始めた。
四行詩、または四行連ともいうそれ。その名の通り四行を一句として綴られた詩のことを指す。洋の東西を問わず、詩の類は古くから各地に存在し、定型を変えたり時流を取り入れたりしつつも脈々と歴史を築いてきた。ライラの地元でも、それらは確かにあったとされている。
字数から韻律、必句や禁句など様々な制約や決まり事を含むものがある一方で、自由に綴ったものまでそのありようは様々だ。そして、ライラが知るものも当然ある。
「母がむかし、何度も口ずさんでくださいました」
ライラが知るそれは詩であり歌でもあった。すなわち、母が聞かせてくれたメロディがあったのだ。それが受け継がれた伝承的な音楽なのか、母が勝手につけたものなのかはわからない。しかし彼女の心には、確かに残っていた。
そんな記憶を辿るように、思い出にそっと触れるように。ライラはゆっくりと口ずさんだ。
説明のために軽く声に出してみただけだったけれど、プロデューサーの反応は好意的だった。
「優しい、素敵なメロディだね」
ライラにぴったりかもしれない。そう彼は続けた。そう思ってくれるなら嬉しい。
「……どうしてこの曲を?」
「これはライラさんのアピールの場であり、同時に、故郷のみなさまへの宣言の場でもあります」
彼の問いかけに、きちんと目を見て言葉を返すライラ。
50:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2020/11/08(日) 09:41:46.21 :FQVp12gN0
* * * * *
二句八節を終えたところで区切りとなり、一礼するライラ。拍手が起こる。アラビア語、しかも古典表現なので言い回しも少し独特。それでも、透き通った綺麗な声に、その仕草に、表情に、ファンを魅了するだけのものはじゅうぶんにあった。
ライラが再びマイクを口に寄せ、説明を始めた。これは故郷に伝わる歌ですと。そして、遠く離れても頑張るという決意の現れでもあると。
「ライラさん、日本に来て、いろんな方とお話をしましたです。それはとてもとても大切な時間で、とてもとても大切な宝物でございます」
希望や笑顔ばかりではなく、むしろ苦しみや悲しみがいっぱいあって。それでも人は生きるし、それでも人はきらめきを求める。
「人は助け合いと聞きます。ライラさんを応援してくださいますみなさん、スキでいてくださいますみなさん。ありがとうございますですよ。……ゆっくりとまた、お話ができたら嬉しいでございます」
その「みなさん」には、故郷の父母も入っている。
「これは、宣言。……いえ、叫びでございますね」
先の四行連、実は二句目の四行は文献に存在しない。
いわゆる返歌のようなもので、後半はライラが考えに考えて出した、アンサーなのだ。
メイドさんとプロデューサーに言葉を確認してもらいつつ形にしたものの、それはまぎれもなく、ライラの言葉。
「わたくしは、これからも今を噛み締めながら、綴りながら、スキを大切にしながら生きていきます。だから ――」
だから。そう言って彼女は視線を動かした。カメラを探しているのか。
「だから ―― これからも見守っていてほしいです」
もっともっと、素敵なライラさんになれますように。そうつぶやいて、笑顔を見せた。それは何より強く、何より確かなメッセージ。
「わたくしなりの、叫び。……アイ、スクリーム、でございますね♪」
間髪入れず、おおー、という歓声と拍手があがったことに、彼女自身もほっとしていた。それは少なくとも目の前のファンには「届いた」ということで、それはつまりメッセージが間違っていないだろうということ。故郷はどうだろう。届くことを信じたい。そう思いつつ。
* * * * *
二句八節を終えたところで区切りとなり、一礼するライラ。拍手が起こる。アラビア語、しかも古典表現なので言い回しも少し独特。それでも、透き通った綺麗な声に、その仕草に、表情に、ファンを魅了するだけのものはじゅうぶんにあった。
ライラが再びマイクを口に寄せ、説明を始めた。これは故郷に伝わる歌ですと。そして、遠く離れても頑張るという決意の現れでもあると。
「ライラさん、日本に来て、いろんな方とお話をしましたです。それはとてもとても大切な時間で、とてもとても大切な宝物でございます」
希望や笑顔ばかりではなく、むしろ苦しみや悲しみがいっぱいあって。それでも人は生きるし、それでも人はきらめきを求める。
「人は助け合いと聞きます。ライラさんを応援してくださいますみなさん、スキでいてくださいますみなさん。ありがとうございますですよ。……ゆっくりとまた、お話ができたら嬉しいでございます」
その「みなさん」には、故郷の父母も入っている。
「これは、宣言。……いえ、叫びでございますね」
先の四行連、実は二句目の四行は文献に存在しない。
いわゆる返歌のようなもので、後半はライラが考えに考えて出した、アンサーなのだ。
メイドさんとプロデューサーに言葉を確認してもらいつつ形にしたものの、それはまぎれもなく、ライラの言葉。
「わたくしは、これからも今を噛み締めながら、綴りながら、スキを大切にしながら生きていきます。だから ――」
だから。そう言って彼女は視線を動かした。カメラを探しているのか。
「だから ―― これからも見守っていてほしいです」
もっともっと、素敵なライラさんになれますように。そうつぶやいて、笑顔を見せた。それは何より強く、何より確かなメッセージ。
「わたくしなりの、叫び。……アイ、スクリーム、でございますね♪」
間髪入れず、おおー、という歓声と拍手があがったことに、彼女自身もほっとしていた。それは少なくとも目の前のファンには「届いた」ということで、それはつまりメッセージが間違っていないだろうということ。故郷はどうだろう。届くことを信じたい。そう思いつつ。
51:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2020/11/08(日) 09:42:22.76 :FQVp12gN0
言葉遊びは華。重ねたり、隠したり。
「好きって気持ちを叫ぶのは、夏のお嬢さんの特権ですね。アイスクリーム、だけに♪」
それは先日事務所で居合わせた長富蓮実の言葉だった。買ってきたアイスをおいしそうに頬張るライラのそばにきて、ニコニコしていたのが印象深い。意味を汲みきれずライラが質問すると、面倒がることなく丁寧に説明してくれた。
「これは懐かしい曲のお話ですけど、それに限らず言葉遊びって本当にいろいろあるんですよ」
「おもしろいですねー」
勉強になったし、奇遇にも自分の好きなものが言葉として紐づいているようでライラは嬉しかった。それこそ古典から今に至るまで、さまざまな言葉に歌に、メッセージにそれはある。ダジャレというと馬鹿馬鹿しく聞こえるかもしれないけど、紙一重でそれは粋なものになるんだということ。どれも大切な学びだった。
ちなみにこのとき偶然居合わせた矢口美羽が頭を抱える仕草をしながら「アイスクリームだけに! アイ! スクリーム! うわ〜〜〜! そういうのわたしもさらっと言いたーい! でも出てこなーい!」と嘆いていたりもしたのだが、それはまた別の話。
ステージから周囲を見渡す。今、ここに立つ自分は多少なりとも粋なのだろうか。そうだったらいいけれど。そう考えながらライラはふたたび深呼吸。持ち時間はあとわずか。
「♪」
さっきよりかなり元気よく声を放つ。アピールタイムのもう一つ。アカペラでの歌だった。今度は日本語の。
シンデレラ、という耳慣れたフレーズがあたりに響く。
そう、この事務所ではもはやおなじみの曲。練習でも何度となく歌い、踊ってきた曲。幾人もの先輩たちが歌い披露してきた曲。そして、千秋があの時アンコールで歌ってみせてくれた曲でもある。
「♪ ♪ ♪」
ライラが披露したのは冒頭からのほんの一節だけ。
それでも、会場の皆が魅了されるには十分だった。
映し出された彼女の姿と、たくさんの境遇を越えてきたであろうという事実と、そんな彼女が今、柔らかで澄んだ声と、快活な笑顔を見せつつ、このステージできらめいているということ。
お願いは、誰の何に対するお願いなのだろう。シンデレラとは、誰のことだろう。
輝く日とは、いつのことだろう。
そんな様々を内包しつつ、だけどそんなことを全て忘れさせてくれるような、彼女の瞳。ただ純粋に、ステージに立つ彼女は美しかった。
ごくわずかな尺だったものの、ファンはちゃんと乗ってきた。即座にケミカルライトを光らせ反応し、ライラの歌い終えと入れ違いに始まるコールパート。「ハイ! ハイ!」という力強い声の波が起こる。あー、今日はここまででございますよー、とライラが控えめにコールを抑える仕草を見せ、ちょっとした笑いと朗らかな空気になった。代わりに拍手と歓声が続いた。改めて一礼するライラに、喝采が起こる。
反応はバッチリだったといっていい。アイドル・ライラはここにいる。確かな自分と、確かなファンをそこに抱いて。それがわかるひとときだった。
言葉遊びは華。重ねたり、隠したり。
「好きって気持ちを叫ぶのは、夏のお嬢さんの特権ですね。アイスクリーム、だけに♪」
それは先日事務所で居合わせた長富蓮実の言葉だった。買ってきたアイスをおいしそうに頬張るライラのそばにきて、ニコニコしていたのが印象深い。意味を汲みきれずライラが質問すると、面倒がることなく丁寧に説明してくれた。
「これは懐かしい曲のお話ですけど、それに限らず言葉遊びって本当にいろいろあるんですよ」
「おもしろいですねー」
勉強になったし、奇遇にも自分の好きなものが言葉として紐づいているようでライラは嬉しかった。それこそ古典から今に至るまで、さまざまな言葉に歌に、メッセージにそれはある。ダジャレというと馬鹿馬鹿しく聞こえるかもしれないけど、紙一重でそれは粋なものになるんだということ。どれも大切な学びだった。
ちなみにこのとき偶然居合わせた矢口美羽が頭を抱える仕草をしながら「アイスクリームだけに! アイ! スクリーム! うわ〜〜〜! そういうのわたしもさらっと言いたーい! でも出てこなーい!」と嘆いていたりもしたのだが、それはまた別の話。
ステージから周囲を見渡す。今、ここに立つ自分は多少なりとも粋なのだろうか。そうだったらいいけれど。そう考えながらライラはふたたび深呼吸。持ち時間はあとわずか。
「♪」
さっきよりかなり元気よく声を放つ。アピールタイムのもう一つ。アカペラでの歌だった。今度は日本語の。
シンデレラ、という耳慣れたフレーズがあたりに響く。
そう、この事務所ではもはやおなじみの曲。練習でも何度となく歌い、踊ってきた曲。幾人もの先輩たちが歌い披露してきた曲。そして、千秋があの時アンコールで歌ってみせてくれた曲でもある。
「♪ ♪ ♪」
ライラが披露したのは冒頭からのほんの一節だけ。
それでも、会場の皆が魅了されるには十分だった。
映し出された彼女の姿と、たくさんの境遇を越えてきたであろうという事実と、そんな彼女が今、柔らかで澄んだ声と、快活な笑顔を見せつつ、このステージできらめいているということ。
お願いは、誰の何に対するお願いなのだろう。シンデレラとは、誰のことだろう。
輝く日とは、いつのことだろう。
そんな様々を内包しつつ、だけどそんなことを全て忘れさせてくれるような、彼女の瞳。ただ純粋に、ステージに立つ彼女は美しかった。
ごくわずかな尺だったものの、ファンはちゃんと乗ってきた。即座にケミカルライトを光らせ反応し、ライラの歌い終えと入れ違いに始まるコールパート。「ハイ! ハイ!」という力強い声の波が起こる。あー、今日はここまででございますよー、とライラが控えめにコールを抑える仕草を見せ、ちょっとした笑いと朗らかな空気になった。代わりに拍手と歓声が続いた。改めて一礼するライラに、喝采が起こる。
反応はバッチリだったといっていい。アイドル・ライラはここにいる。確かな自分と、確かなファンをそこに抱いて。それがわかるひとときだった。
52:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2020/11/08(日) 09:43:07.14 :FQVp12gN0
* * * * *
ステージ裏。丁寧にお辞儀をするライラの様子をモニタで眺めながら、会場の盛り上がりを実感するスタッフたち。その中に、プロデューサーとエージェントの姿があった。
「これを、映像として」
「そうです。もちろん幾らか編集でまとめはしますけど。いい形で映っていることを願います」
そして、いい形で届くことも期待しています。そうプロデューサーは告げた。
「……今日のここまでの展開、あなたの想定通りのようで何よりです」
いや、これまでも含め、でしょうか。エージェントはつぶやいた。
「立て続けに三本のライブを、それも形式やテーマの違う形のものを入れていらっしゃったと聞きました。しかも三本目にこのような時間を設けて。メッセージも伝えて。ファンとの疎通もしてみせて。そしてこの盛り上がり。……ここまで計算されて?」
偶然ですよ、とプロデューサーは否定してみせた。
「綱渡りなことは多かったですし、今はまず、トラブルなどなく済んで一安心です」
それは嘘偽りない本音だった。
「……それに、彼女の成長も」
想定だって想像だって、遥かに越えていった。
まだまだ未熟なところはもちろんあるけれど。
それ以上に、本当に綺麗で、立派で、素敵な女性で。
いま、彼女はアイドルとして、人として、まっすぐに美しい。
それはプロデューサーの正直な気持ちだった。
「それに、まだライラのお国のみなさんへ説明せねばなりませんし」
「それはそうですね。……しかし」
そちらは焦らずとも、とエージェント。
「ここまでして頂けたのです。今度は私が、頑張ってみせる番でしょう」
そう言って、手元の資料の束を抱え直した。
「本国に見せるものはまた一度、きっちり詰めましょう。早急にまとめますのでご確認頂ければと思います」
「はい。こちらも映像の準備含め、急ぐようには致します。少しだけ時間はください」
「もちろんです。その間に、私もやれることを進めて参りますので」
一礼を交わす。
* * * * *
ステージ裏。丁寧にお辞儀をするライラの様子をモニタで眺めながら、会場の盛り上がりを実感するスタッフたち。その中に、プロデューサーとエージェントの姿があった。
「これを、映像として」
「そうです。もちろん幾らか編集でまとめはしますけど。いい形で映っていることを願います」
そして、いい形で届くことも期待しています。そうプロデューサーは告げた。
「……今日のここまでの展開、あなたの想定通りのようで何よりです」
いや、これまでも含め、でしょうか。エージェントはつぶやいた。
「立て続けに三本のライブを、それも形式やテーマの違う形のものを入れていらっしゃったと聞きました。しかも三本目にこのような時間を設けて。メッセージも伝えて。ファンとの疎通もしてみせて。そしてこの盛り上がり。……ここまで計算されて?」
偶然ですよ、とプロデューサーは否定してみせた。
「綱渡りなことは多かったですし、今はまず、トラブルなどなく済んで一安心です」
それは嘘偽りない本音だった。
「……それに、彼女の成長も」
想定だって想像だって、遥かに越えていった。
まだまだ未熟なところはもちろんあるけれど。
それ以上に、本当に綺麗で、立派で、素敵な女性で。
いま、彼女はアイドルとして、人として、まっすぐに美しい。
それはプロデューサーの正直な気持ちだった。
「それに、まだライラのお国のみなさんへ説明せねばなりませんし」
「それはそうですね。……しかし」
そちらは焦らずとも、とエージェント。
「ここまでして頂けたのです。今度は私が、頑張ってみせる番でしょう」
そう言って、手元の資料の束を抱え直した。
「本国に見せるものはまた一度、きっちり詰めましょう。早急にまとめますのでご確認頂ければと思います」
「はい。こちらも映像の準備含め、急ぐようには致します。少しだけ時間はください」
「もちろんです。その間に、私もやれることを進めて参りますので」
一礼を交わす。
53:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2020/11/08(日) 09:43:59.94 :FQVp12gN0
「……本当は少し、あなたを警戒していました」
胸襟を開く空気に思えた。いや、今ならもう少しだけ話せるかもしれないと、そんな気分になったプロデューサー。いささか踏み込んだ言葉だったかもとは思ったが、しかしエージェントは気にする様子でもなく。
「それは当然ですよね。わかりますよ。……今はいいんですか?」
「ここまでのプロデュース、否定をすることなく見守っていてくださったんです。たとえ立場がどうあれ感謝ですし、今度は僕が信じる限りですよ」
「ありがとうございます」
改めてプロデューサーは思う。自分だけではどうにもならないことは、信じて託す。それはお互い様なのかもしれない。自分も、ライラも、あるいはエージェントも。
「……本当は、お国からの突き上げはもっと厳しかったのでは?」
「どうでしょう。お察し、ですかね」
濁す言葉に、笑い合った二人。
「でも、それをうまく介したりコントロールしたりするのが、エージェントですから。……それに」
それに、なんだかんだ、私はライラ様のファンなんですよ。
そう話すエージェントは、どこか楽しげだった。
「光栄ですね」
担当プロデューサーとして、何よりも誇らしいことかもしれない、などとプロデューサーは感じつつ。
「あなたはプロデューサーという肩書きなのに、どこかマネージャーみたいだなと思っていました。寄り添うのがお仕事のようで。だけど今日確信しました。あなたは紛れもなく、プロデューサーです」
それも、唯一無二の。そう指摘するエージェント。
「ライラ様にとってあなたの存在は不可欠です。支えてあげてください。これからも」
また連絡を。そう言ってエージェントは一足早く退席した。
今一度、モニタ越しにライラを眺めるプロデューサー。
改めて思う。また一歩、彼女は素敵になった。でもそのきらめきの道は、まだまだこれから続いていくのだ。僕も頑張らなくては。もっともっと、光り輝く舞台へ彼女を連れて行きたい。そしてもっともっと、彼女に失望されない確かなプロデューサーでありたい、と。
「……けれど、ね」
今この瞬間くらいは、彼女に見惚れていたっていいだろう?
僕もきっと、ライラが大好きな一人なのだから。
そんなことを一人、つぶやいた。
「……本当は少し、あなたを警戒していました」
胸襟を開く空気に思えた。いや、今ならもう少しだけ話せるかもしれないと、そんな気分になったプロデューサー。いささか踏み込んだ言葉だったかもとは思ったが、しかしエージェントは気にする様子でもなく。
「それは当然ですよね。わかりますよ。……今はいいんですか?」
「ここまでのプロデュース、否定をすることなく見守っていてくださったんです。たとえ立場がどうあれ感謝ですし、今度は僕が信じる限りですよ」
「ありがとうございます」
改めてプロデューサーは思う。自分だけではどうにもならないことは、信じて託す。それはお互い様なのかもしれない。自分も、ライラも、あるいはエージェントも。
「……本当は、お国からの突き上げはもっと厳しかったのでは?」
「どうでしょう。お察し、ですかね」
濁す言葉に、笑い合った二人。
「でも、それをうまく介したりコントロールしたりするのが、エージェントですから。……それに」
それに、なんだかんだ、私はライラ様のファンなんですよ。
そう話すエージェントは、どこか楽しげだった。
「光栄ですね」
担当プロデューサーとして、何よりも誇らしいことかもしれない、などとプロデューサーは感じつつ。
「あなたはプロデューサーという肩書きなのに、どこかマネージャーみたいだなと思っていました。寄り添うのがお仕事のようで。だけど今日確信しました。あなたは紛れもなく、プロデューサーです」
それも、唯一無二の。そう指摘するエージェント。
「ライラ様にとってあなたの存在は不可欠です。支えてあげてください。これからも」
また連絡を。そう言ってエージェントは一足早く退席した。
今一度、モニタ越しにライラを眺めるプロデューサー。
改めて思う。また一歩、彼女は素敵になった。でもそのきらめきの道は、まだまだこれから続いていくのだ。僕も頑張らなくては。もっともっと、光り輝く舞台へ彼女を連れて行きたい。そしてもっともっと、彼女に失望されない確かなプロデューサーでありたい、と。
「……けれど、ね」
今この瞬間くらいは、彼女に見惚れていたっていいだろう?
僕もきっと、ライラが大好きな一人なのだから。
そんなことを一人、つぶやいた。
54:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2020/11/08(日) 09:44:43.96 :FQVp12gN0
拍手と歓声の鳴り止まないステージ上で、皆で挨拶。
キラキラとした舞台から観客席を、そしてその向こうを、広がる世界を眺めるライラ。
《生きていくために大切なことは二つ。受け入れる柔軟さと、揺るぎない想い。その両方なの》
母の言葉を思い出す。もっともっと、世界を知って。たくさんのことを受け入れられるようになりたい。そして、揺るぎない想いも、伝えていきたい。自らの言葉で。
ライラは思う。
もう十六歳だから、という言説もきっと間違いではないけれど。
まだ十六歳だから、という世界もきっとあって。自分が今、そこにいる。
だからもっと向こうへ行ける。夢の先へ。彼方へ。みんなとともに、彼とともに。
過去を否定するのではなく。過去をとともに、物語を紡いで今を生きてゆきたい。
「お疲れ様。とっても素敵だったよ」
舞台袖。ライラのもとに真っ先にやってきて声を掛けたのはプロデューサーだった。
わかっていたことだけど、やっぱりとっても嬉しくて。そして少しだけ、照れくさい。そんな気持ちが入り混じるライラ。
「……どうかした?」
「いえ、なんでもございませんですよー。ありがとうございますです♪ ふふ」
表情を隠すようにタオルを受け取るライラ。いろんな感情が混ざりすぎて、うまく言葉が出ない。
「……えっと、あー」
「?」
今度はプロデューサーが恥ずかしそうに、視線を泳がせる。何だろう、と不思議がるライラの前で、そっと手を開く仕草を見せる。
「……ハグでお出迎え、だったっけ」
ステージ前、楽屋でライラがお願いしたことだった。そういえば、とライラも思い出す。
とはいえ、勢いでしてしまえばよかったものを、間を置いてしまったことで妙な空気が流れる始末。
「改まってとなると、ちょっと恥ずかしいな」
「そうですねー、でも」
でも、大丈夫でごさいますよ。そう言ってライラはそっと、彼に身体を預けた。
優しい優しい抱擁が、彼女を包んだ。
ステージでマイク越しに伝えた言葉を思い出すライラ。
アイ、スクリーム。
それはファンへの、そして故郷のみなさんへの、精一杯のメッセージ。
今日それを言えてよかった。話せてよかった。
歌もダンスも、言葉もすべて。うまくいってよかった。
届くかどうかはわからない。でも、だからこそ、きちんと発信することは大事で。
だからこそ。
だからこそ、アイスクリームをもう一人、しなくてはならない人がいる。
拍手と歓声の鳴り止まないステージ上で、皆で挨拶。
キラキラとした舞台から観客席を、そしてその向こうを、広がる世界を眺めるライラ。
《生きていくために大切なことは二つ。受け入れる柔軟さと、揺るぎない想い。その両方なの》
母の言葉を思い出す。もっともっと、世界を知って。たくさんのことを受け入れられるようになりたい。そして、揺るぎない想いも、伝えていきたい。自らの言葉で。
ライラは思う。
もう十六歳だから、という言説もきっと間違いではないけれど。
まだ十六歳だから、という世界もきっとあって。自分が今、そこにいる。
だからもっと向こうへ行ける。夢の先へ。彼方へ。みんなとともに、彼とともに。
過去を否定するのではなく。過去をとともに、物語を紡いで今を生きてゆきたい。
「お疲れ様。とっても素敵だったよ」
舞台袖。ライラのもとに真っ先にやってきて声を掛けたのはプロデューサーだった。
わかっていたことだけど、やっぱりとっても嬉しくて。そして少しだけ、照れくさい。そんな気持ちが入り混じるライラ。
「……どうかした?」
「いえ、なんでもございませんですよー。ありがとうございますです♪ ふふ」
表情を隠すようにタオルを受け取るライラ。いろんな感情が混ざりすぎて、うまく言葉が出ない。
「……えっと、あー」
「?」
今度はプロデューサーが恥ずかしそうに、視線を泳がせる。何だろう、と不思議がるライラの前で、そっと手を開く仕草を見せる。
「……ハグでお出迎え、だったっけ」
ステージ前、楽屋でライラがお願いしたことだった。そういえば、とライラも思い出す。
とはいえ、勢いでしてしまえばよかったものを、間を置いてしまったことで妙な空気が流れる始末。
「改まってとなると、ちょっと恥ずかしいな」
「そうですねー、でも」
でも、大丈夫でごさいますよ。そう言ってライラはそっと、彼に身体を預けた。
優しい優しい抱擁が、彼女を包んだ。
ステージでマイク越しに伝えた言葉を思い出すライラ。
アイ、スクリーム。
それはファンへの、そして故郷のみなさんへの、精一杯のメッセージ。
今日それを言えてよかった。話せてよかった。
歌もダンスも、言葉もすべて。うまくいってよかった。
届くかどうかはわからない。でも、だからこそ、きちんと発信することは大事で。
だからこそ。
だからこそ、アイスクリームをもう一人、しなくてはならない人がいる。
55:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2020/11/08(日) 09:45:36.28 :FQVp12gN0
「素敵だったわね、千夏さん」
「ええ、ほんとうに」
観客席。今日のステージを一緒に見に来ていた千夏と千秋。拍手が鳴り止むまでそっとしていた千夏が、ようやく腰をあげた。
「さ、行きましょうか」
「声、掛けていかないの?」
舞台裏で労ってあげるのも先輩の役目かもしれないわよ、と千秋。今しかない熱気も熱量も存在することは、彼女たち自身がよくわかっている。
少しだけ立ち止まってみたものの、千夏はすぐに笑みをこぼした。
「大丈夫よ。今日は特に、ね」
そこは彼に任せるわ、と小さく小さくつぶやきつつ。
「素敵だったわね、千夏さん」
「ええ、ほんとうに」
観客席。今日のステージを一緒に見に来ていた千夏と千秋。拍手が鳴り止むまでそっとしていた千夏が、ようやく腰をあげた。
「さ、行きましょうか」
「声、掛けていかないの?」
舞台裏で労ってあげるのも先輩の役目かもしれないわよ、と千秋。今しかない熱気も熱量も存在することは、彼女たち自身がよくわかっている。
少しだけ立ち止まってみたものの、千夏はすぐに笑みをこぼした。
「大丈夫よ。今日は特に、ね」
そこは彼に任せるわ、と小さく小さくつぶやきつつ。
56:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2020/11/08(日) 09:46:17.04 :FQVp12gN0
* * * * *
無事閉幕。片付けを終えて、同日夜。
ライラとプロデューサーはライブホール近くにあったカフェレストランで夕食をとることにした。オープンテラスの向こうには川が流れていて、この時間は少しだけ気候が穏やかで。
問題なくライブを終えられたこと、改めてここ最近いろいろ乗り越えて来られたことなど、まずは良かった事実を振り返る。
「それと、ライラがとっても素敵だったことも、ね」
改めてプロデューサーが口にする。本当に本当に、見惚れるような魅力があったし、成長しているのもわかるし、素敵だったよと。これからも頑張ろうね、と。
「……はいです。とっても嬉しいですよー」
目の前で告げられる彼の言葉に、幸せを隠せないライラ。俯き加減に視線を落とし、言葉を噛み締めるように振り返る。
「ライラさん、もっともっと、前に進めそうですね」
「よかった。本当に」
支えられることはなんでもするし、きっと守るから。
そう答えてくれる彼の優しい横顔を見遣るライラ。思いを馳せる。
運命の出逢いを信じる?
それはどこかの物語の始まりの言葉だったけど。
自分の物語があるのなら、それはきっと、ここに。そしてここから。
ぐう、と音がひとつ。ロマンチックを邪魔する音色は、どこか彼女らしくもあって。
「頑張ったもんね。いっぱい食べて、元気になろう」
「えへへ、ちょっと恥ずかしいですねー。でも、はいです♪」
運ばれてくる料理を丁寧に、笑顔で口に運ぶライラ。そんな様子を見つめるプロデューサー。
レッスンがあって、ライブがあって。苦労もあって、きらめくステージがある。そして今この瞬間がある。過程の果てにあるこの時間こそが幸せなのだと改めて感じていた。ライラも、そしてプロデューサーも。
* * * * *
無事閉幕。片付けを終えて、同日夜。
ライラとプロデューサーはライブホール近くにあったカフェレストランで夕食をとることにした。オープンテラスの向こうには川が流れていて、この時間は少しだけ気候が穏やかで。
問題なくライブを終えられたこと、改めてここ最近いろいろ乗り越えて来られたことなど、まずは良かった事実を振り返る。
「それと、ライラがとっても素敵だったことも、ね」
改めてプロデューサーが口にする。本当に本当に、見惚れるような魅力があったし、成長しているのもわかるし、素敵だったよと。これからも頑張ろうね、と。
「……はいです。とっても嬉しいですよー」
目の前で告げられる彼の言葉に、幸せを隠せないライラ。俯き加減に視線を落とし、言葉を噛み締めるように振り返る。
「ライラさん、もっともっと、前に進めそうですね」
「よかった。本当に」
支えられることはなんでもするし、きっと守るから。
そう答えてくれる彼の優しい横顔を見遣るライラ。思いを馳せる。
運命の出逢いを信じる?
それはどこかの物語の始まりの言葉だったけど。
自分の物語があるのなら、それはきっと、ここに。そしてここから。
ぐう、と音がひとつ。ロマンチックを邪魔する音色は、どこか彼女らしくもあって。
「頑張ったもんね。いっぱい食べて、元気になろう」
「えへへ、ちょっと恥ずかしいですねー。でも、はいです♪」
運ばれてくる料理を丁寧に、笑顔で口に運ぶライラ。そんな様子を見つめるプロデューサー。
レッスンがあって、ライブがあって。苦労もあって、きらめくステージがある。そして今この瞬間がある。過程の果てにあるこの時間こそが幸せなのだと改めて感じていた。ライラも、そしてプロデューサーも。
57:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2020/11/08(日) 09:46:52.18 :FQVp12gN0
* * * * *
カフェを出て、川沿いを少しだけ歩く。
「近いうちに、またエージェントとは打ち合わせをすると思う」
彼が告げた。もっとも、資料を揃えるまで少し時間がかかるだろうけれど、と。
「またそれに備えていろいろ話をしよう。でもひとまずは、ライブを終えたばかりだからゆっくりしてほしい」
「はいです。ありがとうございますです。……あと、ライラさんも実は、お手紙を書いてみようと思っています」
「そうなんだね。お父様へ?」
「はい。パパへ……そして故郷のみなさまへ」
頑張って書いてみますので、また確認してくださいますか? そう説明するライラに、わかったよ、と一言だけ返すプロデューサー。本当はずっと書いたり詰まったりを繰り返していたライラだけど、きっと今なら書ききれる気がする。そう感じていた。
達成感と、また次が始まるという使命感。そして、物語が続くのだという事実と、そこに胸躍る自分の気持ち。ライラを包む高翌揚感は、いろんな気持ちが綯い交ぜになったものだ。
月は煌々と輝いている。
わずかに、風が流れる。
「……プロデューサー殿」
「うん?」
ライラはぽつりぽつりと、思っていたことを話し始めた。
ずっといろいろ、考えていた。このまま穏やかに幸せを感じていられればと。こんな毎日が少しでも続けばいいなと。でもきっと、この運命はそうではなくて。物語を描きゆくように、いろいろ移ろいゆくものなのだと。そしてそれはきっと、とても素敵なことなのだと。
「……」
「あの日、故郷を離れ、わたくしは新たな運命の道へと出たのです。そしてまた別のあの日、ライラさんはひとつの出会いを経て、このきらめく舞台へ導いて頂いたのです。本当に、本当に、ありがとうございますですよ」
ライラが一つ、誰にも話していなかったことがある。
一人称でしばしば自らを「ライラさん」と名乗っていること。それはプロデューサーが、あの日初めて公園で出会った時に、そう呼んでくれたことに起因する。
「わたくし、ライラと申しますー」
「ライラさんか、素敵な名前だね」
それは何気ない返答に過ぎなかった。けれどライラにとってそれは印象深い言葉の響きであり、物語の始まりであり、今では大切な思い出でもある。あの瞬間から毎日が少しずつ変わって、アイドルという世界が始まって。いろんな世界を、いろんな自分を知ることができて。だから彼女は、ライラさんという言葉を、その響きを大切に抱き続ける。
「……こちらこそ、ありがとう」
ちょっとだけ恥ずかしそうにしつつ、プロデューサーも反応する。交わされる言葉は、お互い尽きぬほどある感謝の気持ちの表れだ。
そしてそれ以外にも、もう一つ。
* * * * *
カフェを出て、川沿いを少しだけ歩く。
「近いうちに、またエージェントとは打ち合わせをすると思う」
彼が告げた。もっとも、資料を揃えるまで少し時間がかかるだろうけれど、と。
「またそれに備えていろいろ話をしよう。でもひとまずは、ライブを終えたばかりだからゆっくりしてほしい」
「はいです。ありがとうございますです。……あと、ライラさんも実は、お手紙を書いてみようと思っています」
「そうなんだね。お父様へ?」
「はい。パパへ……そして故郷のみなさまへ」
頑張って書いてみますので、また確認してくださいますか? そう説明するライラに、わかったよ、と一言だけ返すプロデューサー。本当はずっと書いたり詰まったりを繰り返していたライラだけど、きっと今なら書ききれる気がする。そう感じていた。
達成感と、また次が始まるという使命感。そして、物語が続くのだという事実と、そこに胸躍る自分の気持ち。ライラを包む高翌揚感は、いろんな気持ちが綯い交ぜになったものだ。
月は煌々と輝いている。
わずかに、風が流れる。
「……プロデューサー殿」
「うん?」
ライラはぽつりぽつりと、思っていたことを話し始めた。
ずっといろいろ、考えていた。このまま穏やかに幸せを感じていられればと。こんな毎日が少しでも続けばいいなと。でもきっと、この運命はそうではなくて。物語を描きゆくように、いろいろ移ろいゆくものなのだと。そしてそれはきっと、とても素敵なことなのだと。
「……」
「あの日、故郷を離れ、わたくしは新たな運命の道へと出たのです。そしてまた別のあの日、ライラさんはひとつの出会いを経て、このきらめく舞台へ導いて頂いたのです。本当に、本当に、ありがとうございますですよ」
ライラが一つ、誰にも話していなかったことがある。
一人称でしばしば自らを「ライラさん」と名乗っていること。それはプロデューサーが、あの日初めて公園で出会った時に、そう呼んでくれたことに起因する。
「わたくし、ライラと申しますー」
「ライラさんか、素敵な名前だね」
それは何気ない返答に過ぎなかった。けれどライラにとってそれは印象深い言葉の響きであり、物語の始まりであり、今では大切な思い出でもある。あの瞬間から毎日が少しずつ変わって、アイドルという世界が始まって。いろんな世界を、いろんな自分を知ることができて。だから彼女は、ライラさんという言葉を、その響きを大切に抱き続ける。
「……こちらこそ、ありがとう」
ちょっとだけ恥ずかしそうにしつつ、プロデューサーも反応する。交わされる言葉は、お互い尽きぬほどある感謝の気持ちの表れだ。
そしてそれ以外にも、もう一つ。
58:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2020/11/08(日) 09:47:46.86 :FQVp12gN0
「プロデューサー殿」
ライラは叫ぶ。今一度。小さく、だけど確かな声で。
それは夏だから。そして、それこそが彼女だから。
「わたくしは……わたくしは、わたくしの物語のシェヘラザードになれるでしょうか」
それは彼女なりの決意と確認。己の物語をきちんと綴り、語れるような自分を目指したい。そう思えるようになったこともまた、なによりの宝物だから。
少しだけ視線を遊ばせた後、彼は頷いた。
「きっと、きっとね。どんな物語であろうと、信じるだけのものは続いていく。語り手であり、主人公でもある。ライラだけの、素敵な素敵な物語が」
それを聞いてはにかんで見せたライラ。
「…………ありがとう、ございますですよ」
きっとそう言ってくれるだろうと、そんな気持ちがライラにはあった。
それはとっても嬉しくて。だけど。だけど少しだけ、足りなくて。
「わたくしだけの物語。素敵な言葉ですね。でも、『だけ』というのは寂しいですねー」
彼女は続けた。その物語は、隣にプロデューサー殿はいらっしゃいますかと。わたくしは、運命をともにしていますか、と。これからも。
「……そうだね。きっと、ね」
「えへへ。ありがとうございますです♪」
視線が重なる。何気ない言葉尻をつかまえて語り返すライラは珍しい。そういう意味でなかったことはライラもわかっているけれど。でも、言葉で確認することはとても大切だから。
「今はこの瞬間を、この場所を。プロデューサー殿のそばを、実感させてくださいませ」
ライラがそっと、彼の肩に頭を寄せた。
この瞬間も、ずっと続けばいいなと感じながら。
でも、ライラは改めて思う。
きっとそのままとはいかないから。変わりゆく運命を、自分は選んだのだから。
だからこそ、もっときらめきを拾いにいこう。
「いつか……故郷のみなさまもファンになって頂けるように。ライラさん、もっともっと頑張りますですねー」
「きっとできるよ」
一緒に頑張ろうね、とプロデューサー。笑い合う。
「プロデューサー殿」
ライラは叫ぶ。今一度。小さく、だけど確かな声で。
それは夏だから。そして、それこそが彼女だから。
「わたくしは……わたくしは、わたくしの物語のシェヘラザードになれるでしょうか」
それは彼女なりの決意と確認。己の物語をきちんと綴り、語れるような自分を目指したい。そう思えるようになったこともまた、なによりの宝物だから。
少しだけ視線を遊ばせた後、彼は頷いた。
「きっと、きっとね。どんな物語であろうと、信じるだけのものは続いていく。語り手であり、主人公でもある。ライラだけの、素敵な素敵な物語が」
それを聞いてはにかんで見せたライラ。
「…………ありがとう、ございますですよ」
きっとそう言ってくれるだろうと、そんな気持ちがライラにはあった。
それはとっても嬉しくて。だけど。だけど少しだけ、足りなくて。
「わたくしだけの物語。素敵な言葉ですね。でも、『だけ』というのは寂しいですねー」
彼女は続けた。その物語は、隣にプロデューサー殿はいらっしゃいますかと。わたくしは、運命をともにしていますか、と。これからも。
「……そうだね。きっと、ね」
「えへへ。ありがとうございますです♪」
視線が重なる。何気ない言葉尻をつかまえて語り返すライラは珍しい。そういう意味でなかったことはライラもわかっているけれど。でも、言葉で確認することはとても大切だから。
「今はこの瞬間を、この場所を。プロデューサー殿のそばを、実感させてくださいませ」
ライラがそっと、彼の肩に頭を寄せた。
この瞬間も、ずっと続けばいいなと感じながら。
でも、ライラは改めて思う。
きっとそのままとはいかないから。変わりゆく運命を、自分は選んだのだから。
だからこそ、もっときらめきを拾いにいこう。
「いつか……故郷のみなさまもファンになって頂けるように。ライラさん、もっともっと頑張りますですねー」
「きっとできるよ」
一緒に頑張ろうね、とプロデューサー。笑い合う。
59:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2020/11/08(日) 09:48:33.77 :FQVp12gN0
しばしの逡巡。ドキドキを隠せないまま、だけどライラは再び口を開いた。
「…………アイドルは皆をとりこにするもの、と教わりました」
「そうだね、キラキラした姿で魅了する存在だからね」
「それはプロデューサー殿にも、でしょうか」
「?」
言うが早いか、隣に向いて。
そっとつま先立ち、ひとつ。
彼の頬に触れた唇は、どこまでも熱くて。
澄んだ青碧の瞳の先に映るのは、今この瞬間のようで、明日への想いのようで。
えへへ、と恥ずかしそうに笑ってみせるライラ。
「あなたを魅了してやまない、すてきなライラさんでありますように」
月は煌々と輝いている。
「《ウヒッブカ》ですね。プロデューサー殿」
好き。ライク。お慕い。いろんな言葉が頭を巡って。とっさにライラの口から綴られた言葉は、わざと遠回りのメッセージ。でもそれこそが一番の表現かもしれない、なんて思いつつ。
今日という日はあと数時間。午前零時は越えないけれど。
シンデレラは時を越えて、魔法を越えて。
「―― アイスクリームは、好きですか?」
これもまた、千夜一夜の一欠片。
しばしの逡巡。ドキドキを隠せないまま、だけどライラは再び口を開いた。
「…………アイドルは皆をとりこにするもの、と教わりました」
「そうだね、キラキラした姿で魅了する存在だからね」
「それはプロデューサー殿にも、でしょうか」
「?」
言うが早いか、隣に向いて。
そっとつま先立ち、ひとつ。
彼の頬に触れた唇は、どこまでも熱くて。
澄んだ青碧の瞳の先に映るのは、今この瞬間のようで、明日への想いのようで。
えへへ、と恥ずかしそうに笑ってみせるライラ。
「あなたを魅了してやまない、すてきなライラさんでありますように」
月は煌々と輝いている。
「《ウヒッブカ》ですね。プロデューサー殿」
好き。ライク。お慕い。いろんな言葉が頭を巡って。とっさにライラの口から綴られた言葉は、わざと遠回りのメッセージ。でもそれこそが一番の表現かもしれない、なんて思いつつ。
今日という日はあと数時間。午前零時は越えないけれど。
シンデレラは時を越えて、魔法を越えて。
「―― アイスクリームは、好きですか?」
これもまた、千夜一夜の一欠片。
60:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2020/11/08(日) 09:49:19.07 :FQVp12gN0
跋
遠い彼方の 記憶を浮かべ
少女は舞い 少女は語る
想いも夢も 風に乗せて
はるかな故郷 今いずこ
(ライラ/アイドル)
手紙を投函したのは秋の終わりのことだった。
赤茶けたポストをしばらく眺め、そっと一礼して、ライラはその場をあとにした。
パパ、ママ、またゆっくりお話をしましょう。このあいだのように。そうつぶやきつつ。
あらゆる物語に、始まりも、可能性も無数に存在する。そして終着点は選ぶものだ。
彼女には今、それが実感できる。そして、彼女のそれはまだまだ続くのだ。
跋
遠い彼方の 記憶を浮かべ
少女は舞い 少女は語る
想いも夢も 風に乗せて
はるかな故郷 今いずこ
(ライラ/アイドル)
手紙を投函したのは秋の終わりのことだった。
赤茶けたポストをしばらく眺め、そっと一礼して、ライラはその場をあとにした。
パパ、ママ、またゆっくりお話をしましょう。このあいだのように。そうつぶやきつつ。
あらゆる物語に、始まりも、可能性も無数に存在する。そして終着点は選ぶものだ。
彼女には今、それが実感できる。そして、彼女のそれはまだまだ続くのだ。
61:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2020/11/08(日) 09:50:32.31 :FQVp12gN0
以上です。
ありがとうございました。
以上です。
ありがとうございました。
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